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加藤榮一他編『鎖国』(ek001-01-03)

 ■「鎖国」論の系譜

 HP江戸時代の資本論「鎖国」論2022.02.27
  ・be000_mokuji.html

 資本論ワールド 編集部

  鎖国論集計2022.02.09 ・・・〔注:*印より、当該抄録にリンク〕
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 Ⅰ 「鎖国」論の系譜
 1. 岩生成一『鎖国』 1966年
               日本の歴史14 中央公論社1966年発行
 2. 加藤榮一・山田忠雄編『鎖国』 1981年 
               講座日本近世史2 有斐閣1981年発行
 3. 山本博文 『寛永時代』 1988年
 3. 山口啓二『鎖国と開国』 1993年  
               日本歴史叢書 岩波書店1993年発行
 4. 山本博文 『鎖国と海禁の時代』 1995年
 5. 大石 学 『江戸の外交戦略』2009年
        『新しい江戸時代が見えてくる』2014年
 6. 岩波書店-「シリーズ日本近世史」
     藤井譲治『戦国乱世から太平の世へ』 2015年
     藤田 覚『幕末から維新へ』 2015年

 Ⅱ 「鎖国」論の批判
  1. ロナルド・トビ『「鎖国」という言葉の誕生』2008年
  2. 荒野泰典 「鎖国」という言葉の経歴  20019年
         明治維新と「鎖国・開国」言説
  3. ヨーセフ・クライナー編『ケンプルのみた日本』1996年
     「急浮上した世界のケンペル研究(座談)」永積洋子ほか
  4. 八百啓介 『近世オランダ貿易と鎖国』 1998年
  5. 大島明秀 『「鎖国」という言説』 2009年
      第4章「近代日本における「鎖国」観の形成とその変遷


 加藤榮一・山田忠雄編 『 鎖国 』

 目次
 

   資本論ワールド 編集部

 論点00
   〔「鎖国」ー「幕藩制国家」成立の内在的関係 〕

 論点00
   〔「鎖国」ー 国際的秩序変動への対応策 〕

 論点0 鎖国制の完成

 論点0 鎖国をめぐる対外軟派と硬派

 論点0 「鎖国制」の完成

 論点0 鎖国下の貿易


  加藤榮一・山田忠雄編 『 鎖国 』  有斐閣1981年発行


  1章  統一権力形成期における国際的環境

 はじめに ―― 問題視角の設定

 日本の社会の歴史的進化の過程をきわめて巨視的に眺めた場合、そこには三つの大きな「変革」の時期を見出すことが出来る。その一は、原始社会から古代国家が形成されていく過程であって、西暦紀元前1世紀ごろ、弥生式文化の始まる時代から、律令国家の完成する8世紀初頭に完結する800年余にわたる時期。第二は、戦国動乱から豊臣政権の成立を経て、17世紀初頭の幕藩制国家の成立に至る約1世紀の期間、そして第三は幕末・維新の激動の半世紀である。
 これらの時期においては.その変革の動きが社会のもっとも根底的部分から発して社会の全構造に及び、その時代の人民のあらゆる階層が何らかの形でこの変革に関与し、激流にもまれながら、それぞれ固有のエネルギーを放出する。そして、その結果出来する社会構造も、それ以前とは一変し、民族文化の形成と発展の面でも、従来の伝統的な発展のコースを一見絶ち切るかのような著しい変化とさまざまな発展の可能性がいっせいに芽生える。
 また、これらの変革の時期にあって看過し得ぬことは、いずれの場合にも、外来文化が変革の過程で大きな役割を果たし、きわめてドラスティタクな影響を与えているということである。すなわち、第一の革期にあっては、鉄器の伝来、文字の輸入から律令の受容にわだる中国古代帝国の文化であり、第二の革期においては、キリスト教と鉄砲の伝来に象徴される、ルネサンス期の南欧カトリック文化であり、第三の革期では、言うまでもなく産業革命後の西欧資本主義文化である。ところで、これら三つの外来文化は、いずれも当代における世界的普遍性を持ち、自己の普遍性のうちに相手を併呑してやまぬきわめて強烈な自我を持った文化である点に共通性があり、日本はこの外来文化の普遍性に常に対応する形で、自己形成の一端を為して来たとも言えよう。ある場合は相手の普遍性に包摂されることにより、またある場合は相手の普遍性から自己を遮断することによって。

 第一と第三の革期において、日本は相手の普遍性に自己を委ねることにより新たな自己形成をなし遂げた。日本の古代国家の形成は.中国文化を全面的に採り入れ、その国家機構をほぼそのまま縮小再現することにより達成され、かつ、自らを中国帝国を中心とする国際的秩序の一環に位置づけることによって、自己の東アジアにおける国際的な位置を確定した。同様に、日本の近代国家の形成も、西欧資本主義文化の全面的導入と採用によって達成された。もちろん、この場合、西欧文化の導入に当たっては、一定の選択と重要な修正の行なわれたことを見のがすことは出来ない。しかし、19世紀後半の日本の政治的指導者たちが、西欧流の産業と国家体制の移植を日本の近代国家確立のための急務と考え、資本主義の確立に専念した事実を否定することは出来ない。

 論点00
    〔「鎖国」ー「幕藩制国家」成立の内在的関係

 これに対して、第二の変革の時期において日本は、南欧カトリック文化の普遍性に対して自己を遮断することによって自己形成をなし遂げた。それは兵農分離の進展から幕藩制国家の確立にいたる過程であり、いわゆる「鎖国」の完成に象徴される。ただし、この場合においても、あたかも鉄砲の導入が日本の領主階級の権力編成原理を一変させ、新たな封建的統一権力のもとで強力な権力機構を編成させるに至った事実が示すように、また、鎖国政策を推進させた当時の日本の支配者層が、ヨーロッパ文化の導入と国際情勢の把握に異常なまでの関心を示しでいた事実が示すように、相手の普遍性から自己を遮断する、ということは、必ずしも外来文化の拒絶を意味するものではない。

 むしろ、主体的選択の強化とも言うべきであろうか。そして、この時期、日本が外来文化の普遍性に対して示した態度は、以後19世紀に至るまで、日本に接近を試みんとする外来諸国民に対して、大きなインパクトとして作用した。また同時に、幕末維新期における日本人の外来文化受容の在り方をも規定することとなった点に留意したい。

 では、この「第二の変革」はなぜ「鎖国」に帰結するのであろうか。換言すれば、「幕藩制国家」の成立は必然的に「鎖国」をもたらすのか、という問題が検討されねばならない。この問題は、これまでにも、「兵農分離」→「石高制」→「鎖国」という図式によって、「幕藩体制」と「鎖国」の内在的関係を論理的に整理しようとする試みはなされてきた。本巻においても、第3章の荒野論文が、将軍権力と外交秩序との関係を通じて、この問題の解明に一定の見通しを立てている。ただし、この問題は、もう少し構造的に把握する必要があるであろう。


 論点00
  〔「鎖国」ー国際的秩序変動への対応策

 「鎖国」の問題を「幕藩体制」との内在的関係において捉えることと同時に、これを日本をとりまく国際的環境の中で分析していく必要がある。それは、「鎖国」が16、7世紀の東西の国際的秩序の変動の渦中で触発され、展開したことは紛れもない事実であって、かつ、「幕藩制国家」に帰結する日本の国家的統一への動きも、まさにこの時期の国際的秩序の変動の一環に他ならないからである。 以下、第1章において、筆者は「鎖国」の問題を、16、7世紀の、日本をとりまく国際的環境の中で位置づけるが、これにつづく幕府の鎖国政策の形成過程の問題は、第2章において取り扱いたい。
 
  ・・・・・・・・・  ・・・・・・・・・

  むすび ―――第1章の総括

 以上、イベリア両国民の海外進出事業の性格を分析し.ポルトガル・イスパニア両国の「航海領域」をめぐる対立抗争が、16世紀の東アジアにおいて、よりわけ中国と日本を舞台としてどのように展開したかを概観した。これによって、「兵農分離」(「兵農分離政策」ではない)の展開から幕藩制国家成立に帰結する、16世紀後半の、日本の社会的変革が、どのような国際的背景のもとに進展したかを、ある程度明らかにすることができたかと思う。
 本章の冒頭で「第二の変革期」と規定した変革が「鎖国制」をもたらしたことは、もとより、国内の階級関係の特質と階級闘争との関連、社会的分業関係の特質と市場構造との関連、そしてその上に現出する権力機構の特質と密接に係わる問題であるが、この「第二の変革」の過程で現出した統一的権力が、本章で触れたさまざまな外的要因との関連のもとに、江戸幕府の将軍権力を中心とする新たな対外的秩序を形成した事実を整理しておく必要があろう。そして、そのような対外関係の定置が、どのような経過をへてなされ、その結果確定した対外的秩序が幕藩制国家における人民支配のあり方とどのような係わりを持つかを明らかにする必要があろう。

 ・・・1章 統一権力形成期における国際的環境、おわり・・・



  2章 鎖国と幕藩制国家

 論点00
      3 鎖国制の完成 
         ―むすびに代えて―


  異国との関係の定置と鎖国

  
日本的華夷秩序の形成

 「公儀」による「外交権」の確立は、中国との関係を新たな対外関係として定置することを目的として出発した。そのため、幕府は中国と冊封関係にある朝鮮と琉球に「公儀」の「外交権」を承認させることにより、この問題を解決する契機を得ようとした。しかし、「公儀」の「外交権」確立には、中国を中心とする華夷の秩序から「公儀」が相対的に自立することを前提としていたため、この課題は達成されぬままに、朝鮮・琉球との交渉の過程で、この両者との間に変則的なかたちで国交関係が成立した。鎖国制の確立する過程で、この関係は、いわゆる「通信の国」として定置される。
 一方、幕府は「交易」の拡大を通じて、現実的に「公儀」の「外交権」確立の問題を処理した。その経過は第1節と第2節に述べた。すなわち、交易を求めて来航する異国船に対し、「公儀」の国家支配の主権を認知させ、機会均等の原則に基づく「交易の自由」を保証し、「交易」を基軸に彼我の「国交」を結ぶことである。この関係は「鎖国制」完成後の「通商の国」の起源をなす。

 家康政権下に、この「現実的」な「外交権」確立政策が進む過程で、イスパニア、オランダ、イギリスとの間に「国交」関係が結ばれるが、その時点では、相互の「敵礼関係」の認定はきわめてプラグマティークなものであった。しかるに、幕藩制国家支配の体制が整備され、将軍権威の絶対化・神格化が進展するのに照応して、これら諸国との「敵礼関係」が幕藩制国家秩序に整合的であるか否かが問われることとなる。それは、異国との関係を、日本を中心とする華夷の秩序の中に定置することでもある。その間に、イギリスとイスパニアとの関係は断絶した。前者はオランダとの商戦に敗退し、1623年自ら日本を退去した。後者との関係は、宣教師の国内浸透をもたらすのみで、幕府の期待する「交易」の成果が得られぬことから、次第に冷却し、1624年マニラ使節は参府を拒否され、彼我の国交は断絶した。
 オランダ人の日本接近は、東アジアにおける連合東インド会社の覇権の確立と最大限「通商の国」の貿易利潤の追求という目標達成のための戦略に終始一貫したものがあった。彼らは当初、日本をこの目標達成のための軍事的拠点としてフルに利用したが、これが幕府の国家的主権と矛盾をきたし、平戸商館の存立を脅かす問題に発展することと、新たに日中間の貿易仲介者として日本市場から大きな利潤を得る可能性が生じたことから、「商人」として日本に定着をはかる政策に転ずる。
 とくに台湾事件解決以来、オランダ人は「公儀」に対して「擬制的主従関係」を以て対応し、幕藩制国家の身分制支配に適合して交易の権利を確保せんとした。その結果、連合東インド会社は将軍の臣下として位置づけられ、「通信の国」としての資格を失う。・・・・・・・・・・
 「通商の国」中国 ・・・(略)・・・




 4 ポルトガル船来航禁止の意味
 
 幕府は1639年夏(寛永16年7月5日)、死を以てポルトガル船の日本渡航を禁止した。翌年、通商継続嘆願のため渡来したマカオ市の使節と乗組員は、13名の黒人水夫を除きことごとく処刑され、幕府はこの禁令がたんなる恫喝でないことを内外に示したのである。
 ポルトガル人の追放は「禁教」を基軸として見る限り、当然の帰結と見做されよう。しかし、実際の政策決定の過程を見ると、それは必ずしも当初から自明の結果ではなかった。幕閣会議の首脳はポルトガル人の追放に最後まで逡巡していたのである。


 論点0 
   鎖国をめぐる対外軟派と硬派

 島原の乱によりポルトガル人の追放がもはや決定的となったと思われる1638年以降も、酒井忠勝を首班とする幕閣会議の首脳は、なおもオランダ商館長に対して、オランダ船の貿易能力がポルトガル船のそれに替わり得るかを執拗に問い糺している。
 1639年、江戸に参府した商館長フランソワ・カロンは、5月22日(寛永16年4月20日)、国際情勢についての証言を求められて幕閣首脳の会合に出頭したが、席上、酒井忠勝は、ポルトガル船の来航を禁止した場合、朱印船の渡航を復活させることも考えられる、と発言してガロンの反応を試している。そこにはポルトガル船の貿易実績に対するなみなみならぬ未練のほどがうかがわれよう。
 寛永期に入って、ポルトガル船に対する長崎奉行の監督と統制は確立され、マカオ市当局の自己規制と相侯って、この時期、ポルトガル船による宣教師の密航や潜伏信徒に対する資金・情報供与の途はまず完全に閉ざされていた。ポルトガル船の来航は必ずしも「禁教」の貫徹に矛盾するものではなく、むしろマニラからの密航ルートの遮断が先決とも見られていたのである。さらに、幕閣首脳の中には、さまざまのルートを介してポルトガル船に自己の資金を託して、貿易利潤を得ていた者も少なくなかった。
 幕府権力中枢部における彼ら「対外軟派」は、長崎でポルトガル船・中国船を、平戸でオランダ船を統制して「鎖国制」を維持し得るという見解に立ち、その勢力は、オランダ商館長日記によれば、幕閣会議の多数派であった。しかし一方、幕府権力の中枢部には、将軍家光の意向を奉じ、「禁教」の徹底を最後まで遂行し、「禁教」貫徹の政策を督励する「対外硬派」と称すべきグループも存在した。その代表的人物で大目付・宗門改役の井上政重は、前記のガロン参府の折、酒井忠勝らがカロンを召喚する以前、5月20日に、独自に彼を私邸の晩餐に招いて諸般の事情を詳しく聴取していた。
 その翌年の1641年、政重は上使として西国に下向し、11月に平戸においてオランダ商館倉庫の破却と商館長の任期を一年に限る旨を上意として伝達した。これは平戸商館の長崎移転の前触れであったが、この決定は他の幕閣に何らの予告なしに行なわれたものであった。「対外硬派」は直接家光の意向を帯して、オランダ人に好意的な「対外軟派」の政策を一気に退けたのである。1639年のポルトガル船追放の決定もおそらく「対外硬派」が将軍の上意として幕閣会議の決断を促した結果ではなかろうか。


 論点0
  「鎖国制」の完成

  ポルトガル船来航禁止によって「鎖国制」は完成する
 これにより幕藩制国家の沿岸警備の体制が最終的に完成し、「公儀」による日本全土の沿岸と領海支配が確立する。そして、「禁教」は国家体制と一体化するのである。また、「鎖国制」の完成は、結果として年貢米の流通を基礎とする全国的市場を確立させ、石高制の維持に決定的な役割を果たしたのである。
 また、寛永13年鎖国令で打ち出されたポルトガル人との混血児の国外追放は1639年にはオランダ人、イギリス人との混血児とその母親に適用され、日本人と異国人の通婚が体制的に禁止された。「鎖国制」下を通じて異国人との通婚は、士農工商の身分外に格付けされた「傾城」のみに許容され、身分制支配の強化維持の役割をも果たすのである。

・・・・・・・以上、2章鎖国と幕藩制国家 おわり・・・・・・・・・・


 加藤榮一・山田忠雄編 『 鎖国 』

 論点0  5章 鎖国下の貿易 

   
―貿易都市論の視点から―

  中村 質  (なかむら ただし: 九州大学文学部助教授)

 はじめに
 問題の限定-直轄都市とその貿易

 〔幕藩制の対外的表現といえる鎖国体制――鎖国の祖法化
    
1633年(寛永10)年のいわゆる第1次鎖国令から39年の第5次鎖国令
 〔鎖国制の基本原理――鎖国の祖法化〕

 鎖国下の対外貿易は、長崎におけるいわゆる「唐船」(明朝ついで清朝治下の中国本土をはじめ、台湾・インドシナ地方・マレー~インドネシア地方艤装のジャンク船を総称した。本稿でもこれに従う)および蘭船貿易のほか、対馬宗氏による釜山の倭館での朝鮮貿易、「琉球国」による実質薩摩島津氏管掌の、琉球および福州琉球館等での貿易があり、さらに松前氏統轄下の蝦夷地交易も、広く対外貿易に含めるべきであろう。
 しかし所与の課題は、長崎の唐・蘭貿易にしぼり、かつ鎖国貿易の諸段階における、貿易都市長崎それ自体のもつ貿易や情報の管理機能、換言すれば長崎地役人を含む都市住民の貿易との係わり、を明らかにすることである。ここでは都市的管理機構の確立過程を述べ、研究蓄積の多い貿易の制度史的考察は最小限にとどめたい。
ところで幕藩制の対外的表現といえる鎖国体制は、1633年(寛永10)年のいわゆる第1次鎖国令から39年の第5次鎖国令(ポルトガル断交)、ついで41年の平戸オランダ商館の長崎出島移転や、近隣諸藩による長崎警備(第5次鎖国令と同日付西国大名にあてた「浦御法度」の拡充策)等にょって、いまだ唐・蘭関係以外についての確たる方針は未定であるが。結果的にはいちおうの完成をみた。

 鎖国令の規定は、周知のように、
 (1)日本人(船)の海外渡航・帰国の禁、
 (2)キリシタン禁制、
 (3)貿易統制に集約され、
 鎖国制の基本原理をなす。
(1)はともあれ(抜船等の問題は残るが)、(2)と(3)は具体的な貿易政策の展開過程では不可分のものであるが、これら鎖国をめぐる諸統制はキリシタン禁圧を主軸に展開したのではなかろうか。その論拠の一つとして、貿易制度としての糸割符制は、鎖国の形成過程で唐・蘭船にも適用されたが、その後も基本的な改革はみられない。むしろ前期的な糸割符商人団の特権とそれによる市場統制とは、より自由な新興商人の台頭、朱印船・ポルトガル船を駆逐して好況下のオランダ商館や、糸割符の糸価決定法(春船の糸価を夏・秋船にも適用)を逆乎にとった台湾鄭氏の輸入操作といった国際資本の圧力のまえに潰え、1655(明暦元)年以降18年間、彼我商人直接の自由な折衝(入札)による「相対商売」が続くことがあげられる。第二に鎖国の祖法化の過程における、イスパニアから分離した新生ポルトガル(1647年来航)や、イギリス(1673年渡来リターン号)の日本貿易再開願いに対する幕府の拒否理由は、イギリスは王室のポルトガル通婚など″カトリック″でおり、1645~60年台湾鄭氏による抗清の軍事援助願いの拒絶の根拠は、表向きには武器輸出・海外渡航の禁令であったが、真因は鄭氏の福州敗退(大陸放棄)という外的条件によるものであった。しかも本格的な貿易管理は、キリシタン問題が一段落した寛文期ごろから開始されるからである。

 ・・・・以下、省略・・・・・