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山本博文『寛永時代』/『外交としての鎖国』(ek001-01-04)

 ■「鎖国」論の系譜

 山本博文
   ー(1957-2020)東京大学史料編纂所教授(2001年) 専門は近世政治史。

 論点

 ■鎖国令ー第1次~第5次鎖国令
  Ⅰ 1988年 『寛永時代』 
  Ⅱ 1995年 『鎖国と海禁の時代』
  Ⅲ 2013年 『外交としての “鎖国” 論点0ー集計


 資本論ワールド 編集部 はじめに
  江戸時代の資本論
 
  山本博文『寛永時代』 1988年
 
      「鎖国」論の系譜

 
論点00
   ...「鎖国」と「海禁」...
 しかし、「海禁」という概念も、各国のそれぞれの政権がその政策を選ぶにいたった歴史的・対外関係的な諸条件の違いを捨象する危険性があり、あまり適切ではないと思われる。日本の「鎖国」は、キリスト教あるいは旧教国への対処のために、キリスト教厳禁政策のもとへ外交=貿易体制までも従属させて作り上げた幕藩制国家の原則であったのであり、荒野氏のように表面的な一致を列挙するのみでは同一の概念でくくることはできない。しかも、「海禁」という用語は目新しいが、その指す内容は従来「鎖国」と呼ばれていた体制とそれほど変わらないと思われる。
 一方、最近の「鎖国」否定論の見解には、国際的な物資流通の事実から、幕藩制国家の国際性を説く論調が目立つが、そのような国際的物資の限定的な受入体制の特質こそ「鎖国」論の基本であって、その意味ではケンペルの『日本誌』の一章を『鎖国論』として訳出した志筑忠雄の方がはるかに歴史的なセンスがあるといえよう。

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論点00

  荒野泰典『「鎖国」を見直す』2019年 
          ー「幕府編纂の公式史書」よりー

 ここで、近代になって公的に「鎖国」と呼ばれるようになる体制は、幕府の公式見解では「海禁」だったことを端的に示す史料を紹介しておきます。次に引用する、幕府の「正史」に当たる『徳川実紀』〔江戸後期、幕府編纂の公式史書〕(1809~49年)の記事がそれです。すでに、田中健夫先生が紹介されている史料ですが、「鎖国」論を主張、あるいは支持する研究者たちからは、ほとんど無視されてきた史料です。
  ー『徳川実紀』ー
 「室町殿の頃国船を異域へ渡さるゝには。かならず勘合ありて。彼此相照してその符信とせしなり。さるに後々となりては騒乱打続きしより。かかる定制もなく。国人等みだりに海に航して異国にをし渡り。強悍なるものは干戈を取てかの辺境を侵掠〔侵略〕し。さらぬはひそかに貿易して私利をはかりしより。
 海禁濫縦にしてをのづから異教をもうけ来る事となりぬ。当代耶蘇の査検おごそかに沙汰せられしに。まずこの制を立てられずばかなはじとやおぼしめしけむ。ⓑ寛永十三年五月長崎奉行榊原飛騨守職直に。老臣連署の下知状を授らる。其大略に云。今より異国に国船を遣はす事厳禁せらる。邦人ひそかに乗渡る者は死罪に処せらるべし。はた異国に渡り。彼地に永住せし者かへり来らば。斬に処せらるべしなど。種々仰下されし旨あり。ⓒ是よりしてわが船の他国へ往来する事絶はてゝ。わづかに沿海の地を漕輸するのみにて。海禁いと厳粛になりしなり。」(p.160)
 ー『「鎖国」を見直す』「小帝国」近世日本と「海禁」




  山本博文『寛永時代』  吉川弘文館1988年発行

   目次
  第1 16・17世紀の東アジア
  第2 家光新政の開始
       4 外交・貿易政策
  第3 島原の乱とその影響
       5「鎖国」と「海禁
        国家的貿易体制の成立
        「鎖国」と「海禁」
  第4 幕府・藩・朝廷
  第5 都市と農村
  第6 外からの脅威と幕政
  まとめ

 

  山本博文『寛永時代』


   第2 家光新政の開始

  4 外交・貿易政策

  (奉書船貿易)
 寛永八(1631)年、渡航の際には朱印状の代わりに年寄の奉書を携行することに改められている。
  
  寛永10年令
 
  家光の親政になって、この方針はより強化されていく。まず、家光は、長崎奉行であった豊後府内藩主竹中重義を罷免し、旗本2名を仮の奉行に任命し、寛永10年2月28日、家光は、長崎に赴任する今村正長と曾我古祐に全17ヵ条からなる条目を与えた。形式は、土井利勝・酒井忠勝・永井尚政・稲葉正勝・内藤忠重五人の年寄の連署奉書である(『武家厳制録』巻21)。
 この条目が出された原因は、竹中重義の不正である。すでに秀忠生前から彼について長崎の町人より訴状があがっていたが処理されず(『細川』10一421)、家光の親政になって断固たる方針がとられたのである。竹中罷免の主たる理由は、職権を悪用し朱印状なしで貿易に関係していたこと。キリスト教徒に適当な迫害を加えていなかったこと、などである(岩生成一『新版朱印船貿易史め研究』)。(中略)
 寛永10年令の内容は、第1・2・3条が奉書船制度の規定で、奉書船以外の船を渡航させないこと、日本人の出入国の禁止、が規定されている。竹中の最も大きな罪状が規則に反して船を仕立てていたことであったから、これは従来認めていた奉書船制度を規則通り運用させようとすることに主眼があづたようである。ただし、海外居住の日本人の帰国に関しては、ここで厳しく禁止されている。
 第4・5・8条は、キリスト教禁令の具体策で、キリシタンのいるところには、長崎奉行より指示を与えること、訴人には褒美を遣わすこと、船中の改めまで入念にすべきこと、が規定されている。これは、長崎より逃走して藩領内に潜入したキリシタンの捕縛を大名に指示することで実行されている。
 第6・7条は、異国船の要求のため江戸に言上するときの番船、キリシタン宣教師などの拘留等は、従来通り大村藩に申し付けること、が規定されている。大村藩は、長崎経営に関して特殊な位置にあったのである(五野井隆史「禁制下における大村藩とキリシタン宣教師」『長崎談叢』第71輯)。
 第9条以下は、貿易に関する規定で、第9・10・11・12・13・15・16条は貿易のやり方の規定で、中心は糸割符制(パンカド)に関するものである。

 糸割符制とは、周知のように生糸の一括買入制で、糸の価格の決定以前の諸商品の売買は禁じられていた。奉公人(ここでは武士のこと)の直接貿易が禁じられていることも注目される。第14条は、ポルトガル船帰帆の時期の規定で、これはオランダ人が帰帆中のポルトガル人に対して海賊行為をすることへの防止策である。第17条は、鹿児島藩の唐船貿易や平戸藩のオランダ船貿易に糸割符制を適用することが規定されている。これには、寛永8年唐船に糸割符を適用したところ、唐船が薩摩に行くようになったという事情があった。タイオワン事件がようやく解決して貿易を再開したオランダ人にとっては寝耳に水で、不満を表明している。しかし、ポルトガル貿易にかげりが見られる以上、従来問題にならなかった両国からの商品をも統制下に入れる必要が出てきたのである。
 これらは、すべて長崎奉行の任務に即して書かれており、竹中の罷免を契機に、従来より禁止されていたことを明記し、あるいは従来の方針をより厳密に行わせるために罪科を定めたり、細則を規定したりしたものであった。竹中重義の失脚以来、「すべての点が非常に厳しく調査されることになった」(『蘭館』1634年5月24日)のである。したがって、これを「鎖国令」とするのは適切でない。
 なお、寛永11年には、ほぼ同文の条目が渡されたが。同12年には、日本人の海外渡航が全面的に禁止され、鹿児島藩の唐船貿易の規定が落ち、同13年には、ポルトガル人と日本人の混血児等が追放されている。また、長崎町中には、寛永11年5月28日付の制札(『御触書寛保集成』)が公布されている。


  長崎奉行充奉書と大名 

 すでに述べたように、この条目は、長崎奉行に与えられたものであり、大名や民衆に示されたものではない。従来、この点があまり明確には認識されていないように思われる。(中略)

  オランダ人に対する伝達

 それでは、オランダ人に対してはどうであろうか。
 まず、寛永10年令であるが、大名と同じく伝えられていない。ただし、オランダ人の生糸にも糸割符が適用され、生糸やその他の商品も価格決定まで売りだしてはいけないという点については、厳しく命じられた。これを不満としたオランダ商館長クーケバッケルは、この年の秋の参府の際これを撤回されたき旨老中に嘆願しようとしたが、平戸藩主より思いとどまるよう忠告された。10年令は、糸割符制のオランダ人への適用と、帰帆時期の制限という理不尽な単発の命令として受け取られたのである。
 寛永11年令も同様で、7月11日、クーケバッケルは、「夕方、長崎奉行から手紙が来て、アウデワーテル号で来た品物は自由に下ろしてもよいが、ポルトガルのガレオッド船が到着し、その商品の売出しが許可されるまで、これを売ってはいけない、とあった」と記している。このように、禁止事項だけが、長崎奉行の書状で通達されたのである。そのため、オランダ人は、長崎奉行に、会社の到着した品物を売らせてほしいと要求したが、長崎奉行は、将軍の命令ということでオランダ人の要求を却下し、唐人以外は、鹿児島藩も含めて糸割符価格に従うことになっていることを強調した。
 そこで、寛永12年令の時には、上級商務員カロンが長崎代官二代目末次平蔵(茂房)に「皇帝(将軍)から長崎奉行に与えられた条項の写、及び皇帝の5つの都市の年寄が奉行に提出した要求書の写」を求め、これらは茂房からカロンに手渡された。出された日から約5ヵ月後のことで、要求によって長崎奉行ではなく長崎代官より渡されているのである。この時、茂房は、奉行の一人榊原職直と対立しており、奉行の命令とは考えにくい。おそらくは、オランダ人の強い要求により内々に渡されたものだと思われる。
 そして、寛永13年令は、日付から実に13ヵ月余も遅れて商館長の要求によりやはり茂房から渡された。これも内々の処置である。
 これまで、この条目の伝達が遷延したことについて、何人かの研究者によっていくつかの憶測がなされているが、タイオワン事件以後、オランダ人は自らを「皇帝陛下の永代の御被官(おひかん:家来)」と位置づけていたから、幕府が大名なみの扱いをしたとしても不思議はないのである。


  寛永11年5月29日令と長崎奉行の動き

 寛永11年5月29日、新任の長崎奉行に前年と同文の条目が渡された次の日に、何人かの大名に新しい年寄連署の奉書が出された。いま、残っているのは。島津氏充てのもの(『旧記後編』五-七二二)と。大村氏充てのもの(『大村家覚書』五)の二通である。
 これには、元和七年令の武器輸出の禁止がそのまま規定されたほか、異国より伴天連を乗せてきてもその領分に上げてはいけないこと、日本人の海外往来を禁止すること、の三項目が規定されている。すでに一般の日本人の海外に渡航しての貿易は禁止されていたから、この法度は、民衆が領内より外国へ渡航したり。キリシタン宣教師や信者が海外から帰国することを、その可能性のある藩に命じたものだといえよう。
 大名に与えられた法度は、これがすべてであり、折々長崎奉行より領内にキリシタンが潜入していることを知らされたり、長崎において家臣が外国人と取り引きをすることを禁じ心れたりするようなことは、個別にその都度指示されている。(中略)

 
  寛永12年正月9日の奉書

 奉書船の渡航の禁止は、一般には、寛永12年5月28日の長崎奉行充奉書で規定されると考えられているが、それは現実の追認にすぎず、その年の初めにはすでに禁止されていた。すなわち、長崎で寛永12年出航の奉書船を艤装していた朱印船貿易家たちのもとに、正月9日付の堀田正盛・松平信綱・阿部忠秋3人連署の奉書が届いたのである(『蘭館』1635年3月12日条)。
 奉書船渡航の停止を指示した理由は、奉書船を媒介に武器の輸出やキリシタンとの接触、さらに在日宣教師への援助までが行われているという情報が家光の耳に入ったからであった。家光は、日本人の海外貿易を許している限りキリスト教徒の根絶はできず、また、日本人の海外での紛争は不可避的におこるであろうと考えるにいたった。正盛らの奉書は、平野藤次郎、角倉素庵、茶屋四郎次郎らのもとに届いており、彼らはこの年の船を出すのを諦めざるをえなかった。彼らは、奉書船貿易の復活を熱心に嘆願したが、閣老から、「貴下たちは何故このように愚かなこと、即ち行ってはならず、行われる見込みもないことを、要求するのか。皇帝が禁止したことを、その命令に反して、我々が何か頼みに行くことが、どうして許されようか」と拒絶している(『蘭館』1636年3月22日条)。

 日本近世初期の商人資本は、これら貿易に関与する特権的大商人を中核とした糸割符仲間が中心であった。糸割符の制度の創始は、慶長9年(1604)で、京・堺・長崎の由緒ある町人によって構成されていたが、寛永8・9年に、江戸・大坂が加えられて五ヵ所仲間となり、さらに博多・久留米・柳川・小倉・佐賀などの諸商人への分国(ぶんこく)糸も付加された。しかし、寛永期の日本の場合、西欧重商主義諸国が他国との対立・抗争のなかで貿易による富国強兵政策をとったのと違い、上層階級の必要物資調達のための貿易であったため、まったく幕府の政策を制約するような力を持たなかったと考えられる。
 日本人の海外渡航を厳禁するにしても、幕府直営あるいは幕府に近い朱印船商人の貿易船派遣は、日本の必要物資を獲得する上でも重要で、年寄たちもその点は十分認識していた。しかし、家光は、日本の武具の輸出やキリシタンへの外からの援助が外ならぬ奉書船を通して行われたことを決定的に重視し、それを抑圧するのに最も「根本的な」方策をとった。この決定は即座に行われ、年寄たちの意見などほとんど考慮されていないようである。本来、そのような政策を取る場合、今後の貿易の見通しを的確に把握し、たとえばオランダ貿易を促進する方策も合わせて行うなどの考慮があるべきであるが、家光は、キリスト教禁圧にすべての対外政策を従属させたのである。

  ・・・以下省略・・・・
山本博文『寛永時代』 1988年

 第3 島原の乱とその影響

   5 「鎖国」「海禁」

 
論点00
    
国家的貿易体制の成立

 これによって、幕藩制国家の貿易体制は、オランダ人と中国の私貿易に対しては長崎に一元化されることになった。そして、朝鮮貿易については対馬藩が、琉球貿易については鹿児島藩が、アイヌとの交易は松前藩が、それぞれ担当している。松前氏は、家康よりアイヌとの独占的交易権を認められており、寛永期には「商場(あきないば)知行制」という特異な俸禄形態が成立した。商場は、アイヌの漁猟場にほぼ照応する形で設定され、家臣が知行の代替として交易したが、領主権はかなり制約されたものであった(榎森進「アイヌの支配と抵抗」『講座日本近世史2 鎖国』)。鹿児島藩の場合、琉球貿易とはいっても実質的には琉球を介した中国との朝貢貿易であったことは周知のことであるが、歴史的に形成され、幕府や他の藩では代替できないものを除いて、幕府の貿易の長崎直轄体制が成立したのである。

 この体制は、対等・平等な関係ではなく、外観上はすべて日本中心に編成されていることに特徴がある。朝鮮は独立国であり、日本に朝貢しているわけではなかったが、その使節をいかにも朝貢使であるかのように演出した。琉球は確かに鹿児島藩の属国となっていたが、明と(後に清とも)冊封関係を結び、幕府はそれを容認している。それにもかかわらず、やはり将軍即位の時には慶賀使、琉球国王即位の時は謝恩使が江戸に遣わされている。オランダ人は、東インド会社の一出先貿易機関にすぎなかったが、寛永10年以後は毎年江戸に参府して将軍に拝謁することを強制することによって、幕府の臣下であるがごとくの演出が行われている。この外皮は「日本型華夷意識」と呼ばれているが、このような演出によって、日本国内には、将軍の威光が世界に広がっているような印象を与え、民衆支配の絶大な道具立てになったのである。
 しかし、よく考えて見ると、貿易体制自体は、すでに寛永10年にはほぼ確立しており、その後の動きは微調整にすぎなかったと考えることができる。オランダ人が海賊であるという認識は幕府に根強くあり、その頃までは貿易量も少なかった。そのため、琉球・朝鮮貿易を鹿児島・対馬両藩に任せたのと同様平戸藩に任せたとしても、それ程の問題はなかった。その上、鹿児島藩の唐船貿易も、平戸藩のオランダ船貿易も糸割符制が適用され、幕府としてはほぼ直轄に準ずる体制を作り上げていた。したがって、寛永10年代に急速に進展する「鎖国」政策は、筆者が述べてきたようにキリスト教禁令を本質としたもので、貿易体制の再編はそれに付随するものにすぎなかった
 しかし、このことは、幕府に貿易への関心がなかったことを意味しない。(中略)家康は、明との国交回復と貿易体制構築に努め、並行して貿易拡大のため西欧諸国に着岸地の自由を保証した。また、日本からは朱印船を積極的に派遣し、諸大名に対しては朱印状の発行を停止して大名独自の貿易に枠をはめた。秀忠は、ポルトガル・オランダ・イギリス船について、長崎と平戸への直轄体制を敷き、一時鹿児島藩の唐船貿易も禁止しようとした。奉書船貿易もまた秀忠の創始である。

 このような動きは、個々の政策にはそれぞれの理由があるにしても、グローバルに見れば貿易の中央政権への集中策であり、大名対策であるとともに、東アジア貿易体制への国家的参入であり、日本に来航する重商主義諸国への幕藩制国家なりの対応であった。渡航朱印状は、日本の海賊禁圧を前提とし、国家として認めた貿易船に限って与えられ、これによって東アジア諸国との貿易が可能になった。また、開港場の限定は、明・清や朝鮮等他の東アジア諸国にも広汎に見られる貿易体制であり、その意味では普遍性を持つ。これによって、諸大名の経済力が強大になることを防ぐとともに、個々の大名が西欧諸国に個別的に従属することも阻止しえた。国家的なシステムとして貿易を進める重商主義諸国に対応するためには、必然的に幕府が前面に立ち、西欧諸国の活動を限定するような政策が必要だったのである。


 
論点
 
  「鎖国」と「海禁」 

 田中健夫氏〔1923-2009年〕は、日本の「鎖国」が、東アジアの伝統的な国際慣習や制度に根ざしたものであることを指摘した( 鎖国について〔1976年〕『歴史と地理』225号)。これは、日本の「鎖国」を日本独自の発明のように考える誤りを鋭くついており、これを受けて、最近では「海禁」という用語が使われるようになっている。たとえば、荒野泰典氏は、「『海禁』政策は国家の沿岸部にたいする出入国管理体制である」と規定し、「明・清、李氏朝鮮、近世日本の三国に共通して見られる」と総括している(「国際認識と他民族観」『現代を生きる歴史科学』2)。
 〔資本論ワールド編集部「鎖国」を見直す
   荒野泰典「海禁」ー近世の国際関係

 貿易直轄体制の整備と、家光政権の進めた日本人の海外渡航禁止やポルトガル人追放の措置を峻別して捉えようとする本書の立場から言えば、両者を混然一体とさせてきた従来の「鎖国」観は訂正されねばならない。しかし、「海禁」という概念も、各国のそれぞれの政権がその政策を選ぶにいたった歴史的・対外関係的な諸条件の違いを捨象する危険性があり、あまり適切ではないと思われる。日本の「鎖国」は、キリスト教あるいは旧教国への対処のために、キリスト教厳禁政策のもとへ外交=貿易体制までも従属させて作り上げた幕藩制国家の原則であったのであり、荒野氏のように表面的な一致を列挙するのみでは同一の概念でくくることはできない。しかも、「海禁」という用語は目新しいが、その指す内容は従来「鎖国」と呼ばれていた体制とそれほど変わらないと思われる。

編集部注海禁」中国 明清時代に行われた領民の海上利用を規制する政策・ウィキペディア参照〕

 一方、最近の「鎖国」否定論の見解には、国際的な物資流通の事実から、幕藩制国家の国際性を説く論調が目立つが、そのような国際的物資の限定的な受入体制の特質こそ「鎖国」論の基本〔編集部注であって、その意味ではケンペルの『日本誌』の一章を『鎖国論』として訳出した志筑忠雄の方がはるかに歴史的なセンスがあるといえよう。
 〔編集部注〕:この説明では「貿易管理政策」と少しも違わない。ダブルスタンダードとなる。新語時事語事典:同一の基準・指針を適用しうる状況において、異なる基準が不公平・不平等に適用されること。場合に応じて異なる原理を使い分けること。〕
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  ・まとめ

  幕藩制国家を特徴づける「鎖国」体制は、その機構的特質を考えれば、強固に構築された沿岸防備体制と日本人の海外渡航禁止、それに加えて「通信の国」朝鮮・琉球と「通商の国」オランダ・中国の四国以外とは通交・貿易をしない、という限定的な外交体制があげられる(アイヌの場合は次第に内国化の方向がとられている)。このような体制は、当初から想定されて構築されたものではなく、本書で述べたような過程を経て成立したのである。当初必ずしも固定的でなかったこの体制が、17世紀後半の東アジア情勢の安定とともに固定化し、それが祖法化されて「鎖国的状況」とも言うべき状況を生みだす。この最終的画期は、中村質氏が主張された、イギリス東インド会社より貿易再開のために派遣されたリターン号に対し再渡航を禁じた延宝元年(1673)までの間とするのが妥当であり(前掲『島原の乱と鎖国』)、後年蘭学者志筑忠雄がケンペルの『日本誌』の一部を『鎖国論』として翻訳・紹介したのは、まさに日本の「鎖国的状況」を反映していたからであった。

編集部注:参照資料:①広瀬隆『文明開化は長崎から』不世出の天才・志筑忠雄。②荒野泰典『「鎖国」を見直す』第1部鎖国」という言葉の誕生。〕

 限定的な外交関係を本質とする「鎖国」の成立には、対外関係の幕政への影響という観点から捉えた場合、中国との国交・貿易体制の成立は不可能であったから、中継貿易国である重商主義諸国の動向が密接な関係をもった。すなわち、この政策は、ポルトガル・イスパニアという旧教国の報復攻撃に対する幕府の対応であったといいうる。「鎖国的状況」の大きな特徴である全国的な沿岸防備体制と自国民の海外渡航禁止の措置は、まさにキリスト教と旧教国への政治的対応の中で成立したのである。単に外交・貿易関係の限定のためなら、あれほど厳重な防備体制は必要でなかったであろう。

  ・・・以下省略・・・・