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山口啓示『鎖国と開国』(ek001-01-06)

 ■「鎖国」論の系譜

 HP江戸時代の資本論「鎖国」論2022.02.27
  ・be000_mokuji.html

 資本論ワールド 編集部

 鎖国論集計2022.02.09 ・・・〔注:*印より、当該抄録にリンク〕
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 Ⅰ 「鎖国」論の系譜
 1. 岩生成一『鎖国』 1966年
               日本の歴史14 中央公論社1966年発行
 2. 加藤榮一・山田忠雄編『鎖国』 1981年 
               講座日本近世史2 有斐閣1981年発行
 3. 山本博文 『寛永時代』 1988年
 3. 山口啓二『鎖国と開国』 1993年  
               日本歴史叢書 岩波書店1993年発行
 4. 山本博文 『鎖国と海禁の時代』 1995年
 5. 大石 学 『江戸の外交戦略』2009年
        『新しい江戸時代が見えてくる』2014年
 6. 岩波書店-「シリーズ日本近世史」
     藤井譲治『戦国乱世から太平の世へ』 2015年
     藤田 覚『幕末から維新へ』 2015年

 Ⅱ 「鎖国」論の系譜ー批判
  1. ロナルド・トビ『「鎖国」という言葉の誕生』2008年
  2. 荒野泰典 「鎖国」という言葉の経歴  20019年
         明治維新と「鎖国・開国」言説
  3. ヨーセフ・クライナー編『ケンプルのみた日本』1996年
     「急浮上した世界のケンペル研究(座談)」永積洋子ほか
  4. 八百啓介 『近世オランダ貿易と鎖国』 1998年
  5. 大島明秀 『「鎖国」という言説』 2009年
      第4章「近代日本における「鎖国」観の形成とその変遷


 山口啓二『鎖国と開国』
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                岩波書店 1993年発行
 目次
 はじめに ―院内銀山の人たち
 第1講 「鎖国」―地球的世界の形成と近世日本の対応
  1 新しい金銀生産方法の導入
  2 「製鉄革命」がもたらしたもの
  3 国際的通貨となった日本の銀
  4 公儀権力の形成と琉球・朝鮮
  5 〔◆論点〕「鎖国」の実態はどうであったか
 第2講 近世の武家政権と伝統的権威
 第3講 支配組織と再生産構造
 第4講 幕藩体制下の政治史
 第5講 思想と文化の特質と展開
 第6講 幕藩制社会の変質
 第7講 開国―近代日本への道程
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 
◆論点1

 〔鎖国と鎖国体制という用語問題〕

「 次は長崎の問題です。長崎というのは、公儀的世界が国内を統制しやすい形で地球的世界と関係をもつための窓口です。世界と断絶して、自分だけが閉じ籠るための鉄扉ということではありません。これは日本だけではなく、たとえば清国の場合でも同じように、広州をそのような場所にしてその他の場所に外国船が来ることを拒絶しました。そのような意味で、長崎というのは、公儀的世界の側からいえば、閉ざしたというよりは、限定的に開いたという意識の下に位置づけられていた、というふうに思います。
 鎖国という言葉が、われわれにどんなに多くの誤解を与えたか。鎖国と言うと、地球的世界から遠ざかってしまって、日本がまったく孤立する形で独自の世界をつくった、というふうに理解されがちでした。しかしそれはまったくの誤解です。そうではなく、当時の地球的世界の一翼に、日本の幕藩体制、公儀の体制があり、幕藩体制というものをその一部に置いたのが、当時の地球的世界であったということです。中国もそのような体制であり、朝鮮も、琉球・安南も同じです。東アジアだけでなく、ヨーロッパ、その他の地域でも、世界に対する対応のさまざまな仕方をそれぞれの民族社会がとっていたのであって、それらすべてを複合したもの全体が、当時の地球的世界であった。いわゆる鎖国体制をとった日本も含めて、地球上の人類はこのようにして一つの世界をつくっていた、というのが当時の地球的世界のあり方です。」


 ◆論点2

 〔資本主義世界市場の形成と志筑忠雄の『鎖国論』―注1〕

 「~資本主義世界市場というものが形成され、次々にヨーロッパ以外の世界の諸国・諸民族の社会体制をゆりうごかし、資本主義世界市場の中に取りこんでいく過程で、日本が最後まで残って、相変らず独自な公儀的対外関係を墨守していた。それでは障害になる。資本主義世界市場の一環として国を開け、ということで、18世紀70年代以来欧米列強が日本の戸を叩くに至ったのですが、その段階で、欧米列強と日本の両者が共に使ったのが鎖国という言葉です。向うから言えば、閉鎖した国を開けということであり、こちらから言えば、資本主義世界市場の波浪から公儀的世界〔徳川幕府の支配〕の体制を守ろうということでした。そのような状況で、国を開くという言葉にたいして、国を鎖す〔とざす〕、という言葉が、享和元(1801)年に出され志筑忠雄の『鎖国論』(ケンペルの『日本史』の抄訳)に初めて用いられ、やがて祖法〔祖先から代々伝わる法〕としての「公儀的対外関係」そのものの表現として定着したのです。~」
 〔注1: この叙述「~」は、大変不正確で誤解を与える記述になっている。〕


 山口啓二『鎖国と開国』

 第1講 「鎖国」―地球的世界の形成と近世日本の対応
 
  5 「鎖国」の実態はどうであったか


 明を中心とした朝貢貿易体制、これは教科書まで含めて、いわゆる「勘合貿易」と呼ばれてきました。これについても、田中健夫さんがたいへん優れた論文を書いています。田中さんはこの論文の中で、「勘合符」とは渡航証明書であって、貿易の許可を目的としたものではないのであり、「勘合貿易」という慣用の言葉は誤解をうむから直したほうがいいと主張し、貿易の形態からは、「進貢貿易」、「朝貢貿易」などの表現をとるのがよいと提案しています。しかし、これも新たな誤解を生みそうです。たとえば「朝貢貿易」には随伴した私貿易が含まれます。寧波その他でおこなわれる牙行という中国商人との貿易です。牙行が明政府の印を押した特許状を貰っていることは事実ですが、そこで取引きするのはいわば私貿易です。そういう私貿易のほうが、貿易の量、額としてはずっと多く、そういうものを含めたもの全体を、朝貢貿易という言葉で括ると、これまた誤解されかねない。だから、ここではかりに、いわゆる「勘合貿易」と言っておきます。

 ところで、中世のいわゆる「勘合貿易」体制に代る、近世の公儀が公認した貿易体制を何と言ったらいいか。ちょっと熟さない言葉ですが、「御朱印貿易体制」と言っておきましょう。これには、いくつかの側面がありました。一つは、日本の大名とか商人たちが、渡来外国船との貿易を許される場合に、豊臣政権以来、中央権力者の朱印状によっておこなわれていることです。中世の場合には、渡来外国船との貿易は、中央政府が独占するとか、その特許を要するとかいうことはありませんでした。浦々の慣行が、あるいは諸権門や地域権力の権益が、優先されていました。そういう中世的な貿易体制を解体して、中央権力が一切を統制するというのは、秀吉の段階からはじまり、朱印状によっておこなわれたということです。ちょうど牙行が、明政府の特許状によって私貿易をおこなうのと似たような形で、日本の大名も商人も、来航した外国船と関係する場合には、中央政府の特許が必要になったということであります。もう一つは、日本船が外国に行く場合にも、中央権力者の朱印状による特許が必要だったことです。このことは慶長六(1601)年に、家康が安南政府にあてた書翰のなかで、日本船が貴国に行くときには、自分の印を押した書類を持っていく、これを持たない船の貿易は許してはならない、と予告しています。
 渡航日本船に発給した朱印状の初見は慶長七(1602)年のものですが、以来、いわゆる御朱印船貿易は、鎖国によって日本人の海外渡航ができなくなるまで続けられます。さらにもう一つは、外国船に対する渡来・貿易の特許も、同じく中央権力者の朱印状によっておこなわれたことです。スペインは、いまのメキシコ地域を占領してヌエバ・エスパニャという植民地を経営していました。家康がそのヌエバ・エスパニャから渡来する商船のために、朱印状を下付するという書翰を出したのが、慶長七年のことです。この書翰に述べられている朱印状の現物が、現在、マドリードの国立図書館に残されているそうです。
 この書状によりますと、「この朱印状を持ってくれば、どこの港でも自由に入港できる、品物の売買は自由にできる、他の港へ移動することも自由にできる、日本の国内にキリスト教をひろめさえしなければ住むことは自由である」ということがうたってあって、やがてイギリス人や、オランダ人が日本に来たときも、同様の朱印状によって特許したのです。
 このように、国内の大名や商人に貿易の権限を与える場合にも、また日本の船に外国への渡航および外国との貿易の特許を与える場合にも、外国船が日本へ来航し商売をする特許を与える場合にも、この中央権力者の朱印状が使われました。この「御朱印貿易体制」は、寛永の鎖国によって大きく変質させられてしまいます。しかし、そこに見られるのは、地球的世界の形成に加わった東アジアの、中国を中心とした朝貢貿易体制の変容に対応して、わが公儀を中心に新たな通交・貿易秩序を創出しようという動向であったと思います。

 〔キリシタン禁教の問題〕
 もう一つの大問題は、キリシタン禁教の問題であります。私は「日本の鎖国」(岩波講座『世界歴史』16巻)でこのキリスト教の問題についても取り上げました。そもそも日本の統一権力は、一貫して、キリスト教さえひろめなければ商売は自由であるという、商教分離の政策をとっていました。
それは秀吉が、天正十五(1587)年に発布したバテレン追放令と言われるものの中でも保証したことです。それには二つの要因があります。一つは日本の統一権力が、ヨーロッパ人との通交をそもそも最初から貿易関係としてのみ位置づけ、キリスト教というものに対して非常な警戒心を抱いていたということです。これは一体何故なのか。
 それは、いわゆる二十六聖人の殉教をひきおこした1596(慶長元)年のサン・フェリッペ号事件、すなわち土佐浦戸港に寄港したサン・フェリッペ号の積荷を秀吉が没収した際、その船の水先案内が、スペインの広大な領土は、キリスト教をひろめ、信者の内応を得て征服したものだ、と語ったという話をはじめ、その後何度か、日本に来たポルトガル人・スペイン人たちの言動が、日本人に警戒心を抱かせ、「キリスト教は、日本を占領し、植民地にするための手段である」という認識が次第に強まっていったということが確かにあって、それがキリシタン禁止の第一の理由となったことは間違いないところです。少なくとも鎖国に至るまで、意識された形ではこれが主要な理由であったといってよいでしょう。しかしどうもそれだけでは、強大な武威を誇る統一権力が、あの猛烈な弾圧を含む禁教政策や、禁教を楯にとった鎖国政策をとるに至った理由を十分には説明できないと思います。


 〔支配的イデオロギーとキリシタン禁令〕

 そこで私がもう一つ取り上げたいのは、豊臣政権にせよ、徳川幕府にせよ、体制として一つの強固な支配イデオロギーを持ちえなかったという問題です。たしかに神仏習合の仏教が主要な支配のイデオロギーとして存在していました。それは、秀吉の言葉で言えば、八宗・九宗と言われるような、さまざまな宗派によって成り立っており、その多くは民間信仰に深く根を下していました。したがって仏教は統一権力の統制下に置かれ、人民支配の道具となりましたが、キリスト教に対応するだけの、統一した支配イデオロギーとはなりえなかったと、私は考えています。また、のちに封建教学として確立する儒学は、当時なお一部の教養でしかなかったことも指摘しておかなければなりません。
 もちろん、仏教も儒教も、それぞれの体系を持った宗教であり学問でありましたから、仏教なり儒教なりの内部の論理からしても、キリスト教というのは、いわば宗論のもっとも厳しい相手として受け止められていました。

 しかしそのことのみでは、権力を動かすまでには至りません。やはりもっと別の理由を考えなければならないでしょう。加藤栄一さんは、その点について、次のように指摘しています。すなわち、秀吉の段階では、兵農分離政策を推進し、統一政権を確立するにあたって、これに敵対する勢力の鎮圧が第一の課題であって、禁教はこれに随伴する問題にとどまっていた。これに対し、幕府が禁教令を発した段階では、兵農分離政策も一段と進展して、幕藩権力による大名・給人の統制把握が一段と強化されている。幕藩国家権力の形もほぼ完成に近い段階に達していた。したがって、サン・フェリッペ号事件以来、キリシタンに対して支配層の抱いていた危惧が、こういう歴史的状況の下で、国家権力そのものに対する危険な存在として、より明確な形で意識されたというのです。
 いずれにしても、キリシタン禁教というのは、結果論的に言えば、人民支配の、あるいは大名統制の大きな装置であったことは間違いありません。つまりイデオロギーの中身は二の次で、権力の側から邪教・妖教として禁圧されていることに意義があるのです。仏教なり、儒教の側から、排耶蘇論がいろいろと展開されていますが、そのような論議の中身はともあれ、キリシタンというだけで権力から弾圧される。そして、キリシタンを知らない人間まで恐れおののかせる。このようなイデオロギー支配のあり方こそが、キリシタン禁教の果した第一の役割です。キリシタン禁教政策は、キリシタンがほとんど隠れて見えなくなってからも一貫して取られ、幕末・維新期まで、高札の一つに掲げられつづけたということが、禁教の意味を考える上で大事なことだと思います。さらに言えば、このようなキリシタン禁教まで含めて地球的世界への対応と評価することができ、また、そのように地球的世界に対応していくことで幕藩制と公儀権力が成立したことの意味を考える必要があると考えます。


 〔長崎と鎖国という言葉〕

 次は長崎の問題です。長崎というのは、公儀的世界が国内を統制しやすい形で地球的世界と関係をもつための窓口です。世界と断絶して、自分だけが閉じ籠るための鉄扉ということではありません。これは日本だけではなく、たとえば清国の場合でも同じように、広州をそのような場所にしてその他の場所に外国船が来ることを拒絶しました。そのような意味で、長崎というのは、公儀的世界の側からいえば、閉ざしたというよりは、限定的に開いたという意識の下に位置づけられていた、というふうに思います。
 鎖国という言葉が、われわれにどんなに多くの誤解を与えたか。鎖国と言うと、地球的世界から遠ざかってしまって、日本がまったく孤立する形で独自の世界をつくった、というふうに理解されがちでした。しかしそれはまったくの誤解です。そうではなく、当時の地球的世界の一翼に、日本の幕藩体制、公儀の体制があり、幕藩体制というものをその一部に置いたのが、当時の地球的世界であったということです。中国もそのような体制であり、朝鮮も、琉球・安南も同じです。東アジアだけでなく、ヨーロッパ、その他の地域でも、世界に対する対応のさまざまな仕方をそれぞれの民族社会がとっていたのであって、それらすべてを複合したもの全体が、当時の地球的世界であった。いわゆる鎖国体制をとった日本も含めて、地球上の人類はこのようにして一つの世界をつくっていた、というのが当時の地球的世界のあり方です。

 〔資本主義世界市場の形成と志筑忠雄の『鎖国論』―注1〕
 資本主義世界市場というものが形成され、次々にヨーロッパ以外の世界の諸国・諸民族の社会体制をゆりうごかし、資本主義世界市場の中に取りこんでいく過程で、日本が最後まで残って、相変らず独自な公儀的対外関係を墨守していた。それでは障害になる。資本主義世界市場の一環として国を開け、ということで、18世紀70年代以来欧米列強が日本の戸を叩くに至ったのですが、その段階で、欧米列強と日本の両者が共に使ったのが鎖国という言葉です。向うから言えば、閉鎖した国を開けということであり、こちらから言えば、資本主義世界市場の波浪から公儀的世界〔徳川幕府の支配〕の体制を守ろうということでした。そのような状況で、国を開くという言葉にたいして、国を鎖す〔とざす〕、という言葉が、享和元(1801)年に出され志筑忠雄の『鎖国論』(ケンペルの『日本史』の抄訳)に初めて用いられ、やがて祖法〔祖先から代々伝わる法〕としての「公儀的対外関係」そのものの表現として定着したのです。

 荒野泰典さんは、日朝関係について、「大君外交体制」という用語で特徴づけています。またこれとは別に、当時の幕藩体制下における外国との関係の全体を示す言葉として、幕藩体制的外交体制という言葉を使っています。また田中健夫さんの説によって、中国はじめ東アジア諸国の共通の体制として「海禁」という表現のほうがふさわしいとも言っています。これらの言葉を借用してもよいのですが、外交という言葉はなじまないのではないかと考えて、「公儀的〔武家・幕府など公的な対象〕対外関係」という表現を使ってみました。「鎖国」という言葉で形成されたイメージを避けたいと考えたからです。しかし、いわゆる「寛永の鎖国」が日本の人びとに「公儀的対外関係」以外の自由な対外渡航を一切禁止したという点では、まさに「鎖国」でした。〔注:あいまいな定義で、広範囲に指示対象が拡散する〕


 〔長崎の役割〕

 さて長崎は、そういう対外関係のもとでオランダ商人と中国商人に開かれた貿易港です。初期の長崎貿易は、糸割符制という方式をとっていました。京、堺、長崎、大坂、江戸等の主要な幕府直轄都市の商人団である「糸割符仲間」に、オランダ船の積荷の生糸の一括購入の特権を与え、「仲間」の年寄が生糸の値段を決めるまでは諸商人の長崎入りを止めて、「仲間」の利益をはかり、その代り「仲間」から多額の税金をとったのです。したがって外国商人にとっては、不利な条件の貿易制度でした。糸割符制は慶長九(1604)年に始まったのですが、国内の生糸への需要の増大にもかかわらず、明清交替の戦乱による中国生糸の輸出の減少に加えて、中国商人たちの駆引きもあって、明暦元(1655)年には早くも潰れてしまいます。それで相対貿易、つまり自由な取引きを認めたところ、生糸は騰貴し、また国内銀産の減少もあって取引き方法の変更がはかられ、寛文十二(1672)年には市法売買制が採用されました。すなわち五ヶ所商人に市法役所をつくらせ、目利役に評価させ、低い値段で輸入生糸を買付け、最高の値段で国内商人に売却し、差益を五ヶ所その他の商人団と長崎の市民に分配したのです。さらに中国全土を掌握した清王朝が海禁を緩め、長崎渡航の中国船が急増すると、貿易額を制限するとともに、貞享二(1685)年に糸割符制に戻
したりしましたが、効果なく、新井白石によっって正徳の新例が正徳五(1715)年に施行されます。これによって長崎会所が貿易のすべてを牛耳り、長崎会所の商人たち、および長崎の市民たちがその利益を壟断する貿易体制が出来上りますが、その下でオランダ商人・中国商人は次第に船数・歳額とも制限を強化されながらも貿易をつづけ、幕末に至ります。
 以上のように、長崎貿易にかぎっても、貿易方法の変遷と統制はありながら、終始一貫、国を閉ざしてはいなかったのです。

 また外国の情報・知識という面でも、長崎は開かれた窓でした。幕府は外国船が来るたびに、かれらから情報を取りました。オランダ人からは風説書を提出させ、これを翻訳させて幕閣が閲覧しました。中国人からも同様に情報を提出させ、唐船の風説書として幕閣に提供されました。そのように公的に情報を収集していただけではなく、長崎で外国人と接触する地役人や商人たちは、交渉や商売を通じて情報を交換していました。したがって、日本にとって地球的世界からの必要な情報は、この長崎の窓口から導入されていたといってよいでしょう。
 初期にはキリスト教禁圧が酷かったので、キリスト教に少しでも関わる書籍は、禁書として輸入できませんでしたが、その他の書籍は輸入されていました。また将軍吉宗のいわゆる禁書の解禁で、キリスト教に関係のない書籍の輸入はさらに緩められ、中国の書籍を通じて厖大な情報・知識が入りました。
 結局のところ、長崎できびしく鎖していたのはキリスト教の情報・知識の導入でしたが、そのために人間の出入をきびしく管理していました。その意味でもまさしく鎖国でした。たとえば、朝鮮人が日本の海岸に漂着しますと、長崎に送られ、調べを済ますと対馬経由で送還されましたし、日本人漂流民の受入れ窓口も長崎でした。いずれの場合も、キリスト教について厳重に調べるのが、長崎の役目だったのです。


 長崎のほか、対馬・薩摩・松前の三藩も対外関係の窓口の役を担っていました。対馬藩の場合は、中世以来、対馬の宗氏がっくりあげてきた朝鮮との外交・貿易の独占体制が、公儀的対外関係の中で復活し、公認されたということです。しかし、他面から言えば、それは幕府から大名の家役として担わされたのです。要するに、中央権力が特許した形で窓口が開かれているということですが、同時に、家役という言葉からわかるように、対馬の宗氏は、朝鮮との外交・貿易のすべての実務を幕府に対する大名としての家の役、広い意味での軍役として奉仕していたということです。
 同様に、薩摩藩の琉球との関わり方も、家役と考えてよいかと思います。しかし薩摩藩と対馬藩との違いはどういうことかと言えば、対馬藩と朝鮮の間では、日本側から言うと、中世以来の対等な関係よりちょっと低いという扱いを残した関係が持続しますが、しかし客観的には従属関係はまったくなく、まさしく善隣関係であって、友好的な外交・貿易関係が続きました。ところが、薩摩藩と琉球の関係は違います。琉球は薩摩藩との間では従属関係の下に置かれ、はるかに従属性の強い、半国家というような地位にありました。したがって薩摩藩の琉球にたいする関係は、外交・貿易の実務関係ということではなく、軍事力で掌握し、琉球政府を上から支配する関係にありました。その上で、琉球を中国王朝の冊封下に置くという形式を維持し、朝貢貿易を続行させ、貿易上の利益を吸い上げたのです。
 松前藩と蝦夷地との関係も、善隣関係とはまったく違います。これは、松前(蠣崎:かきざき)氏が中世の末期までに築いていたアイヌとの交易の独占を豊臣政権に公認され、これが徳川政権に承け継がれ、承認されたということです。したがって、松前藩を介しての日本国家と蝦夷地あるいはアイヌとの関係は、二つの国の間の従属関係ではなく、当時の日本人の概念でいえば異域としての蝦夷地との華夷関係であったと思います。日本が中華的な位置にあり、夷の位置に置かれたのがアイヌでした。したがって、幕府は、アイヌに武威を示すとともにかれらを公儀の徳に靡かせ、また保護しなければならないという立場に立っていました。それを直接担うのが松前藩であり、それを担うかわりに松前藩は交易の独占権を認められたのです。この交易権を家中の武士に分かち与えるのが、松前藩の知行制度の内容でした。
 以上、長崎以外の対外関係の三つの窓口について述べましたように、それぞれ、その役割と性格は大きく異なっていましたが、藩の領知権・知行権の内容にかかわるとともに、異国・異域にたいする「押え」の軍役と不可分な対外関係の「役」を、家役として担うものであったのです。

  
 第一講の最後に言いたいのは、長崎から入ってきた海外知識のレベルは、そんなに低くなかったということです。新井白石は、密航してきたイタリア人のカトリック神父ヨハン・バッチスタ・シドッチを尋問し、その内容を基礎に、『采覧異言』と『西洋紀聞』という二つの名著を著しましたが、これらを読むと、白石が知識もなく尋問したのではないことがよくわかります。白石は、長崎を通じて幕府の文庫に納められていた、世界知識に関する多くの書籍を読んで、いわば予習した上でシドッチを尋問したのです。それらの知識の一つ一つが、どういう本によっているかは、『西洋紀聞』等を読めば、総て明らかにできます。このような、豊富な世界知識は、すでにこれより以前の、たとえば元禄期に出版されました西川如見の『華夷通商考』にも明らかにみてとれるのです。
 つまり、近世の日本人の世界知識は、そんなに低くはなかった。低いというのは、鎖国という言葉がわれわれに産ませた誤解でした。一般民衆を含めての日本人全体がそうだったとは言いませんが、少なくとも長崎貿易に関わっている人間や幕府当局者の世界知識は、そんなに貧弱ではなかったということです。白石は非常に優れた学者であり、個性のある研究者であり、政治家でもありました。そのような白石だからこそあのようなものができたのですが、同時に、その世界知識は、当時の日本においては、そうしようと努めれば獲得できる世界知識であったと言ってよいでしょう。白石の対外・貿易政策も、そのような意味で、そのような世界知識に基づいていたのです。正徳新例〔注2を参照〕で打ち出された政策は、まさしくそのようなものでした。だからこそ、抜け荷対策においても、貿易制限の政策においても、その中心部分は、幕末に、資本主義世界への対応を迫られるという新たな事態を迎えるまで引き継がれえたのだと考えます。

 ・・・以上、「5「鎖国」の実態はどうであったか」終わり・・・

 〔注2:世界大百科事典内の正徳新令の言及
【海舶互市新例】より
…正徳新例(新令)ともいう。1715年(正徳5)1月幕府が下した新井白石の立案になる長崎貿易の制限令23通と,これをうけて出された長崎奉行大岡備前守(清相)名の細則の総称。おもな内容は,(1)改革に関する奉行以下の諸役人・長崎町民・外国人への諭示,(2)唐船は従来の年59艘・取引銀高1万1000貫目を,30艘・6000貫目(最大限9000貫目)・銅渡し高300万斤に減じ,通商許可証として〈信牌〉を給す,(3)オランダ船は年2艘・金5万両(銀3000貫目)・銅渡し高150万斤で,ほぼ従来どおり,(4)輸入品の評価は商人の入札制をやめ,長崎会所役人等の査定価格を基礎に協議する〈値組み〉,である。
※「正徳新令」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社〕