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三上隆三『江戸の貨幣物語』 (ek003-04)



  三上隆三『江戸の貨幣物語』  東洋経済新報社1996年3月発行

                       
三上隆三の徳川幕府貨幣-価値形態論

  資本論ワールド編集部 はじめに
 三上隆三は1926年京都市に生まれ東京商科大学(現一橋大学)を卒業後、和歌山大学経済学教授、京都学園大学教授を歴任。理論経済学・貨幣史・金融論の著書ー『ケインズ経済学の構造』,『円の誕生』,
江戸幕府・破産への道,『江戸の貨幣物語』など幅広い著作活動を経て、2019年老衰のため死去。93歳没。

 資本論ワールド編集部では、江戸期の著作から『円の誕生』1989年.『江戸幕府・破産への道』1991年.『江戸の貨幣物語』1996年. を中心に三上隆三江戸期経済学体系の再構築を行なっています。「経済学視点からの貨幣改鋳研究」を経て、三上隆三によるー歴史科学と経済分析ー徳川貨幣制度の「価値形態論」を提供します。この価値形態論は『江戸時代の資本論』の3部作―ー「貨幣性商品の考古学」 「江戸時代の資本論」「『資本論』の貨幣(準備中.富の蓄積と物価高・インフレ)」ー― の中軸理論に位置づけられるもので、資本論ワールド探検隊の皆さんと10数年来の交流の賜物と言えます。

 三上隆三は、「寛文年間(1661-1673年)の不完全金貨の出現状況は1690年代のイギリスにおいて、ロック(Locke,J.)とラウンズ(Lowndes,W.)とを代表論客とする有名な改鋳論争(Recoinage Controversy)を惹起させた当時の貨幣状態に似ている。そして論争の原因をつくった
削りとり貨幣(clipt money)の出現がわが寛文年間とほぼ同時期であったことを知ると、先進国イギリス・後進国日本との公式・固定観念・イメージをもつわれわれには、そのことが一つの興味ぶかい比較経済史的問題を提供するものとしてうけいれることができるのである。」(『円の誕生』講談社版p.66)と述べています。〔資本論ワールド:ロックーラウンズ・バーボン論争参照〕

 また、徳川幕府は「貨幣改鋳」の効果について、その真の目的である「出目(貨幣改鋳による差益金)」の獲得――数十万両から数百万両にも達する――を一切秘密にして、その都度 ”言い逃れ” てきました。幕府の財政危機を長期間・百年以上にもわたって再建し救ってこれた ”カラクリ” の歴史的解明は、これまで極めて不十分なものでした。

 徳川幕府の「闇の権力・財政機構と商品価値の貨幣力」を、三貨制度の中心に位置する「銀貨世界の一大絵巻」として著わした作品が『江戸幕府・破産への道』なのです。荻原重秀から田沼意次へ、さらに幕末ペリー来航から日米修好通商条約締結(1858年)にいたる徳川幕府と江戸期歴史学の最大のトピックス・topicsです。

 もう一つ、21世紀の怪物は「日本銀行システム」であり「黒田日銀総裁」です。日本の経済学という科学と学問の世界(?)がいま風前の灯となって――徳川幕府の亡霊として日本全土を覆い、「国民庶民の生命と財産の破産」への道をあゆんでいます。このルーツこそ、萩原重秀であり田沼意次の時代相ー幕府財政危機ーであり、21世紀の日本銀行券ー通貨・貨幣ーの真実のすがた・姿 Gestalt なのです。
  
*注→日本銀行券

 徳川江戸期貨幣論は歴史科学と経済分析の分水嶺として、イギリス資本主義史とともに永く歴史に刻まれてゆくことでしょう。また資本論ワールドでは、三上隆三の徳川幕府・「価値形態論」を通して、「江戸時代の資本論」研究の一層の進展が達成されるよう期待しています。

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 *
秤量貨幣(しょうりょうかへい)
   銀塊、金塊を使用にあたりその都度量目・重量をはかりにかけて確認する貨幣。
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係数貨幣
   一定の形状・量目・品位(貨幣に含まれる金属成分など素材の割合)を持ち、
   貨幣表面にその価値を示す刻印・数字があり、貨幣価値が保証されている貨幣。
 *
名目貨幣
   貨幣の素材価値と無関係に、法令などにより表示された金額で通用する貨幣。
 *計算貨幣
   商品の交換価値を表わす価格(通貨)の尺度機能の貨幣。
   また、価値計算の機能する貨幣。

 *
量目 (りょうめ)
   はかりで量った物の目方/重さ。 貨幣の量目
 *
品位
   鉱石中の有用元素/金属/鉱物の含有率。 貨幣の品位
 *
出目
   
通貨の品位を落とすー貨幣改鋳による差益金


  *『江戸の貨幣物語』は、三上隆三による徳川貨幣制度研究の代表作の一つです。
 三上江戸期ー歴史科学と経済分析の源流である『
円の誕生第2章「江戸時代の貨幣制度と貨幣的経済に解説・要約・抄録を掲載してあります。 (2022.07.05注記)



   『江戸の貨幣物語』   2022.04.21
     三上隆三 東洋経済新報社1996年発行

 『江戸の貨幣物語』 はしがき
   ・・・・・・・・・・
 「貨幣は文化の鏡である」という言葉を耳にしたことがある。これ砲至言であり、含蓄に富む言葉である。この言葉をもとにしてあえていえば、貨幣を研究するものは、貨幣そのものだけではなく、文化、そしてそれをつくりだした人間との関わりあいのもとに、貨幣を取り扱うべきである。
 本書は貨幣をめぐる人間模様やそこにみられる喜怒哀楽といったもの、いいかえれば、最近、日本や海外で関心がもたれている人々の日常生活を基礎とした「社会史」「生活史」の視点から、江戸期貨幣を考察するものである。私は経済史研究を専門分野にしていないので、その意味で歴史にはズブの素人である。経済理論畑の人間であり、それだけに理論のもつ普遍性を背に、「国際」をも視野に入れて海外の研究者の理解にも資するように心がけ、同時に専門史家が無関心だったり見落としたりしたようなものも積極的に発掘し、とりあげるようにつとめた。素人の史論であるだけに、私見への斧正をたまわりたく願う次第である。
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  目次
 はしがき
 第1章 輸入銭の時代      ―ー 三貨制度の構想
 第2章 金貨・銀貨の経済学   ー― 世界で唯一の「三貨」制度の発足
 第3章 家康と江戸の貨幣    ー― 三貨制度の確立
 第4章 米遣いから金遣いへ   ―― 三貨制度の運営
 第5章 財政赤字に苦しむ幕府  ―― 三貨制度の展開
 第6章 奇跡を生んだ新種銀貨  ―― 三貨制度の変容
 第7章 「外圧」に崩れ去る幕府 ―― 三貨制度と異国貨幣  

  【詳細目次
論点00
  『江戸の貨幣物語』
 第5章 財政赤字に苦しむ幕府 
   第3節 財政秘策

 第6章 奇跡を生んだ新種銀貨 ―三貨制度の変容
   第2節 新種銀貨の登場  (省略)
       〔-日本貨幣史上 不朽の名を残すもの-〕
   第3節 金本位制の成立


 【詳細目次】
 
 『
江戸の貨幣物語

  第5章 財政赤字に苦しむ幕府 
    第3節 財政秘策

 
1. 元禄大改鋳・・・"出目"(貨幣改鋳による差益金)捻出の始まり
 2. 慶長金の868/1000から元禄金の564/1000に切り下げ
 3. 元禄改鋳の ”出目” ー 500万両~580万両
 4. 初期の慶長金から品位低下・・・元禄小判ー宝永金
 5. 金・銀の公定比価 金1両=銀60匁の変動
 6. ★論点0ー「鎖国」論の矛盾
   貿易銀の矛盾 朝鮮ー琉球ー中国ーオランダ
 7. 琉球ー渡唐銀


  
第6章 奇跡を生んだ新種銀貨 ――三貨制度の変容
    
第3節 金本位制の成立

 
8. 明和二朱判の計数銀貨
 9. 明和二朱判(銀)は金貨の世界
 10. 明和南鐐二朱判ー銀貨の実質的補助貨幣化
 11. 補助貨幣
 12. ポンペとイングランド銀行券
 13.
金本位制の誕生
 14. イギリスの金本位制
 15. 出目追求が三貨制度を変容・金本位制の出現


江戸の貨幣物語
 
  第5章 財政赤字に苦しむ幕府 
  
   第3節 財政秘策

〔巻頭詳細目次番号
1. 元禄大改鋳・・・出目(貨幣改鋳による差益金)捻出の始まり 〕

 この財政苦打開のための出目捻出の始まりは、元禄8~11 (1695~98)年に決行された元禄大改鋳である。これは江戸期金貨のベル・エポクのたそがれを告げるものである。そもそもこれは国民に対する背信行為であるだけでなく、良貨を鋳造して、子々孫々にまで決して品位を落としてはならないとの家康の遺命にもそむくものである。それだけに新貨幣である元禄金銀の品位――元禄金銀貨だけに限らず、江戸期全金銀貨に共通する――は極秘として公表されないのは当然のこと、改鋳理由についても、通貨量が少なくなって「金銀の極印古く成候」と実にさりげない理由づけに終始した。

 出目捻出の秘密保持のためには、まず用意周到にも、元禄2(1689)年に金銀座を留守居から勘定奉行(当時は勘定頭とよんでいた)の支配下に移管した。本番の元禄8年には、本郷霊雲寺近くの大根畠の真中に吹所(造幣工場)をつくって人を遠ざけ、江戸はもとより京都の金銀座にも、表面的には平常通りの業務を果たしているようにみせかけつつ、座人等の関係者をこの造幣工場に結集するように命じ、改悪鋳作業を敢行させた。ついでながら改鋳作業終了後、後藤役所・金座人役所(金局)・吹所は後藤役宅に集中され、ここにわれわれなじみの江戸金座とよばれるものが成立する。・・・・

2. 〔 慶長金の868/1000から元禄金の564/1000に切り下げ 〕

 次に元禄大改鋳の内容を具体的にみてみよう。小判1枚=1両の量目は、慶長金・元禄金ともに4.76匁であるが、品位は慶長金の868から元禄金の564に切り下げられた。おおよそのところ元禄金の含む純分は慶長金の3分の2にすぎない。これは慶長小判2枚から元禄小判3枚が鋳造されるということで、その差の1枚=1両は出目にほかならない。含金量が3分の2に減っているにもかかわらず、その元禄小判が重さ・大きさにおいて慶長小判と同じであるということは、純金量の減っただけ元禄小判により多くの銀が、しかも金に比べて比重の軽い分だけ、もっと多く加えられているということである。当然の結果として、元禄小判は分厚いものになる。それだけにこれを手にしたものは、不審の念をいだくはずである。さらに銀が相対的に多くなっただけ、土屋数直〔1608-1679 江戸時代前期の大名。家光側近、土浦藩主土屋家初代。〕ではないが元禄金は随分白っぼい黄金色になり、これだけでも庶民は十分に用心するはずである。

3. 〔 元禄改鋳の "出目" ー 500万両~580万両 〕

 元禄改鋳で生み出された出目は500万両(新井白石)とも580万両(荻原重秀)ともいわれている。出目産出の成功の鍵のひとつは、悪貨鋳造のための素材となる良貨、この場合は慶長金をいかに多く回収するかにある。回収は当然ながら新旧交換、つまり元禄金と慶長金の交換によって行われる。この交換には軽目(かるめ)金・切金・焼金といった不完全金貨も対象になっている。不完全金貨の取扱いは、当初は有料だったものが無料引替までして努力しているように、その入手は後になるほどウェイトを増すことになる。したがって出目入手のための新旧貨交換は、現在造幣局が行っている不良貨幣駆除という通貨管理を期せずして果たすという、怪我の功名的成果をあげたことになる。
 とまれ不完全金貨をも含む出目入手のための良貨と悪貨との名目金額での交換、つまり慶長小判1枚と元禄小判1枚が交換されるという行為は、江戸時代における最初のことでもあり、庶民には「御公儀がまさか……」という幕府への絶対的な信用があったため、後の事例と比較すれば成功だったということができる。さらに成功率をあげるため、元禄金発行にあたりこれを慶長金と混用せよと命じる一方で、元禄8~宝永4(1695~1707)年の12年間は1%のプレミアをつけて慶長金の引出し・入手にっとめた。

 そのうえに元禄10(1697)年には、慶長金にはまったく存在しなかった二朱判という小額金貨を新たに発行することにした。当然これは二朱判第1号にあたるが、後の第2号にあたる天保二朱判等の各種二朱判が小判の品位よりも著しく低いものであったのに対し、元禄二朱判は小判と同品位だった点で特異な二朱判ということができる。しかもこの二朱判については、元禄小判・一分判とのみ引き替え、慶長金との直接引替はこれを拒否するという手のこんだ作戦 にでた。一分未満の取引には、公定相場によれば銅貨1000枚近くが必要である。二朱判の出現はこの必要銅貨量を半減させるので、取引にはきわめて便利なものである。この利便性の享受を元禄金所有者だけに限定することにより、隠匿保蔵されている慶長金をおびき出し、元禄金への交換・回収の促進をねらうという寸法である。


4. 〔 初期の慶長金から品位低下ー元禄小判ー宝永金 〕

 悪貨である元禄金は大量の銀を含むために、白っぽい黄金色の分厚いものになったうえに、裂けやすく折れやすくなり、実に悪評ふんぶんたるものだった。ために元禄金のこの欠点是正には、慶長金なみの品位に戻す必要ありと論じられるようになった。当局はこれに対し、慶長金への全面的復帰が望ましいが、財政事情からそれは不可能であり、もしも産金量が多くなれば古制に戻すとの甘いささやきとともに、元禄金の金量はそのままに、銀量の削減によって慶長金の品位なみの新金貨鋳造にふみきることにした。これが宝永7(1710)年鋳造の量目半減という宝永金(乾字金)であり、小判で量目2.5匁、品位834、純金量2.075匁だった。当局の言にもかかわらず、元禄小判に比して金で0.6匁、銀で1.655匁少なく、品位においても初期慶長金に比して1000分の10低位となっていた。
 
 〔 金貨の改悪率と銀貨改悪率 〕
  ・・・銀相場が上昇すれば、
   関西からの主要商品供給に依存していた金貨圏の江戸が、
   物価高に見舞われる・・・

 元禄改鋳は金貨だけでなく銀貨に対しても実施されたことはいうまでもない。ただし改悪率は金貨と同一ではなかった。金貨の改悪率は868→564で35%だったのに対し、銀貨のそれは792→646で18%だった。これは慶長の公定比価金1両=銀50匁が有効とされている時期にもかかわらず、寛文期(1661~73)頃から金の市場相場が金1両=銀60匁と上昇したのを前提にしての操作だった。ところがこの改悪率があまりにもアンバランスだったことが、改鋳後の相場を金1両=銀50匁という慶長公定比価へと復帰させてしまった。幕府はこの事実に対処して、元禄13(1700)年に公定比価を金1両=銀60匁と改正した。50匁に銀相場が上昇すれば、関西からの主要商品供給に依存していた金貨圏の江戸が、物価高に見舞われることになるからである。幕府は支払い・受取りのすべてを改正公定相場の金1両=銀60匁で行うと宣言するのである。


5. 〔 金・銀の公定比価 金1両=銀60匁の変動ー 〕

 経済というものは、重力にも似た強い力で動くものであって、権力者の身勝手な命令にしたがうようなものではない。幕府は金1両=銀60匁の公定比価を守らせようと、銀貨の溜置き・高値買いの禁止・取締りをくりかえし行うが、結果は市場を混乱させるだけだった。ようやくこの愚を悟った幕府が、銀貨払底を理由に品位を元禄銀の646から507に下げた宝永銀(ニッ宝銀)を鋳造することにしたのは、宝永3(1706)年のことである。これによって市場比価もようやく幕府のねらった金1両=銀60匁水準に落ち着くようになり、そのうえその銀貨の人気も決して悪くはなかった。幕府はこれをよいことにして、さらに宝永7年3月に品位416の永字銀を、次いで同年4月には品位326の三ッ宝銀を、ついには宝永8=正徳元年8月にも品位204の四ッ宝銀をというように、品位低下一方の3種もの銀貨をわずか17ヵ月の短期間に、矢継ぎ早に鋳造した。・・

  しかし出目入手は初回こそそれ相当の成果をおさめるが、2回目以降では庶民、特に商人の反応が加速化して改悪鋳の効果は著しく低下する。一方では良貨を隠して交換に応じなくなるとともに、他方では販売商品の価格を引き上げて改悪鋳に対抗し、インフレーションが発生することになる。インフレーションは出目効果を実質的に相殺してしまうものである。17ヵ月の間に3回というヒステリックな改鋳のくりかえしは、当局の出目入手への焦りを物語るものであるが、銀貨が商人のカネであるだけに芳しい成果はあげられなかったようである。品位においてまさに慶長銀の逆の銀2銅8である四ツ宝銀については、「名こそ銀にてあるなれ、実には銅の銀気あるにも及ばず」と新井白石が酷評した、地金商は銀貨に塩酸をかけて青色の泡のたつものを、多くの銅を含む偽物と断定していた。四ツ宝銀の場合は、銅貨同然に泡の立つほうが本物だということで、白石発言はこのことを彼流の表現で示すものである。この四ツ宝銀出現によって、民間層ではもっと悪性の銀貨が出されるとの噂が走り、米穀・絹布・薬種等の入手に狂奔する換物行動が起こるまでになった。
 出目追求の産物としての低品位銀貨がもたらしたものは、この程度でとどまるものではなかった。というのも海外の中国・朝鮮では、銅に劣るものとしてこの受取りを完全に拒否したからである。その代表例が、朝鮮から輸入されていた薬用人参としての高麗人参事件である。宝永銀と比較すれば改悪率の低い元禄銀なのだが、人参代銀としてこれが慶長銀に代わって支払われたときでさえ、2年越しの交渉が両国間でもたれ、元禄銀の20%割増しということでようやく妥協の成立をみた。

6. ★論点0ー「鎖国」論の矛盾

 
貿易銀の矛盾 朝鮮ー琉球ー中国ーオランダ 〕

 この場合、慶長銀を100として改悪率の18(%)を引くと元禄銀は82となる。割増しの元禄銀の20%は82×0.2=16.4であるから、両者の合計である元禄銀での支払いは、98.4となり、慶長銀での支払いと近似ということになる。
 元禄銀よりも品位の低い宝永銀での支払いが提示されるや、朝鮮側はその受取りを拒否し取引そのものを停止した。ために高貴薬としての高麗人参の価格は暴騰し、社会問題化することになる。この解決策として、緊急度の高い人参輸入のためという名目で、特別に宝永7(1710)年から正徳4(1714)年(同事情で元文3<1738>年から宝暦4〈1754〉年までにも)までの間、京都銀座において慶長銀と同品位の丁銀が鋳造されることになった。正規にはこれを往古銀とよぶが、この名称では往古からある銀ならば、これまで故意に劣悪銀を渡したとの誤解が朝鮮側に生じかねないので、朝鮮貿易の窓口になっていた対馬藩ではこれに特鋳銀の名をつけることにした。一般的には人参代往古銀とよんでいる。これは明治4(1871)年に出現する貿易銀の先駆形態に位置づけることができる。

7.  琉球は島津軍に侵攻・制圧された後も、表向きは独立国として中国への進貢関係を維持し、これによって中国から生糸・絹織物・毛織物・薬種等の高級中国品を輸入して日本へ供給していた。琉球から中国へは、進貢船が2年に1回、その間に接貢船も派遣され、そのそれぞれが中国へ運ぶ銀を進貢料・接貢料と称した。その銀は薩摩藩が交付するのだが、もとより銀座鋳造の正規丁銀であって、中国の明・清に渡されたところから、これを琉球渡唐銀あるいは単に渡唐銀とよんだ。元禄銀よりも劣る宝永銀以下の劣悪銀貨が発行されると、人参代往古銀のこともあって、琉球の進貢使派遣に支障が生じるとの理由で、薩摩藩を通じて元禄銀なみの丁銀への吹きかえが申し出られた。かくて幕府は渡唐銀を元禄銀同位に特鋳することにした。この渡唐特鋳銀は、当初は京都銀座で、これが廃止される寛政11(1799)年以降は江戸銀座で鋳造された(紙屋敦之『幕藩制国家の琉球支配』)。このように既質銀貨鋳造は、国内ではともかく、国際貿易の場においては決定的な蹉跌をふむことになった。これら内外に起こる反応によって、幕府が頼みの綱とする出目の怪力に翳りがみられるようになったのである。

 第4節 秘策への反省と反動 ・・・略・・・



 第6章 奇跡を生んだ新種銀貨 ―― 三貨制度の変容
      第2節 新種銀貨の登場  (省略)
            〔-日本貨幣史上 不朽の名を残すもの-〕
論点00
      第3節 金本位制の成立

8.  〔 明和南鐐二朱判 の計数銀貨 

 明和五匁銀と明和南鐐二朱判とは、計数銀貨ということでは兄弟関係にあるとはいえ、その性格においては決定的な差異があった。五匁銀は量目=重さによって行使される秤量貨幣(丁銀)の世界に所属するコインであるのに対し、南鐐二朱判は銀貨でありながらも銀貨独自の伝統的な単位の貫・匁体系から離脱し、その量目にかかわることなく、つまり金一両=銀60匁の公定比価の拘束を受けることもなく、その一個片が金貨二朱の購買力をもつ金貨の世界に所属するものである。まさに銀貨における質的大転換がここに起こっている。

9. 〔 明和南鐐銀は金貨の世界

 五匁銀はなおも銀貨世界の一員として金貨に対立したのに対し、明和南鐐は金貨の世界に臣従したのである。そのことを明示するものが、明和南緯の表面にある既述の「以南緯八片 換小判一両」なのである。そこに見出される「換」の文字は、われわれに「50枚換1円(以百枚換一円・二百枚換一円)」の鋳銘をもつ明治6(1873)年鋳造の二銭(一銭・半銭)銅貨を想像させる。この明治銅貨上の「換」は、一円金貨との兌換・交換を意味するものであり、明治新政府も、実行はともかく、それへの意志をもっていたことは明確である。したがって二銭銅貨は、その銅の価値にかかわらず、二銭として通用する一円金貨の補助貨幣に位置づけられるものである。

10.  〔 明和南鐐二朱判ー実質的補助貨幣化 〕

 南鐐貨における「換」の文字の意味にもかかわらず、幕府はこれを小判と交換する意志をまったくもっていなかった。「右判銀ハッヲ以テ金一両ノ積」、すなわち「換える」は「つもり」なのであって、金貨同様のものと心得、その通りに使用せよと命じた。素材銀の価値にかかわらず、「換」の文字によって二朱に通用する銀貨であるから、小判に対する補助貨幣、より正確には実質的補助貨幣であると南鐐貨を位置づけることができる。ここにいう実質的とは、南鐐貨を補助貨幣と規定する法令もなければ、補助貨幣としての通用限度規定も存在せず、したがって形式的には小判同様に本位貨幣だったからである。
 このような含みをもつとはいえ、南鐐貨が金貨に対する補助貨幣第1号ということもあって、幕府は慎重にもこの銀貨の正式名称を単に二朱のみではなく、金貨特有の呼称・美称となっている「判」をわざわざつけて、南鐐二朱判と命名した。明和南鐐貨に続く文政南緯貨にも、なお慎重に「判」をつけ続け、金貨単位をもつ銀貨という特異性に対する庶民感覚が麻庫し日常化するのを見計らって、補助貨幣の完成品として天保8(1837)年に鋳造された銀貨に、明確に「一分銀」の文字を鋳込んだ。もはや庶民もこれに対してまったく異を感じることはなかった。


11. 〔補助貨幣〕

 補助貨幣はその通用価値が素材価値に拘束されないことを特徴・身上とするものであるから、理論的には、補助貨幣としての計数銀貨の銀量がどれほど削減されようと、通用価値にはいささかの支障もきたすものではない。削減量に正比例して幕府財政は潤沢になるはずである。その場合、価値尺度として機能する本位貨幣の金貨における金量削減は、インフレーションとしてはね返ってくるが、補助貨幣の銀貨にはその心配はない。もとより補助貨幣といえども、それが流通に必要な貨幣量を超過してまで発行されれば別だが、その限度さえ守られ、本位貨幣としての小判の金量が堅持されていれば、計数銀貨の発行による出目がインフレーションによって相殺されることはない。正味の安定した出目が幕府にもたらされることで、ここにはじめて幕府の財政秘策の成功がみられることになる。

12. 〔 ポンペとイングランド銀行券 〕

 1857年から62年にかけて医師として長崎に滞在したポンペ (Pompe Van Meerdervoort)は、「〔天保〕 一分銀はいわば銀製の兌換券のごときもので……この兌換券ともいうべき一分銀は……誰か知らないが、大変頭のよい日本の財政担当大臣の実際的な取扱いの案ではなかったかと思う」(沼田次郎・荒瀬進訳『ポンペ・日本滞在見聞記』― 原題は『日本における五年間』)と、天保一分銀について驚きとともにその本質を正確にとらえている。まことに天保一分銀は、衆知を集めた日本錬金術の成果であるということができる。
 明和南鐐二朱判に始まる一連の実質的補助貨幣は、金貨に対するものであるから、当然明和南鐐二朱判の鋳造された明和9(1772)年に、実質的金本位制度が成立することになる。正確には同じ金本位制度とはいえ、インゴットやバーの形態で金をもつ金塊本位制と、いつでも金貨と兌換できる――例えば全盛期のイングランド銀行券――形態で間接的に金をもつ金核本位制に対し、明和9年のそれは、金を鋳造した小判の形態でもつ金貨本位制とよぶものの成立だった。

 丁銀は、幕末まで鋳造されはしたが、銀貨の鋳造ウェイトが丁銀から南鐐貨・花降銀貨に移行し、「空位」と表現されるまで鋳造量が減少したので、三貨制度も実質的には金本位制度に変容してしまった。このことを明確に文字化したものが、安政6(1859)年6月17日付の老中からイギリス総領事あての書簡である。そこには「金は原(もと)の貨にして、銀貨是に代りて只極印而已(のみ)に力あり。仮令(かり)に云はば紙或は革を以て造りたる極印の札に等し」(『幕末外国関係文書』)とある。これには補助貨幣としての銀貨と藩札体験による兌換紙幣思想までうかがえるもので、元禄期に貨幣発行を担当した荻原重秀の「貨幣は国家の造る所。瓦礫を以て之にかえるといえども行ふべし。今鋳るところの銅は薄悪といえども、なお紙紗に勝れり。之を行ひとぐべし」との思想を発展させたものである。

13. 〔 金本位制の誕生 〕

 この事実上の金本位制は、経済の発展、特に田沼時代の重商主義政策と商品流通促進のためには金銀の二元的通貨制度よりは一元化が望ましいとの世論に応えるものであり、銀貨不足を奇貨にするものだったとはいえ、ここに元禄14(1701)年に公表された関西銀貨圏への金貨流通という長年の意志の実現をみることになる。もとより金銀二元通貨の一元化は金貨に限ることはないわけで、銭貨・銅貨とのつながりからいっても、最小単位価値が一分と大きな金貨に対し、五厘という小さい銀貨のほうがよいとする太宰春台の銀本位制度論もあった(『経済録』)。
 日本におけるこの「金は原の貨」=金本位制誕生は、重力の法則発見で有名なアイザック・ニュートンが、1717年に造幣局長官として決定した、金に有利で銀に不利な1対14.8という金銀比価の制定によって成立するイギリスの実質的金本位制についで、世界第2番目に位置するものである。

 ここで科学としての経済学を研究するものとして、口にしてはならないことをあえていわせてもらえば、18~19世紀の世界的リーダー国家のイギリスが、先頭をきって実質的金本位制になったのが1717年。これを法制的にも整備して、名実ともに世界最初の金本位制になったのは1816年。したがってこの間100年が経過している。日本の場合は、実質的金本位制は明和9(1772)年であるのに対し、法制的にも整備された金本位制になったのは明治4(1871)年である。これは1854年のポルトガル、1866年のスイスにつぐもので、ドイツとならぶものである。


14. 〔イギリスの金本位制〕

 ところで、日本が実質的金本位制から名実ともの金本位制度に成熟するまでに要した時間は、なんとイギリスとまったく同じ100年だった。偶然の一致・暗合とはいえ、こうなると神のいたずらという以外には言葉がない。
 それはそれとして、100年の差をもって、日本は金本位制の先輩国イギリスに雁行・追随したことになる。だが金本位制について、日本は後輩としてイギリスの進んだ道をただ従順に歩んだのではない。先輩を追い越したものもあったのである。1717年のニュートン比価は、金銀両本位制の維持を目的としているのに対し、明和9(1772)年の動きは実質的金本位制そのものを目指しており、この点を象徴するものが、正確にはこれにも実質的という形容詞をつけなければならないが、補助貨幣の鋳造という事実である。
 ニュートンの1対14.8という法定金銀比価は、金に有利なものだったので、グレシャム法則の作動によって悪貨の金が流通を独占し、良貨の銀の多くは有利な大陸に流出した。イギリス政府は、なおも法的にはこれまで通りの金銀両本位制の建前をとり続けた。というのも、イギリスには依然として自国鋳の銀貨が流通していたからである。ただしイギリス国内に流通している銀貨の多くは、法定重量にみたない、ということは悪貨の金貨価値と法定比価においてバランスをとるまで、あるいはそれ以上に削り盗られた軽量銀貨(clipt money)だった。流通している銀貨が削り盗り貨幣であると政府が公式に承認したのは、ようやく1774年になってからである。


15. 出目追求が三貨制度の変容・金本位制を出現

 この年、銀貨での支払いは、1回につき25ポンドまでは法貨としての通用を認めるが、それ以上の支払い分は単なる銀塊として取り扱い、その価値は1オンスにつき5シリング2ペンスであると決めた。この時点ではじめて銀貨は実質的補助貨幣扱いをうけたということである。ついで1798年には銀貨の自由鋳造が禁止された。本位貨幣としての銀貨を事実上否定することであり、補助貨幣扱いの度合が深化したということになる。そして1816年になって、ついに銀貨は生まれたときから金銀比価にははるかに及ばない内容をもつ、完全・正式の補助貨幣として鋳造されることになった。
 この紆余曲折のイギリスに対し、日本では既述のように銀貨の補助貨幣化を1772年に一挙に直線的に実現させてしまった。この点では先輩格のイギリスを追い越している。見方を変えていえば、幕府財政はそれほどまで行き詰っていて、出目を必要としていたということでもある。春秋の筆法をもってすれば、なにはさておき、出目追求が三貨制度の変容・金本位制を出現させたということになる。

・・・以下省略・・・・