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  3. 円の誕生・江戸時代の貨幣制度

 三上隆三「江戸時代の貨幣制度と貨幣的経済」と
『資本論』の価値形態(ek003-08)

このページの目次(クリックで飛びます)
初めに はじめに。全体のご案内
第1部   三上隆三『円の誕生』近代貨幣制度の成立
      江戸時代の貨幣制度と貨幣的経済   
第1章 ー 略-開題

第2章 江戸時代の貨幣制度と貨幣的経済
   一 三貨制度
   二 「米遣いの経済」から「金遣いの経済」へ
   三 新種銀貨の登場
   四 計数貨幣としての銀貨の意義

第3章 ー略- 外国貨幣との交渉
第4章 ー略- 円の由来)
第2部  三上隆三の価値形態論と『資本論』の「価値形態」
第3部  江戸時代の資本論
.
      ー解説・要約・抄録ー

はじめに。全体のご案内


   資本論ワールド編集部 はじめに
   三上隆三『円の誕生』の歴史科学と経済分析について
  ...................................
  .........三上隆三「江戸時代の貨幣制度と貨幣的経済」(『円の誕生』)について   ............................................

第一部 三上隆三『円の誕生』近代貨幣制度の成立

「江戸時代の貨幣制度と貨幣的経済」(『円の誕生』)

第2章 江戸時代の貨幣制度と貨幣的経済

・・・・・・・・
・・・・・・・・


 第1部 『円の誕生』
   ー解説・要約・抄録ー 

  資本論ワールド編集部 



  三上隆三『 円の誕生

 第2章 江戸時代の貨幣制度と貨幣的経済

          *編集部作成:詳細目次ー文頭数字と〔中見出し〕

    一 三貨制度

1.〔 江戸期幣制の動向を認識・把握の方法―貨幣と経済的事情の変化を認識・把握の方法 〕
2.〔 江戸期幣制創設時の骨格・三貨制度-金・銀・銅貨の本位貨幣 〕
3.〔 金貨-計数貨幣の四進法:小判・1/4両=分、1/4分=朱、一分判・二分判・二朱判・一朱判 〕
4.〔 銀貨-秤量貨幣の基本単位・匁:1/10分、1/100厘、1000匁・貫 〕
5.〔 京・大坂-上方商人の実力 〕
6.〔 銅貨=銭貨 : 計数貨幣-金貨の単位に対して一種の補助的な機能 〕
7.〔 慶長14年(1609)に金一両=銀50匁=永(永楽銭のこと)1000文=京銭(びた銭)4000文、
   元禄13年(1700)には金一両=銀60匁=銭4貫 〕

   二 「米遣いの経済」から「金遣いの経済」へ

1.〔 江戸期幣制の変容・貨幣的経済を考察する 〕
2.〔「米遣いの経済」の発展 〕
3.〔 貨幣的経済の形成・伸展―「金遣いの経済」〕
4.〔 不完全貨幣-損傷小判・軽目小判の急激な出現p.64 〕
5.〔 金貨の削りとり 〕
6.〔 先進国イギリスの削りとり行為が一般化していた―
  ロック(Locke,J.)とラウンズ(Lowndes,W.)の有名な改鋳論争:
   ―「資本論ワールド」・ロック―ラウンズ・バーボン論争と貨幣・価値Valueについて2016.4 〕
7.〔 不完全貨幣の流通資格規定の拡大 〕
8.〔 寛文期における貨幣的経済の質的躍進 〕
9.〔 不完全貨幣と完全貨幣の対立関係 〕

   三 新種銀貨の登場 (p.71)

1. 〔 慶長以来丁銀・豆板銀とよばれる銀貨 〕
2. 〔 江戸期幣制を変質させた張本人-新種の銀貨・五匁銀 〕
3. 〔 金一両=銀60匁を基準、五匁銀12枚つねに金一両として通用、
   秤量貨幣と計数貨幣という異質の銀貨の兼備・併存 〕
4. 〔 秤量の手数・不便をのぞく技術的理由-〕
5. 〔 常是包(じょうぜづつみ)―丁銀に豆板銀を加えた500匁を単位 〕
6. 〔「関東の金遣い、上方の銀遣い」〕
7. 〔 慶長14年、金一両=銀50匁-金銀貨の交換比率を公定 〕
8. 〔 幕府の貨幣面における政治力・権力が関西の経済力の前に屈服 〕
9. 〔 計数銀貨としての五匁銀に課せられた任務-幕府の評価のままで強制通用 〕
10. 〔 田沼意次・一定銀量をその実体価値以上に通用→幕府に、
     より多くの購買力をえさせ財源を豊かに:出目 〕
11. 〔 出目と五匁銀系統銀貨の政策目的-五匁銀と文字銀=元文丁銀とは同品位 〕
12. 〔 幕府の新種銀貨・五匁銀鋳造の意図-出目入手は失敗 〕
13. 〔 五匁銀系統の銀貨・「南鐐」を鋳造-銀目相場にかかわることなく8枚で
    金一両に通用する通称明和南鐐の二朱判 〕
    第2表 各種銀貨の金一両当たり銀量
14. 〔 同系統銀貨の出目:金一両=銀60匁、〕
15. 〔 通用銀の場合の公定銀目相場の形式化を認めていた 〕


   四 計数貨幣としての銀貨の意義

 〔 江戸期幣制の動向を認識・把握の方法―貨幣と経済的事情の変化を認識・把握の方法 〕
1. 〔 五匁銀系統銀貨の貨幣的経済史上における意義 〕
2. 〔 ★論点0:秤量貨幣としての銀貨の意義・伝統と新種銀貨の計数貨幣-江戸時代の資本論・貨幣制度 〕
3. 〔 有名なグレシャムの法則—悪貨である計数貨幣としての銀貨 〕
4. 〔 計数貨幣としての新種銀貨の出現・登場-関西銀貨圏にある町人社会の財力・経済力への挑戦 〕
5. 〔 南鐐二朱判の強制通用-幕府対大阪商人の銀貨圈 〕
6. 〔 大阪商人の対応 〕
7. 〔 ★論点0 ―「えりぜに」とグレシャムの法則-銀貨体系は、実質的には金貨体系に吸収 〕
8. 〔 銀貨体系の崩壊と計数銀貨の発行推移p.90 〕
9. 〔 計数貨幣の銀貨第1号・明和五匁銀とその後 〕
10. 〔 南鐐貨幣―金貨一両との個数関係・交換比率
    ―江戸時代の貨幣両替一覧参照・「江戸時代の三貨制度」ウィキペディア 〕
11. 〔 江戸中期以降金・銀公定レート:金1両=銀60匁=銭4,000文 〕
12. 〔 南鐐貨幣-金貨体系に価値のよりどころ・従属 〕
13. 〔 南錬貨幣のもつ極印文の「換小判一両」の「換」という文字 〕
14. 〔 南鐐二朱判(銀)の規定品位(明和,寛政,文政南鐐二朱判)
     :金0.13%/銀97.81%~金0.22%/銀97.96% 〕
15. 〔 三つの南鐐貨幣-完全に金貨に従属する計数銀貨への移行の橋渡し-と天保一分銀 〕
16. 〔 南鐐貨幣と天保一分銀-明和南鐐二朱判(銀:1772),寛政南鐐二朱判(銀:1800),文政南鐐二朱判(銀:1824) 〕
17. 〔 明治新政府-丁銀・豆板銀の通用停止=金額の銀目表示禁止 〕
18. 〔 江戸末期には丁銀・豆板銀が無用の長物化していた 〕
19. 〔 金・銀・銅の三貨制度から江戸末期には金・銅の二貨制度に集約
    -田沼意次によって採用された新しい銀貨政策(金貨一元化)〕
20. 〔 五匁銀の失敗から南鐐二朱判へ 〕
21. 〔 二朱という金貨単位の計数貨幣-元禄10年と天保3年発行 〕
22. 〔 南鐐二朱判-大量の出目獲得
    金貨価値のリンクで銀貨の価値づけ―計数銀貨の鋳造に成功 〕
23. 〔 一分銀の普及-計数銀貨の定着 〕
24. 〔 商品生産と流通の全国化と貨幣量の増大 〕
25. 〔 貨幣-完全な重量=素材価値をもつ必要としない 〕
26. 〔 流通貨幣の貶質-形式的内容と実質的内容、額面と重量との乖離 〕
27. 〔 紙幣発行-貨幣的経済の全国拡大-流通必要貨幣量の増大 〕
28. 〔 貶質計数銀貨の流通拡大-元禄大改鋳 〕
29. 〔 計数貨幣としての銀貨の流通 〕
30. 〔 計数銀貨の貶質化現象-勘定奉行荻原重秀 〕
31. 〔 五代将軍綱吉の時代に幕府財政の破綻-元禄の金銀大改鋳政策へ 〕
32. 〔 秤量銀貨の貶質は市場・商人による評価-必然的に銀貨表示価格の引上げ・物価上昇 〕
33. 〔 改悪鋳による出目効果は全般的・間接的に- 〕
34. 〔 計数銀貨の貶質は、原理的には貨幣面よりの物価上昇の原因とはならない―出目の安定的継続化― 〕
35. 〔 ギリスにおいて事実上の定位・補助貨幣としての銀貨が出現したのは1774年 〕
36. 〔 明和南鐐二朱判の出現―事実上の定位・補助貨幣としての銀貨 〕
37. 〔 イギリス銀貨の軽量化―一般的民間人による非合法の削盗 〕
38. 〔 明和南鐐の場合―貨幣当局によって計画的・意識的・積極的・事前的に推進 〕
39. 〔 天保一分銀に代表の計数銀貨―法制上は本位貨幣、実質は補助貨幣 〕
40. 〔 計数銀貨の交差規定―銀貨の本位貨幣としての秤量貨幣と計数銀貨の規定が交差すること 〕
41. 〔 計数銀貨―実質的には補助貨幣、形式的には本位貨幣 〕


  三上隆三『円の誕生』
  第2章 江戸時代の貨幣制度と貨幣的経済

  一 三貨制度

1. 本章での考察の2つの限定条件
 〔江戸期幣制の動向を認識・把握の方法―貨幣と経済的事情の変化を認識・把握の方法〕

 江戸期貨幣制度の考察は、明治4年に成立した貨幣制度、その象徴である円の誕生・出生の観点から、明治幣制にまで達したその推移を明らかにし、その過程に流れる論理の究明への手づるにする。
 江戸期幣制の動向を認識・把握するための方法よりくるものとする。われわれの力点は、この法規・制度という形式・容器の変化よりも、それに対する、あるいはそれにもられる内容・中身をなす貨幣そのものの変化―それとともに、その変化を必然化し規制する経済的事情の変化をもあわせ―におかれている。

2. 〔江戸期幣制創設時の骨格・三貨制度-金・銀・銅貨の本位貨幣〕
 
 周知のとおり江戸期幣制は三貨制度と一般によばれているが、それは貨幣が金貨・銀貨・銅貨の三種からなっていたからである。それぞれは、もとよりあくまでも相対的なものではあるけれども、たとえば江戸を中心とする東国では金貨幣が価格標準に、大坂を中心とする西国では銀貨幣が価格標準に用いられたというように地域によって、あるいは大量取引には金・銀貨が用いられ、小額取引には銅貨が用いられたというように取引高によって、また支配者・高級武士・長者は金貨を用い、下級武士・一般町人・豪農は銀貨を用い、百姓・下層町人は銅貨を用いるといった階級・階層によって、さらには価格表示に、たとえば鯛は金貨で、米・上質の茶・呉服・砂糖・塩・薬礼等は銀貨で、茶・野菜・豆腐等は銅貨でされるというように因習や商品ないし商品の社会的地位によって、というようないろいろの要因によって三貨が偏用され、それぞれの流通圈・世界圏とでも名づけうるものが形成されていた。
 しかしそれにもかかわらず、法的には金・銀・銅貨のいずれも、その流通圈に拘束されることなく無制限の通用力をもつ貨幣なのである。それらのすべては、制度的にも実際的にも、相互間には本位貨幣・補助貨幣の別はなく、したがって全国的規模での本位貨幣であったというべきであろう。さらに三貨のそれぞれは、実際には市場比価・相場によって相互に取引されていたのであるから、江戸期幣制は現在でいうところの併行本位制(parallelstandard)であったともいいうる。しかし江戸幕府が、その実効はともかくとして、一応それらの三貨相互間の比価を公定していたのであるから、この点からいえば併行本位制そのものとは異なるものといわなくてはならない。

3. 〔金貨-計数貨幣の四進法:小判・1/4両=分、1/4分=朱、一分判・二分判・二朱判・一朱判〕

 この三貨制度の一角をになう金貨についてであるが、その計算体系の基本単位は両である。江戸期幣制の、したがって金貨の創設者である徳川家康は、彼が注目するとともに敬意をももった―このあらわれが甲州金をして江戸期の唯一公認の地方金貨たらしめたのである―武田時代の甲州金の単位名・計算法よりそれを借用したといわれているが、その両を基本単位とし、両の4分の1にあたる単位として分、分の4分の1にあたる単位として朱を設け、もって両未満の単位では四進法を採用した。しかし両以上では十進法を採用した。(中略)
 江戸期全体を通じて、貨幣本来の金貨として鋳造された金貨には、小判・一分判のほかに二分判・二朱判・一朱判とよばれているものがある。そしてそれらのいずれも、品位・量目は規定によって統一されていたから、授受にあたって、普通にはあらためてその品位をたしかめ量目を計測することなく、その個数をかぞえることのみによって取り扱われる計数貨幣(currency by tale)であった。(中略)

4. 〔銀貨-秤量貨幣の基本単位・匁:1/10分、1/100厘、1000匁・貫〕

 ついで三貨のもう一つの角を形成する銀貨についてであるが、その計算体系は匁をもって基本単位とし、匁の10分の1を分、分の10分の1を厘と定め、また1000匁を貫と称した。したがって金貨の場合とは異なり、その計算体系は完全な十進法であった。江戸幕府=銀座が鋳造した銀貨にはなまこ形の丁銀とよばれる大きな銀塊と、不規則な楕円形の豆状をした豆板銀または小玉銀とよばれる小銀塊のものとがあった。これは品位は一定であったが、金貨とは異なり、その一個一個の量目も形状も厳密には画一化されてはいず一定ではない。したがって銀貨はその使用にあたって、重量をはかってから授受することを原則とする秤量貨幣であった。
豆板銀は必要とされる一定重量をみたすにあたっての丁銀の不足量(ただし丁銀一個未満の不足量)をみたすという補助的機能を果たすものである。豆板銀の重量よりもさらに微量な加減の必要なおりに使用されるものに露玉銀とよばれる豆板銀よりも小さい粒状の銀貨もある。

5. 〔京・大坂-上方商人の実力〕

 このように三貨制度創始にあたって銀貨は秤量貨幣として鋳造されたのであるが、それについては、中国の元末期ないし明初期(わが室町時代の初期)に現れたという半定型の、元宝または銀錠あるいは宝銀―一日本人は馬蹄(ばてい)銀とよぶ―とよばれる秤量銀貨幣を取引決済に用いる中国人との経済的取引による経験をもち、形態・名目額よりもその実体・内容を重んじる経済人としての本能的合理主義・合理的精神にもとづく行動をとる京・大坂商人が、すでに形成していた上方(かみがた)の銀貨圈に存在していた銀貨についての既成事実を、上方商人のもつ無視しえない経済的実力と、上方になお勢力をもつ豊臣氏の存在という事実を勘考して江戸幕府が尊重しそれをうけいれたことによるものである。銀貨の単位称呼・計算方法がそれ以前より存在していた重量をはかるための一般的なそれと同じであったのもそのゆえにほかならない。


6. 〔銅貨=銭貨 : 計数貨幣-金貨の単位に対して一種の補助的な機能〕

 三貨制度の残りの一角をささえるものは銅貨=銭貨であるが、この出現は金貨・銀貨よりも大幅におくれ、寛永13年(1636)になって寛永通宝として鋳造がはじめられた。銅貨の基本単位は文であり―当初、重さ一匁の銅をもってこれにあてたので、モンメ→モン→文と転化してその名称ができたという―、1文銭1000個をもって1貫とする十進法の計算体系をもつ計数貨幣であった。この銅貨は既述のように全国的規模でひろく一般庶民の日常生活において使用されたが、それと同時に、主として金貨の単位に対して一種の補助的な機能を果たした。すなわち金貨の最小単位である朱にみたない端数のものを永00文として表現したのである。

7. 〔慶長14年(1609)に金一両=銀50匁=永(永楽銭のこと)1000文=京銭(びた銭)4000文、元禄13年(1700)には金一両=銀60匁=銭4貫〕

 ところでこれら金・銀・銅三貨の相互の関係は、既述のように、たとえば慶長14年(1609)に金一両=銀50匁=永(永楽銭のこと)1000文=京銭(びた銭)4000文と、元禄13年(1700)には金一両=銀60匁=銭4貫というように、幕府はそれぞれの比価を公定したのである。ところが実際的具体的には両替市場で形成される比価によって相互は関係づけられていたのである。

 以上によって江戸期の始点における三貨制度の概略をのべたことにするが、三貨の一つを形成する銅貨=銭貨は、われわれの研究にとっては直接の対象にはならないのでこれを捨象し、以後、金貨と銀貨とに焦点をあわせて筆をすすめることとする。




 二 「米遣いの経済」から「金遣いの経済」へ

1. 〔江戸期幣制の変容・貨幣的経済を考察する〕

たんに貨幣が存在するだけとか、その便利さのためにのみ貨幣を利用するといった状態ではなく、貨幣なくしては日常生活が不可能になるまで、貨幣が絶対不可欠の要因として浸透している経済をわれわれは貨幣的経済と名づけている。そして現在われわれが生活をいとなんでいる資本制経済は最高発展段階に達した貨幣的経済にほかならない。貨幣の生成・貨幣の流通は自然発生的なものであるが、江戸期貨幣制度の確立が日本に貨幣の流通・貨幣的経済の発達を促進したことはたしかである。貨幣制度と貨幣的経済との間には相互作用関係が当然に発生するのであり、江戸期幣制が慶長の原型より離脱させられたのもその幣制が促進させた江戸時代の貨幣的経済発展の作用によるものである。したがって江戸期幣制の変容を考察するためには、その原因としての江戸期貨幣的経済を一見しておくことが必要であろう。

2. 〔「米遣いの経済」の発展〕

 江戸時代の日本は、支配階級である将軍・大名・武士等の知行・俸禄とよばれている所得・収入が、米の分量をしめす石・俵・扶持(一人扶持とは一日に玄米五合)によって表示されていたように、農業を基本産業とし土地を主要財産とする「米遣いの経済」とよばれる実物経済・自然経済をたてまえとするものであった。しかし17世紀なかごろよりの、稲の品種改良はもちろんのこと、三ツ鍬や稲こき道具である千歯や千石どおしの出現、魚肥の使用といった生産手段の普及に象徴される農業技術・生産力の飛躍的な発展―この発展は、それを体系的に考察した宮崎安貞の『農業全書』(元禄10=1697年刊)を生みだし結実させている―は産出量の増大を可能にし、それ以降の江戸期社会のあらゆる面に強力な作用をもたらしたのである。

3. 〔貨幣的経済の形成・伸展―「金遣いの経済」〕

 当面のわれわれにとって大切なことは、この生産力の躍進が、消費者である武士・地主階級と生産者である農民階級とのあいだに、商品の生産・流通にたずさわることをもって職業とする大小の商工業者を勃興させたという事実である。彼等商工業者いわゆる町人・職人は徳川家康によって創始された貨幣制度に活をいれて展開させ、商工業を主要産業とし金銀を主要財産とする「金遣(かねづか)いの経済」とよばれる貨幣的経済を形成・伸展させたのである。それのみではない。寛政年間(1789-1801)ころまでには「天下の通用金銀はみな商賈(商人)の手に渡り、豪富の名は商賈にのみありて、永禄の長者たる武家は皆貧窮なり。故に商賈の勢ひ追々盛にして四民の上に出たり。……日本国を十六分にして、其十五は商賈の収納、其一は武家の収納とせり」といわれるまでに金遣いの経済が米遣いの経済を圧倒してしまった。このような江戸期貨幣的経済の発展にみられる時期・内容・水準にはわれわれの想像をこえるものがあるのであって、この点に注目しなければならないめである。

4. 〔不完全貨幣-損傷小判・軽目小判の急激な出現p.64〕

 寛文年間〔1661~1673年〕がきたるべき元禄以降の貨幣的経済への飛躍期であったとする証拠として、庶民の通貨である寛永通宝の大量鋳逝や寛文2年に大坂の金相場会所の前身が設置されたり、寛文10年には有力な両替屋によって十人両替という組織がつくられたという事実もさることながら、まずわれわれはいわゆる損傷小判(切れ金ともいう)・軽目小判(軽目金ともいう)が寛文年間に急激に出現したという事実に注目しなければならない。
いうところの損傷小判とは切れ・割れの瑕疵ある金貨であり、軽目小判とは使用による自然的摩滅でその重量が公式規定よりも軽くなった金貨をいうのである。このような損傷・軽目金貨が慶長6年(1601)の初鋳以来、約半世紀をへて急に大量出現したということは、慶長金貨がようやく不完全金貨をだすほどまでに使用されたということ、貨幣的経済の発展・普及ということを物語るものである。
 しかしここで忘れてはならないことがある。このような不完全貨幣の発生が、もっぱら流通過程における貨幣そのものとしての行使のみによるものではないということこれである。

5. 〔金貨の削りとり〕

 すなわち部分的ではあろうが、それは法度の盲点をつく、いわばなかば合法的な金貨の削りとりにもよるものなのである。慶長金に対する損傷金・軽目金といった不完全貨幣の発生が約50年という時間を要したのに対し、元禄8年(1695)鋳造の元禄金に対して、公儀が不完全貨幣存在の事実をみとめる文書を出したのは宝永2年(1705)である。乾字金(宝永7=1710年)・正徳金(正徳4=1714年)・享保金(享保元=1716年)の諸金貨に対しての不完全金貨をみとめる公文書は享保8年(1723)であり、文字金(元文元=1736年)に対してのそれは延享2年(1745)、文政金(文政2=1819年)に対しては天保4年(1833)というように、不完全貨幣の出現所要時間はわずか9年ないし14年にすぎない。しかもこれは公儀の触なのであり、ことの性質上、それは必ず事実よりもかなりおくれるものなのであるから、元禄金以降の金貨群の不完全金貨は、より短時間のうちに出現したのであり、その原因には流通による自然的摩滅のみではなく、やはり削りとりということも加えねばなるまい。
 慶長金の不完全貨幣が出現した場合のことであるが、幕府は損傷度・軽目度の顕著なものを金座において足し金のうえ補修した。その作業ずみのしるしとして金貨の裏面に「六角の内に本の字」の極印をうちたて、これを「直し小判」として再発行した。・・・・
この完全量目の金貨だけが両替屋の経営を困難にさせるほどにまで選好されたという事実は、その金貨に名目と実質、額面と重量とにある程度の乖離・差違があっても、その不完全貨幣がなお名目・額面によってそのまま完全貨幣として流通することを宿命とする計数貨幣であったため、この経済法則を前提として、完全貨幣である直し小判は、良貨選好もさることながら、削りとりに値する対象として特別視されていたことを示すものである。


6. 〔先進国イギリスの削りとり行為が一般化していた―
 ロック(Locke,J.)とラウンズ(Lowndes,W.)とを代表論客とする有名な改鋳論争
 :資本論ワールド」・ロック―ラウンズ・バーボン論争と貨幣・価値Valueについて2016.4〕

 〔直し小判〕をおびた完全小判の現存物がないということであるから、そのことが事実であるとすれば、それらは削りとりのうえ使用されたか溶解されてしまったことになる。すなわち削りとり行為が一般化していたということである。そしてこの削りとりの普及そのものは、その基礎にあって、その行為をはじめて有効ならしめる貨幣的経済の普及そのものを如実に物語るものである。ついでながら寛文年間の不完全金貨の出現状況は1690年代のイギリスにおいて、ロック(Locke,J.)とラウンズ(Lowndes,W.)とを代表論客とする有名な改鋳論争(Recoinage Controversy)を惹起させた当時の貨幣状態に似ている。そして論争の原因をつくった削りとり貨幣(clipt money)の出現がわが寛文年間とほぼ同時期であったことを知ると、先進国イギリス・後進国日本との公式・固定観念・イメージをもつわれわれには、そのことが一つの興味ぶかい比較経済史的問題を提供するものとしてうけいれることができるのである。

7. 〔不完全貨幣の流通資格規定の拡大〕

 ところで、貨幣が流通手段として機能する場合に生じる、名目と実質、額面と重量との必然的乖離という事実に対する幕府の対処〔p.66〕
(1) 直し小判の作成や状態のよい小判に新極印を打つ
(2) 延宝2年(1674)4月には、新極印の有無にかかわらず、軽量であっても額面どおりに使用せよと命じた。
(3) 宝永2年(1705)10月には、切れ金貨に対して両替屋が歩銀〔取引の額に応じた割合の手数料:『日本国語大辞典』〕をとることを禁じて、それの流通を認めた。
(4) 享保6年(1721)6月、いわゆる公差規定〔許容される誤差の範囲の規定〕をはじめてもうけた。
(5) 享保8年3月、享保20年11月には、「切れ疵(キズ)、へげ疵〔材料の表面の一部が薄くはがれることなどのキズ〕」や量目の規定、一分判の細かい受取規定など、不完全貨幣の流通資格をひろげた。
 また、この流通資格つまり公差を拡大する傾向は持続され、
(6) 寛延2年(1749)12月には一分判について「右分量〔4厘〕ヲ以軽キ分無滞可致通用候」と命じている。
(7) 寛延3年5月には切れはなれた小判を受け取るのは困るから、5分までの切れ金、4厘までの軽目金は受け取り、「形かけそこね穴明候歟又は疵数ヶ所有之類」は受け取らなくてもよいと規定した。
(8) 天保4年(1833)5月にはあらたに二分判について4厘までの軽目金は通用する旨の規定が加えられた。
 以上に引用した触は、不完全貨幣の流通資格規定があらたに量的・質的にゆるめられ拡大されたもののみであって、そのような条件の緩和を含まない、既出規定のたんなるくりかえし・再確認の触も右の引用数とほぼ同数のものがだされている。

8. 〔寛文期における貨幣的経済の質的躍進〕

 とまれこのような規定がくりかえし布告されたということは、貨幣のあらゆる意味での取り扱いのはげしさ、したがって貨幣的経済の発展を物語るものなのであるが、この規定のはしりは実に元禄よりも前の延宝2年であり、ここにも元禄期よりも以前に、すなわち寛文期における貨幣的経済の質的躍進の傍証を見出しうる。寛文期の貨幣的経済にわれわれが注目するのは、もとよりその時期に貨幣がひろく用いられていたというたんなる事実によるものではない。貨幣が流通しているということだけであるのなら、程度の差こそあれ、室町時代ないしは鎌倉時代にまでさえさかのぼって同じ事実を見出すことも可能である。だが寛文期は実に米遣いの経済に対する金遣いの経済の、自然的実物的経済に対する貨幣的経済の制覇がされはじめている時期であり、以後不断・着実に伸展していった本格的な日本貨幣的経済の出発期なのであって、これこそがわれわれを寛文期に注目せざるをえなくさせるものなのである。〔p.68〕

9. 〔不完全貨幣と完全貨幣の対立関係〕

〔このような規定がくりかえし布告されたのは〕所期の〔期待している〕効果をあげるものではなかったようである。
所詮計数貨幣の宿命として、完全貨幣に重点をおけば不完全貨幣は流通せず、不完全貨幣に重点をおけば完全貨幣は保蔵・退蔵され、流通するものは不完全貨幣のみということになる。しかし不完全貨幣のみが流通するということは、本位貨幣の本質とは相いれないことである。にもかかわらず不完全貨幣の発生・流通は計数貨幣にとっては不可避の経済法則であり、寛文期より貨幣的経済が本格的な発展をとげてきたという事実こそがまさにこの事態を恒常化させたのである。そしてこの事態こそが、組織的な科学的検討・理論的把握はされていないとはいえ、長年の体験から補助貨幣的計数貨幣の鋳造を考えさせ実行させたのである。しかしこのことは本節のテーマとは別問題であるので、節を改めてのべることとする。


   新種銀貨の登場 (p.71)

1. 〔慶長以来丁銀・豆板銀とよばれる銀貨〕

 江戸期貨幣制度がその初期状態より離脱し変質していくにあたって、その事態展開のにない手となったものは銀貨だったのである。銀貨といえば、すでにのべたように慶長以来丁銀・豆板銀とよばれる銀貨があり、それは江戸時代全体を通じて鋳造され流通していた。この銀貨の存在実績は、たとえば呉服・タバコ・高級蒸菓子等には、その価格表示に「(銀)ⅹ匁」として排他的に銀貨の量目が使用され、茶のごときは明治期までも「(銀)x匁の茶」としてその品質・格付表現のために残ったほどである。
2. 〔江戸期幣制を変質させた張本人-新種の銀貨・五匁銀〕
ところが貨幣的経済が相当程度に発達した江戸中期にいたり、江戸期幣制開始以来のこの銀貨とは別種の銀貨が、ほかならぬ丁銀・豆板銀を鋳造させている幕府の公認によって出現し、丁銀・豆板銀と並行して流通したのである。このいわば新種の銀貨こそが、まさに江戸期幣制を変質させた張本人なのである。
 新種銀貨の最初のものは、時の勘定吟味役・川井久敬(かわいひさたか)の建議によって、明和2年(1765)9月に姿をみせた「五匁銀」とよばれる長方形の銀貨である。「此度文字銀同位を以、掛ケ目五匁ニ定リ候銀吹立被仰付候間、有来丁銀小玉銀ニ取交、渡方請取方無滞可致通用候」との触のとおり、五匁銀はその時の通用銀すなわち元文丁銀と同品位の銀五匁の量目をもって鋳造されたことになっており(というのは、正確には後述のとおり品位において元文丁銀と一致していないからである)、丁銀・豆板銀と同様に通用銀の一種として通用せしめられたのである。

3. 〔金一両=銀60匁を基準、五匁銀12枚つねに金一両として通用
       秤量貨幣と計数貨幣という異質の銀貨の兼備・併存〕

 しかし幕府はそれにとどまることなく、追い打ちをかけるかのごとく、まず明和4年3月に勘定奉行へ命じ、ついで明和4年12月に宣告した。
すなわち五匁銀が市場銀目相場のいかんにかかわることなく、もっぱら公定比価である金一両=銀60匁を基準として、したがって五匁銀12枚をもってつねに金一両として通用すべきことを一方的に命令したのである。
 このような性格をもつものとして規定された五匁銀の出現は、形式的には秤量貨幣と計数貨幣という異質の銀貨の兼備・併存をこころみることになった。そして幕府はそのことをねがい、また可能であると考えていたのであるが、このような五匁銀出現の実質的な作用は、のちにみるように幕府の予想をはるかにこえるものをもつものなのであって、これはまさに貨幣経済史上の重要なできごとといっても過言ではないのである。

4. 〔秤量の手数・不便をのぞく技術的理由-〕

 そもそも江戸幕府がこのような計数銀貨を江戸中期になってわざわざ鋳造しはじめた理由・根拠はなんなのか。それについてまず考えられるものは、羽田正見(はねだまさみ)がすでにその著『貨幣通考』(安政3年刊)において、明和5匁銀を「誰か銀も金の如く定量あらは急便によからむとの考より出しならむ。此銀久しからすして廃すれとも、後世二朱一朱一分の大利を開くものは是か先駆なれは也。其功偉也」と評しているように、丁銀の取引にあたって必然的にともなう秤量の手数・不便をのぞくという技術的理由である。しかしこれをもって決定的な理由とすることはできない。秤量銀貨の必然的に負うこの欠点を補う方法がすでに考案されていたからである。民間では両替商の鼻祖・天王寺屋五兵衛の創案にかかるものといわれている銀目手形の使用が商取引に普及し、丁銀そのものによる決済ではなく、この手形によって決済されるというメカニズムが生成発展したことは周知のところである。

5. 〔常是包(じょうぜづつみ)―丁銀に豆板銀を加えた500匁を単位〕

 他方、幕府自身のとった方法はいわゆる常是包(じょうぜづつみ)である。その主要なものは五百目包と枚包(まいづつみ)である。丁銀に豆板銀を加えた500匁を単位にして大黒常是(だいこくじょうぜ)に上質和紙で包封させたものが五百目包である。同様に一枚とよばれている通用銀の重量すなわち43匁を単位にして和紙でパックさせたものが枚包である。枚包は大判金と同様に贈答用にされるものであるが、五百目包はまさに貨幣としての使用における秤量をさけるために、包封されたまま流通させられた。
しかし500匁未満の場合にはやはり秤量はさけられないのである。ともあれ秤量の不便をのぞくことは上述のところから付随的な理由であったといいうる。

6. 〔「関東の金遣い、上方の銀遣い」〕

 つぎに考えられる根拠は幕府の威令・威信の問題であろう。俗俚に「関東の金遣い、上方の銀遣い」あるいは「江戸は金目、大坂は銀目」といわれているように、金貨と銀貨がそれぞれの流通圏を異にするという江戸時代を通じての不思議な事実のあったことは既述のところで、この事実は江戸幕府が創出したものではなく、あくまでもそれ以前にあった既成事実を慣行として尊重し踏襲し、あるいは妥協したまでのことにすぎない。というのも奥州の藤原三代の栄光をささえた陸前から陸中にかけての砂金地帯は平安期末ころより有名であり、下野・駿河・常陸・甲斐・佐渡等が有名な金山として開発されるなど、金の産地は比較的東国に多く、鎌倉時代ころから関東では金遣いが行われていた。これに対し上方地方は石見の大森・但馬の生野・因幡の蒲生・摂津の多田、古代よりの対馬の銀山のごとく比較的有力な銀山にめぐまれていたこと、これに加えるに、京の銅吹屋・蘇我理右衛門(住友寿済)はいわゆる南蛮絞りという銀銅吹きわけ法を天正年間(1573-92)に導入・開発し、それまで銀含有のまま輸出されていた交易銅よりの銀採取を可能にしたが、この技術の普及が関西以西を主産地とする銅よりの銀の析出―産銀量―の増加をもたらしたこと、また古くより上方地方が国内経済の中心地であったために、隣国の中国との取引において銀―このことが、既述のように、中国の馬蹄銀と同じように銀貨を秤量貨幣にしたのである―をもって決済したこともあって、自然発生的に銀遣いが支配的となったのである。

 この現実に対し、徳川家康は金遣いの関東では大判金・小判・一分判の形態で、自己所有の金を投入することによって江戸幕府の経済的基礎を確立し、他方銀遣いの関西では、丁銀・豆板銀の形態で銀遣いの伝統を尊重しそれにしたがいつつも―これについては、既述のとおり、幣制創設時にはなお健在であった豊臣政権への政治的配慮のあったことをも加えねばなるまい―、自己所有の銀の投入によって幕府の経済力を権力とともに町人に誇示したのである。


7. 〔慶長14年、金一両=銀50匁-金銀貨の交換比率を公定〕

 そこで幕府は、一定の品位・量目をもつ金塊で鋳造した金貨に一両・一分の極印をうちたて、その額面どおりに通用させ、他方、一定品位ではあっても、量目・形態においては不統一な銀塊のままである銀貨に対しては、すでにのべたように、たとえば慶長14年の金一両=銀50匁というような金銀貨の交換比率を公定し、もって銀貨の価値安定的な流通をはかつたのである。この公定金銀比価がまもられてこそ、すなわち幕府の決めた銀価格がそのまま維持され承認されてこそ、幕府の政治的威令とともに経済的権力・統制が関西にも完全におよびうるのである。
ところが、事実はその時どきの市場相場によって比価が決められ、ために公定比価は有名無実的なものたらざるをえなかったのである。そして時代が経るにしたがって両貨幣間の相場変動に寄食する両替商・商人等は投機的利潤をもくろみ、不当な相場を形成し、それだけ庶民も幕府自身も困惑させられたのである。

8. 〔幕府の貨幣面における政治力・権力が関西の経済力の前に屈服〕

 それはさておき、要するところ銀貨は幕府の権威から離れ、まったく生まれたままの銀塊そのものとして、京・大坂の商人たちのあくなき合理主義の目によって評価をうけたのである。銀貨と金貨とが市場相場を媒介として結びつけられるということは、とりもなおさず幕府の貨幣面における政治力・権力が関西の経済力の前に屈服し、貨政は関西の経済力にゆだねられるということになる。これでは実態として幕府が利権保有者からたんなる貨幣の請負メーカーのように―蛇足だが実際の鋳造者は金座・銀座人である―、いいかえれば商人を支配しているメーカーではなくて商人に支配されているメーカーになりさがることにほかならず、幕府の貨政力は低下せざるをえなくなるのである。

9. 〔計数銀貨としての五匁銀に課せられた任務-幕府の評価のままで強制通用〕

 この低下した貨政力の回復が計数銀貨としての五匁銀に課せられた任務なのである。つまり通用銀である丁銀・豆板銀がうけている市場評価をたちきり、銀貨をして金一両=銀60匁の公定比率で、ということは幕府の評価のままで強制通用させることにほかならないのである。幕府のこの意図の存在は、この系統の銀貨での最初の完成物である天保一分銀の出現によって完全明白に証明されるのであるが、これについては後述にゆずる。

〔注:天保一分銀:額面が記載された表記貨幣(計数貨幣/名目貨幣)で額面は1分。その貨幣価値は、金貨である一分金と等価とされ、1/4両に相当し、4朱に相当した。本銀貨は「一分銀」と直接額面が表示されることとなり、ここで江戸時代の計数銀貨としての完成形をみた。〕


10. 〔田沼意次・一定銀量をその実体価値以上に通用→幕府に、より多くの購買力をえさせ財源を豊かに:出目〕

 ところで、ここにいう幕府の貨幣面での権力回復とは、同時に政治権力の関西財力・経済力への挑戦、経済的利益の争奪ということでもあって、この権力と表裏一体化されている経済的利益の入手ということが、この新種銀貨を作る第三の、しかも基本的な理由・根拠となるのである。威令の回復というような形式的・観念的な自己満足のためにのみ計数銀貨の新鋳にふみきるというのでは、幕府としてもあまりにも大人気ないことであり、威令の確立ということだけなら既存の丁銀によっても十分に可能だからである。
 この第三の理由を具体的にいえば、公定の金銀貨交換比率―公定銀目相場を墨守すべき絶対の前提として、しかも一定銀量をその実体価値以上に通用させ、一種の出目、したがって幕府に、より多くの購買力をえさせ財源を豊かにしようということなのである。すなわち幕府財政の確保を焦点にする商品作物の栽培奨励・池沼の干拓・長崎貿易の振興・専売制確立・北海道開発計画等、都市の商業資本と結託しての重商主義的積極・拡張政策の一環として、この新種銀貨案は田沼意次によって採用・強行されたのである。この第三の理由・根拠こそが新種銀貨鋳造の第一義的なそれであって、既述第二の理由・根拠は、この第三の理由・根拠をみたすための必要条件としての意義をもち、第一のそれにいたっては第三の理由・根拠にもとづく行動の本質をかくし、それに大義名分を与えるためのものにすぎないといってもさしつかえないであろう。



11. 〔出目と五匁銀系統銀貨の政策目的-五匁銀と文字銀=元文丁銀とは同品位〕

 いうところの新種銀貨による出目(御益あるいは御繰り合わせ金ともいう)とはどういうものであるのか。明和五匁銀の量目は五匁であったが、品位1000分の460のゆえに、一枚の銀量は2.3匁 〔5匁×0.460=2.3匁〕 であり、五匁銀12枚=60匁=金一両相当分の銀は27.6匁 〔2.3匁×12=27.6匁〕ということになる。
ところがすでに引用した公儀の触によれば、五匁銀と文字銀=元文丁銀とは同品位ということになっている。しかし甲賀宜政の『徳川氏貨幣一覧表』によれ頃、元文丁銀の多数実験にもとづく品位数値は1000分の451である。そして五匁銀の出された明和2年の金一両に対する銀目相場は、『貨幣制度調査会報告』(明治28年)所収の「慶長6年(西暦1601年)以降本邦金銀価格比較表」によれば約62.5匁であり、これを63匁として、元文丁銀の一両相当分の銀量を計算すれば28.4匁 〔63匁×0.451=28.413匁〕 ということになる。かくて幕府は五匁銀を出すことによって、丁銀の場合にくらベ1両につき約1匁の銀を利得 〔28.4匁—27.6=0.8匁〕 、1匁少ない銀量をもって1両としての購買力をもたせることが可能になるのである。

12. 〔幕府の新種銀貨・五匁銀鋳造の意図-出目入手は失敗〕

 もとより五匁銀そのものに関するかぎり、出目の分量はそれほど魅力的なものではない。しかしこの新種銀貨を、五匁銀という銀貨出現の一時点よりする狭い短い視野のみでみるのではなくて、それ以降の長期にわたって、同系統銀貨が続鋳されたという事実をみるならば、幕府の新種銀貨鋳造の意図がいかに出目入手にあったかということが、より明確になるのである。なるほど幕府は金一両=銀60匁の公定銀目相場で五匁銀の流通を強行しようとしたが、通用銀の市場銀目相場が六三匁であったがために、この試みは所期の効果をあげることができず、両替屋に滞留している五匁銀を幕府が買い上げるという回収方法で、別に五匁銀停止の町触もなく、自然消滅のかたちで五匁銀は流通過程からその姿を消したのである。

13. 〔五匁銀系統の銀貨・「南鐐」を鋳造-銀目相場にかかわることなく
      8枚で金一両に通用する通称明和南鐐の二朱判〕

 このように幕府は五匁銀を廃止せざるをえなくなりはしたが、それにもめげず、すでに明和9年(1772)9月には、あくまでも所期の目的を果たすべく、趣向をこらし、かえながらも五匁銀系統の銀貨を鋳造した。すなわち「此度通用之ため吹抜候上銀、南燎と唱候銀を以、二朱之歩判被仰付候間、右歩判8を以金一両之積」と触書がのべているように、銀という一般用語をつかわず、純度のよい銀・上銀を意味する「南鐐」なる言葉をことさらに用い、他方ではそれに対応して「唐・安南・阿蘭陀」からの輸入銀をその吹元と回、南燎と名のるのにふさわしい良質のしかも1000分の978という純銀にちかい品位の銀片のものであったとはいえ、すなわち上銀であるから一般通用銀の2倍半の価値があるとの主張を根拠に、量目にして五匁銀の約半分の、しかも銀目相場にかかわることなく8枚で金一両に通用する通称明和南鐐の二朱判を鋳造したのである。

14. 〔同系統銀貨の出目:金一両=銀60匁、〕

 つづいて、新一分銀とよばれる安政一分銀(安政6=1859年)の出現までの間に、同系統銀貨として文政南鐐二朱判(文政7=1824年)・文政南鐐一朱判(文政12=1829年)・天保一分銀(天保8=1837年)・嘉永一朱銀(嘉永7=1854年)がつぎつぎに鋳造されている。
 新種銀貨であるこれら五匁銀系統の銀貨が幕府に対していかに出目をもたらしたかは、次にかかげた第2表の各種銀貨の「金一両当たり銀量」における数値をみれば明白であろう。
  **「リンクを新しいウィンドウで開く」―本文と対比しながら検討

 同系統銀貨での相互比較もさることながら、新種銀貨それぞれの金一両当たりの銀量をその時の通用銀の市場銀目相場での必要銀量と比較すれば、
〔金一両=銀60匁として、9.6÷60匁=0.16 金一両につき16%の出目〕
 明和南鐐二朱判の場合9.6匁
〔元文丁銀・金1両当たりの銀量30.7—明和南鐐二朱判・金1両当たりの銀量21.1=9.6匁〕 、
 文政南鎗二朱判の場合で7.2匁、
 文政南鐐一朱判で11.5匁、
 天保一分銀で6.6匁、
 嘉永一朱銀で9.7匁、
 安政一分銀で1.7匁
と、それぞれ幕府に一種の出目をもたらすのである。公定銀目相場での必要銀量と比較してみても、
 明和南鐐二朱判で5.9匁 〔27.0-21.1=5.9〕、
 文政南鐐二朱判で5.4匁、
 文政南鐐一朱判で11.0匁、
 天保一分銀で6.5匁、
 嘉永一朱銀で7.8匁
とそれぞれ出目をもたらす。

  第2表 各種銀貨の金一両当たりの銀量

15. 〔銀貨鋳造の力点が従来の丁銀から五匁銀系統銀貨へ p.〕
 そしてそのことは元文元年(1736)から安政6年(1859)の約120年間に、出現した丁銀が4種であるのに対し7種(安政二朱銀はのぞく)もの新種銀貨を鋳造しているのみならず、通用銀の鋳造高が、元文丁銀(豆板銀を含む。以下同じ)では約52万5466貫であるのに対し、文政丁銀は約22万4982貫、天保丁銀は約18万2108八貫、安政丁銀は約10万2907貫というように、年をおうにしたがって下降激減しているのに反し、新種銀貨の鋳造高は、五匁銀では約1806貫、明和南鐐二朱判で12万8153貫、文政南鐐二朱判では12万1379貫、文政南鐐一朱判で9万7938貫、天保一分銀で18万1508貫、嘉永一朱銀で7万9622貫とほぼコンスタントであり、したがってその数値が示しているように、銀貨鋳造の力点が従来の丁銀より五匁銀系統銀貨へ移行した事実によってもまた証明されるのである。



   計数貨幣としての銀貨の意義

1. 〔五匁銀系統銀貨の貨幣的経済史上における意義〕

 明和2年(1765)にはじめてその姿をみせた新種銀貨・五匁銀が、江戸期銀貨における例外的一時的存在でなかったことは前節においてのべたとおりである。この五匁銀にはじまる新種銀貨、すなわち五匁銀系統の銀貨が長期にわたって存在したという事実は、当然のことながら、既存の銀貨のみならず金貨にも大きな作用を与えたのであるが、それだけにとどまらず、広く深く強く江戸期貨幣的経済全体にも作用を及ぼしたのである。そしてこれらの作用のすべては五匁銀系統の全銀貨に共通する計数貨幣としての機能より発するものであった。いま計数貨幣としての五匁銀系統銀貨の貨幣的経済史上における意義を考察すれば、およそ以下の諸点をあげうるであろう。

2. 〔★論点0:秤量貨幣としての銀貨の意義・伝統と
    新種銀貨の計数貨幣-江戸時代の資本論・貨幣制度〕

 その第一のものは、慶長以来つづけられてきた秤量貨幣としての銀貨の意義・伝統が、新種貨幣である計数貨幣としての銀貨の出現・存在におされ、おかされ、衰退せしめられたということである。もとより秤量貨幣から計数貨幣へという推移は一つの自然法則とでもいうべき現象なのであって、ただわが国では、それが前述の理由にもとづいての江戸幕府による、上からの力によって明和年間に点火・促進されたにすぎない。しかも計数銀貨が鋳造されたとはいえ、秤量銀貨は廃止されることなく、あいかわらず鋳造がつづけられたのである。その結果として、幕府の銀貨専用造幣所である銀座というまったく同じところで鋳造されながらも、性格を異にする秤量貨幣としての銀貨と計数貨幣としての銀貨とが並行して流通することになった。

3. 〔有名なグレシャムの法則—悪貨である計数貨幣としての銀貨〕

 もとより両者が同等に差別されることなく流通することが幕府にとっての理想であったにちがいないが、現実はそのように首尾よく展開はしなかった。前節においてのべたところからも明らかなように、計数貨幣としての銀貨は秤量貨幣としての銀貨である丁銀にくらべて悪貨だったのであり、したがって両銀貨の間には、当然のこととして有名なグレシャムの法則が教えるとおり、良貨である丁銀がしだいに流通界からその姿をけし、悪貨である計数貨幣としての銀貨が着実に勢力をのばすことになった。

4. 〔計数貨幣としての新種銀貨の出現・登場-関西銀貨圏にある町人社会の財力・経済力への挑戦〕

 グレシャムの法則が実現するということは、悪貨である計数銀貨が流通過程をわがもの顔で活動し、それを支配するということである。しかし実際において計数銀貨がグレシャムの法則を実現するには、それに対する強力な抵抗を排除するための努力が必要なのであって、直線的自動的機械的に安易に実現されたものでは決してなかった。そもそも計数貨幣としての新種銀貨の出現・登場が、関東の金貨圏にある公儀政治権力の、関西銀貨圏にある町人社会の財力・経済力への挑戦そのものであったことは前記のところであり、また五匁銀が思うようには流通せず、幕府権力の失敗におわったことも前述のとおりである。この五匁銀発行の計画が失敗に帰したのは、その背後にある幕府の権力主義が一般民衆の経済的合理主義にもとづく反抗に敗れたことによるものである。

5. 〔南鐐二朱判の強制通用-幕府対大阪商人の銀貨圈〕
 
 しかし幕府は五匁銀での失敗にこりず、形式をかえてではあるが、第二弾としての明和南鐐二朱判を鋳造することによって、再度権力の経済力への挑戦をこころみた。権力側よりの挑戦をうけた銀貨圈側は当然にこれに抵抗をこころみた。それがいかに強力であったかは、明和南鐐二朱判の出現した翌年である安永2年(1773)5月の南鐐二朱判を流通過程にのせるためのやつぎばやな一連の幕府命令によってうかがい知ることができる。
権力による南鐐二朱判の強制通用に対して町人がとった反抗方法は、グレシャムの法則とはまさに反対の、いわゆる「えりぜに」「よりぜに」すなわち撰銭行為であって、悪貨の南鐐銀貨は無視し良貨である従来の丁銀・豆板銀のみを選好・使用するということであった。・・・以下省略・・・

6. 〔大阪商人の対応〕

 これについては南鐐二朱判を鋳造(明和9年9月)直後の10月に、大坂商人― 両替商ならびにエリート的町人に無利子で貸し付けるとか、あるいは「ならびにエリート的町人に無利子で貸し付けるとか、(中略)さらには両替商が南鐐二朱判一両を売る場合には、買い手に0.4匁の銀を余分に与え、逆に両替商が同じものを買う場合には、売手から銀0.8匁を余分にとるという方法での南鐐二朱判使用者優遇を内容とする「売上4分買上8分」とよばれる引替制の設定といった、幕府が意識的・積極的にとった一種の宥和政策の効果もさることながら、情況の変化に即応しての町人の合理的行動の結果でもあることを見落としてはならない。
 ということは、上方での明和南鐐二朱判の流通をもって公儀権力ヘの町人の全面的屈服とみることは早計であるということである。公儀への経済的反抗戦術を転換したにすぎないからである。武力のうらづけをもつ絶対的権力に無駄な犠牲を払わせられるよりは、それをさけて公儀に名をなさしめると同時に、自分は実をとるという方法をとって抵抗をつづけたのである。(中略)
 町人が「えりぜに」戦法からグレシャム法則へと戦術をかえたことが容易にわかる。
 すなわち南鐐二朱判の出現によって良貨となった金貨や丁銀を町人が流通過程から引き揚げ・隠匿した結果として、それらの不足、悪貨である南鐐二朱判のみの意識的な使用という町人のレジスタンス発生に対しての幕府の周章狼狽・苦慮のほどがこれらの触より遺憾なくよみとりうる。

7.  〔★論点0 ―「えりぜに」とグレシャムの法則-銀貨体系は、実質的には金貨体系に吸収〕
しかしその態度の相違にもかかわらず、その根底にあるものは同じだった。すなわち公儀権力の決める貨幣価値ではなくて、貨幣素材そのもののもつ価値によって貨幣を取り扱うという合理的精神を失わなかった。そしてこの合理主義的行動が、公儀権力に服従するという形式をとりつつ、実質において良貨を選好しつづけ、はじめは「えりぜに」が、ついでグレシャムの法則が発生し、ここに計数貨幣である新種銀貨がその流通シェアを着実にのばすことになったのである。


8. 〔銀貨体系の崩壊と計数銀貨の改鋳・発行推移 p.90〕

 第二のものとしてあげうるものは、それ自体として一つの完結したものをもち、したがって金貨体系とは独立した特異性をもつものとしての銀貨体系が、内部そのものより崩壊し、徐々に金貨の体系に吸収・併合されていったということである。換言すれば、事実として幕末まで丁銀・豆板銀は鋳造されていたのであるから、形式的にはまがりなりにも銀貨それ自身の独特な体系を維持していたことになるが、全体としてみた銀貨体系は、実質的には金貨体系に吸収され、その独立性を失うのである。そのことは、第一でのべたように、自己の勢力分野をのばし、銀貨の代表となった計数貨幣としての新種銀貨が、改鋳のたびにかえていったその極印文句の変化において見出すことができる。
〔編集部注:計数銀貨の発行推移〕


9. 〔計数貨幣の銀貨第1号・明和五匁銀とその後〕

 計数貨幣としての銀貨第1号である明和五匁銀の極印は「銀五匁」である。これ自体はまだ秤量貨幣銀貨として ― 事実、鋳造当初は秤量貨幣として取り扱われていた ― の色彩・面影を濃厚にのこしているといわなくてはならない。いな丁銀の一変種といってもさしつかえないくらいである。しかしながらその第2号銀貨にあたる明和南鐐二朱判と第3号銀貨にあたる文政南鐐二朱判には、ともにその表面に同様の「以南鐐八片換小判一両」との極印が、つづく第4号銀貨の文政南鐐一朱判は「以十六換一両」との極印が打ちたてられている。もとよりこれらの極印文でいうところの「小判一両」またはたんなる「一両」とは、金貨である一両小判以外のなにものでもない。というのは、幕府鋳造の一両という単位・称呼をもつ小判銀貨は存在していないからである。〔第5号・天保一分銀〕

10. 〔南鐐貨幣―金貨一両との個数関係・交換比率
  ―江戸時代の貨幣両替一覧参照・「江戸時代の三貨制度」ウィキペディア〕

 したがって前記の三種の南鐐貨幣は、その極印文が指示する金貨一両との個数関係・交換比率にしたがって計算することで、それぞれ間接的に金貨の計算体系の二朱および一朱の価値に匹敵・相当するものとして認知・判定され位置づけられ、そしてその価値をもつものとして強制通用せしめられたのである。

11. 〔江戸中期以降金・銀公定レート:金1両=銀60匁=銭4,000文〕
 金貨幣 : 二分金(2枚で1両)、一分金(4枚で1両)、二朱金(8枚で1両)、一朱金(16枚で1両)、
 計数貨幣の銀貨 : 一分銀(4枚で金1両:天保8年・1837~:一分金)、
 二朱銀(8枚で金1両:安永元年・1772~:二朱金)、
 一朱銀(16枚で金1両:文政12年・1829~:一朱金)、 〕

〔(1). 金貨の通貨単位は両(りょう)であり、補助単位として1/4両にあたる分(ぶ)、1/4分にあたる朱(しゅ)があり、この4進法の通貨単位は、武田信玄が鋳造を命じたとされる甲斐国の領国貨幣である甲州金の通貨体系を踏襲したものであった。
 基本通貨は計数貨幣である金一両の小判とその1/4の量目の一分判であるが、元禄期には小判の1/8の二朱判が登場し、江戸時代後半には小判に対し金含有量の劣る、五両判、二分判、二朱判および一朱判も発行された。
(2). さらに明和期に登場した南鐐二朱銀(判)を皮切りに一分銀および一朱銀など本来金貨の単位であった、分および朱を単位とする計数貨幣銀貨が発行されるに至った。
 これらは「金代わり通用の銀」あるいは「金称呼定位銀貨」とも呼ばれる。〕

12. 〔南鐐貨幣-金貨体系に価値のよりどころ・従属〕

 このように南鐐貨幣は、形式的には謎かけのような極印文句のゆえに、直接的には金貨体系の貨幣称呼を帯びていず、このことによってかろうじて銀貨それ自身としての面目・独自性を保ってはいるものの、実質的には金貨の体系に従属しているものといわなくてはならない。 このことは、南鐐貨幣がかかる極印文句によって、その価値のよりどころを自己自身ではなくて金貨にもとめることになり、ために銀貨は金貨に従属せざるをえなくなるともいいかえうる。

13. 〔南錬貨幣のもつ極印文の「換小判一両」の「換」という文字〕
 この意味において「以南鐐八片換小判一両」「以十六換一両」の極印文句は、実質において、昭和17年以前の日本銀行券に印刷されていた文句「此券引換に金貨x円相渡可申候(也)」と同じ機能をもつものといえよう。とはいえ、日本銀行券の場合には、形式的には金貨との無条件兌換を建前とし、実際に短期間であったとはいえ兌換したこともある。
 しかし南鐐貨幣の場合には、南錬貨幣のもつ極印文の「換小判一両」の「換」という文字の意味するところのものは、たんに金貨同等のものとしてその銀貨が通用するものであると心得よ、ということにすぎないのであって、そもそもの最初より、一般民衆の請求に応じて幕府が銀貨を金貨に無条件で交換することを保証する意志をまったくもつものではなかった。

14. 〔南鐐二朱判(銀)の規定品位(明和,寛政,文政南鐐二朱判)
       :金0.13%/銀97.81%~金0.22%/銀97.96%〕

 通用銀である丁銀とは異なり、上銀のしかも純銀に近いもの〔編集部注:「二朱判」参照〕で作っているから、これを金貨同様にというより、より正しくは、金貨そのものとして取り扱い通用させるべしとの当局の意図が、南鐐貨幣の正称をして、たとえば二朱銀とはせず、わざわざ金貨の名称と同様に二朱判とよばせたり、あるいは南鐐貨幣の両替にあたっては、「小判両替之節も、多少ニ不限、小粒ニ取交両替致シ、切賃之儀も、是迄金之両替同様たるべく候。……若両替屋共銭屋共二不限、通用方難渋致し、二朱判を以……金と致差別、歩引を相立、惣て取遣り相滞候趣相聞候ハ ゝ 、吟味之上急度咎可申付者也」と指示・広報していることに注意すべきである。

 〔編集部注:「二朱判」:南鐐二朱判(銀)の規定品位:
  金0.13%/銀97.81%~金0.22%/銀97.96%(明和,寛政,文政南鐐二朱判):「二朱判」ウィキペディア参照〕



15. 〔三つの南鐐貨幣-完全に金貨に従属する計数銀貨への移行の橋渡し-と天保一分銀〕

 形式的名称は金貨的であり、実質では銀貨であるというこれら三つの南鐐貨幣は、これを計数貨幣としての銀貨群の歴史のなかにおいてみれば、過渡的形態、すなわち明和五匁銀と天保一分銀〔-計数貨幣としての銀貨は天保8年(1837)に鋳造された「一分銀」の出現をもって、名実ともに完成する-〕との間にあって、名目・実質ともに秤量銀貨からはなれ、完全に金貨に従属する計数銀貨への移行の橋渡しを行ったものとして位置づけうるものである。というのは計数貨幣としての銀貨の第5号〔1. 明和五匁銀, 2,3,4三つの南鐐貨幣5. 天保一分銀〕は天保一分銀であるが、それは単刀直入に「一分銀」という極印をおびており、ここに名実ともに銀貨体系はその独立性・独自性をうしない、金貨体系に従属することになってしまった。

16. 〔南鐐貨幣と天保一分銀-明和南鐐二朱判(銀:1772),寛政南鐐二朱判(銀:1800),文政南鐐二朱判(銀:1824),〕

 すなわち南鐐貨幣、たとえば文政南鐐二朱判の場合だと、解釈のしかたによっては、公定銀目相場により、その一枚は7.5匁の通用銀相当の銀貨であるともいいうるが、天保一分銀の場合には、その一分という単位はまさに金貨のみのそれであって、それ以外の解釈は許されえないのである。したがって計数貨幣としての天保一分銀は、直線的に金貨の一分判に通用する銀貨という意味でのみ一分銀と称し、もって金貨の体系のなかに直接に位置づけられ、一分判金貨そのものとして強制通用せしめられた。換言すれば一分銀は名実ともに金貨の価値によって基礎づけられ、それを代理するものとなったのである。(p.93)

17. 〔明治新政府-丁銀・豆板銀の通用停止=金額の銀目表示禁止〕

 第四のものとして考えられることは、天保一分銀の出現により、銀貨が金貨体系に名実ともに吸収され、銀貨体系それ自身の独自性が崩壊してきたことから、商品の価格表示においても―もとより小額取引における銅貨による文価格は別として―銀貨特有の匁・分〔ふん〕・厘すなわち銀目の形骸化・解消、他方における金貨による両・分〔ぶ〕・朱への統一化が徐々にではあるが強力におしすすめられたということこれである。このことは、後に明治新政府をして、丁銀・豆板銀の銀貨鋳造にはまったく一顧だにさせなかったのみならず、一歩すすめて、政権獲得直後の慶応4年5月9日に、「関東の金遣い上方の銀遣い」にみられる商習慣の不統一を解消する目的のためとはいえ、みずからの経済的基盤である上方に打撃をあたえるような、「今度貨幣定価御取調之上、丁銀豆板銀之儀、以後通用停止被仰出候間、是迄銀名ヲ以テ貸借有之向ハ、其取引致シ候節之年月日之相場ニ依テ、金銭仕切ニ相改可申候」との一片の布告で、丁銀・豆板銀の通用停止=金額の銀目表示禁止の強行を可能にさせる物的基礎を提供したのである。

18. 〔江戸末期には丁銀・豆板銀が無用の長物化していた〕

 もとより丁銀・豆板銀通用停止というこの拠置に対しては、銀貨圏の中心である大坂の両替屋がレジスタンスの意味での廃業や銀目手形所有者による換金・取りつけによるおよそ40軒におよぶ破産・連鎖的倒産をみるという事件もあったが、また他方、新政府のとったこの行動が、あるいは新政府による新幣制確立のための予備工作であるとか、あるいは紙幣同然に流通していた大坂両替商の発行する銀目手形を断絶し、もってあらたに登場する太政官札の円滑な流通をはかるために、とかいわれているが、結果として物価体系に、ということは国民生活に決定的な混乱をもたらさず、したがってまた両替商以外の一般庶民の本格的な反抗もなく銀目廃止を断行・強行しえたのも、根本は銀貨がすでに計数貨幣となっていたのみでなく、全面的に金貨体系に吸収されており、丁銀・豆板銀が無用の長物化しつつあったという事実があればこそにほかならない。

19. 〔金・銀・銅の三貨制度から江戸末期には金・銅の二貨制度に集約
    -田沼意次によって採用された新しい銀貨政策(金貨一元化)〕

 要するに、江戸期幣制はその出発点においては金・銀・銅の三貨制度であり、法制上では倒幕までそのままの三貨制度に終始したものであったとはいえ、実質的には経済の発展にともない、丁銀・豆板銀の脱落、およびつぎにのべる計数銀貨の金貨への従属によって、江戸末期には金・銅の二貨制度となり、しかも消費生活上における銅貨の意義はもとより否定すべくもないが、いわゆる積極的経済分野においては金貨が中心的機能を果たしていたので、実質的には金本位制度であったといいうる。この意味において田沼意次によって採用された新しい銀貨政策は、彼等一派が意識していたか否かにかかわらず、貨幣経済の金による一元化の道をきりひらくものであったといいうる。・・・以下省略・・


20. 〔五匁銀の失敗から南鐐二朱判へ〕

 いまのべたことを、より正確にいえば、天保一分銀において完成した計数銀貨は、補助貨幣としてのみ流通・存在しえたということになる。というのは、元来、明和五匁銀は秤量貨幣の一変種として姿を現したのであり、そのかぎりにおいては、いかに幕府の強権をもってしても、金一両に通用銀約63匁という市場銀目相場=経済法則を破ってまで、公定相場による通用を実現しえず、ついに失敗するところとなった。このことは自由鋳造・公定率での金銀の自由交換のみとめられていない条件下では当然のことである。したがって当局は五匁銀の失敗を勘考して、出目という目標は同じであってもその実現形態をかえ、南鐐二朱判を鋳造したのである。

21. 〔二朱という金貨単位の計数貨幣-元禄10年と天保3年発行〕

 そもそも二朱という単位の計数貨幣は元禄10年(1697)にはじめて金貨で姿を現した。そして金貨での二朱貨幣がつぎに現れるのは、その後の6回目の金貨改鋳にあたる天保3年(1832)である。明和南鐐二朱判はまさにこの間をついて、ということは元禄二朱金は宝永7年(1710)で鋳造打ち切りになっているから、その二朱金のイメージをつぐ計数銀貨として、一分や一朱ではなくてまさに二朱という単位のものをつくったのである。したがって南鐐二朱判は元禄二朱金貨に代わるもの、より一般的には、金貨に対する補助貨幣としての意識をもってつくりだされたものとさえいいうる。銀貨の計数貨幣化が五匁銀では失敗し二朱判で成功した根拠の一つがここにあるのかもしれない。

 〔金貨の基本単位は両。 補助単位として分(ぶ)と朱がある。
    1両=4分 1分=4朱 1両=16朱 :4進法の計算体系。
   (銀貨の単位・匁の1/10にあたる分(ふん)と呼ぶ)〕

22. 〔南鐐二朱判-大量の出目獲得
    金貨価値のリンクで銀貨の価値づけ―計数銀貨の鋳造に成功〕

 そしてこの南鐐二朱判は、一方では、一両相当銀量を五匁銀の27.6匁に対し21.1匁とすることによって多大の出目をあげつつも、他方では金貨の価値によって銀貨の価値づけをしてこの貶質(へんしつ:劣化・変質)をかくし、同時にこの貶質をテコとして補助貨幣たらしめ、ついに流通する計数銀貨の鋳造に成功したのである。そしてこの方向での名実ともの完成物が天保一分銀であることはいうまでもない。(p.103)

23. 〔一分銀の普及-計数銀貨の定着〕

 実質上の定位貨幣・補助貨幣としての計数銀貨の流通に幕府が成功しえたについては、もとより幕府の努力と強制、および使用上の便利さならびに、「当時、わが国では一分銀なるものが通用していた。これは元来一分金の代用をしていたもので、本当の銀貨と見るべきものではなかったのだが、当時においてはこの一分銀の方が国内の取引に多く用いられていて、判金と称されていた金貨は市場に影をとどめないほどであった」とのべられているような、民衆によるグレシャム法則的行為によることもさりながら、より根本的には、江戸中期以降における実物経済・自然経済の解体、貨幣のそれへの浸透・貨幣的経済の量的質的発展によるものであることを見落としてはならない。(p.104)


24.  〔商品生産と流通の全国化と貨幣量の増大〕

 熊沢蕃山のいう「金銀銭の通用なる故、米を売らでは公役も何も調らず」、すなわち全国の大名による自己藩産の米穀の大坂における恒常的換銀、純粋消費階級としての一大武士集団の消費充足のための大坂から江戸への径路を中心とする、巨大な消費都市としての江戸・大坂・京都や、全国の城下町・門前町・宿場町・港町への各種物資の輸送・販売、それに対応しての全国的な商業の発達と各地における作物の商品化生産ならびにマニュファクチュアの勃興にもとづく手工業の発達等を中心としての全国的な商品生産、たとえば棉・椿・藍・煙草・砂糖・みかん・茶等の商品作物、ならびに綿織物・絹織物・染色品・紙・塩・蝋・酒・油・漆器・陶磁器・金物・鋳物等を主体とする商品生産が盛んになった。それら商品・産物の流通量増大は流通に必要な貨幣量の増大を必然化する。

25. 〔貨幣-完全な重量=素材価値をもつ必要としない〕
 
 しかも商品流通の発展―売買が不断にくりかえされている領域では、貨幣はたえず流通過程に滞留し、もっぱら流通手段としての機能の専門的にない手となる。そのかぎりでは、貨幣はつねに休むことなく手から手へと移動しているのであるから、貨幣はたんに象徴的なもの―価値の一過的・暫時的証明をなしうるものであればよく、それが公認されてさえいれば完全な重量=素材価値をもつものであることを絶対的には必要としない。

26.  〔流通貨幣の貶質-形式的内容と実質的内容、額面と重量との乖離〕

 長年の使用によってたとえ摩滅し軽量になっても、すなわち形式的内容と実質的内容、額面と重量とに差が生じても、その形式・額面によって完全貨幣として通用する可能性が生じる。このような生産性の向上・商品量の増大にもとづく流通手段としての貨幣必要量の増大という経済法則こそが貶質された計数銀貨をして流通可能ならしめたものなのである。

27. 〔紙幣発行-貨幣的経済の全国拡大-流通必要貨幣量の増大〕

 幕府はその崩壊寸前の場合を例外とすれば、通貨としての機能を果たした紙幣を発行したことはなかった。その代わりに―といってもよいだろう―寛文元年(1661)に越前福井藩が幕府の許可をえて銀十匁札を発行して以来、消長の波はあったが、全国の多くの藩・旗本領で藩札・旗本札とよばれている紙幣が発行された。

28. 〔貶質計数銀貨の流通拡大-元禄大改鋳〕

 この紙幣発行を幕府が認めざるをえなかった根拠の一つは、貨幣的経済の全国的支配による流通必要貨幣量の増大にもかかわらず、一方における長崎貿易を通じての金銀の海外流出、他方における金銀産出量の低下とがあいまって、幕府による貨幣の鋳造・供給量がその要求を十分にはみたしえず、京都・大坂・江戸や長崎等の幕府直轄地以外のところでは、とくにその度合いが高かった。これこそが、はやくも出目をめざした元禄の大改鋳に格好の大義名分を与えることになったものであるが、貶質されたものであるにもかかわらず、その計数銀貨が必然的に流通しうる基盤をも提供したのである。いなそれのみではない。流通必要貨幣量と現実流通金銀貨幣量との差―不足量を補いみたすものとして発行された各地の紙幣にたいする兌換用正貨・準備貨幣としての機能をさえその貶質計数銀貨に果たさせたのである。

29. 〔計数貨幣としての銀貨の流通〕

 もっとも金遣いの経済法則にのっとって幕府が計数貨幣としての銀貨を流通させたことは、長期的には貨幣的経済を促進させることによって、米遣いの経済のにない手であり、それあってこそ存続しうるはずの幕府が、自分の手でみずからの土台であるその米遣いの経済を否定することにもなったことはいうまでもない。
ちなみにこの時期における計数銀貨の流通という事実は、中国において例の馬蹄銀の秤量銀貨が1933年の廃両改元令まで営々として流通していたという事実と対比するとき、それがわが国の農業生産力、ひいては経済一般の質的水準が先進国である中国のそれを追いぬいたことを物語るものであろう。 〔p.106〕


30. 〔計数銀貨の貶質化現象-勘定奉行荻原重秀〕

 ここで計数銀貨の定位・補助貨幣的存在に関連してのべておきたいことがある。計数銀貨の貶質化現象についてである。すなわち計数銀貨こそ既述の流通必要貨幣量の経済法則を活用し、出目の実現をもっとも合理的に果たしたということである。もっとも低質という点については秤量銀貨においても同様なのであって、そのことは次ページの第3表をみれば明白であろう。とくに宝永銀(通称ニツ宝銀)・永字銀・三ツ宝銀・四ツ宝銀の四種は実に宝永3年(1706)から正徳元年(1711)のわずか6年の間に実施された貶質・改悪鋳貨である。四ツ宝銀にいたっては慶長銀における銀銅比の逆以下であり、銀二・銅八の銀貨と称するにはあまりにも貧弱な内容のものであった。
元禄銀以降のすべての銀貨改悪鋳を敢行したものは、財政通として幕府に重用された勘定奉行荻原重秀であって、この改悪鋳は新井白石の弾劾によって正徳2年9月に彼が罷免されるに及んでやんだ。

31. 〔五代将軍綱吉の時代に幕府財政の破綻-元禄の金銀大改鋳政策〕

 このたび重なる銀貨の改悪は、私的には荻原個人の私腹をこやすためであるが、公的には幕府財政の不如意をつぐなうための出目をうるためであった。豊かな金銀の産出と豊臣家の金銀の収奪を基礎とする徳川氏財政も、日光廟の造営・江戸城の修理・島原の乱・将軍の乱費・天災地変・金銀産出高の減少・対外貿易の入超による金銀の流出、といった理由によって、四代将軍家綱の時代になってようやく収支の均衡を失いかけ、五代将軍綱吉の時代にその破綻を露呈した。これこそが元禄の金銀大改鋳政策を行わざるをえなくさせた根拠なのである。その後も将軍のみならず士族一般の奢侈化・打ちつづく天災地変によって幕府財政はつねに窮乏の状態にあり、ためにつねに出目をもとめる状態にあったのである。

32. 〔秤量銀貨の貶質は市場・商人による評価-必然的に銀貨表示価格の引上げ・物価上昇〕

 このように元禄以降は出目をもとめての悪鋳の連続といってもよいほどであるが、出目を目的とする貶質という点では秤量・計数のいずれの銀貨においても同様である。しかし秤量銀貨の場合には、貶質が行われれば、それは正貨であり、同系統貨幣でもあるうえに秤量貨幣そのものでもあるがため、ただちに市場・商人によって銀貨の実質・実体にもとづく正当な評価がなされ、必然的に銀貨表示価格の引上げ・物価上昇を惹起する。したがって出目の存在は低質鋳貨が発行されてから物価上昇となってはね返ってくるまでの短時間であり、貶質効果は非常に不安定で稀薄なものたらざるをえない。

33. 〔改悪鋳による出目効果は全般的・間接的に-〕

 貶質・改悪鋳は、元来、関西の富豪を主要対象としての御用金賦課とならんでの幕府財政の赤字を補う手段である。もとよりその効果が局部的・直接的であるため、その実施にはつねに強力な反抗がともないがちである御用金賦課に比し、改悪鋳による出目の場合は、その効果が全般的・間接的であるためにその実施は、より容易である。そして民間が事情を知らぬかぎり新旧貨幣の引替にも応じ、ために出目効果も十分に達成される。しかしそれが反復実施されるとなると、それに対する反応が急激にすばやくなり、その効果は激減する。このことは宝永銀・永字銀・三ツ宝銀・四ツ宝銀という一連の改悪鋳がいかにヒステリックに短期間にくりかえし行われたかということによって察知することができる。これはどの貨幣の場合にも妥当する原理なのであって、計数銀貨とてもその例外ではない。

34. 〔計数銀貨の貶質は、原理的には貨幣面よりの物価上昇の原因とはならない
    ―出目の安定的継続化―〕

 とはいいながらも江戸期計数銀貨の場合には一つの特別な事情が加味されねばならない。計数銀貨が実質的には定位・補助貨幣であり、定位・補助貨幣とその貶質とは原理的には両立し、決して矛盾するものではないということである。本位貨幣―-金貨に貶質がされず、計数銀貨の量が商品流通に必要な通貨量の範囲内であるかぎり、計数銀貨の貶質は原理的には貨幣面よりの物価上昇の原因とはならないのである。このような条件のもとでは、一分銀等の計数銀貨からの出目は、丁銀の場合の一時的にして不安定な出目とは本質的に異なり、安定的にして持続的なものたりうるのである。このことは計数銀貨における貶質促進の基本的条件となったと同時にまた、幕府が銀貨鋳造の重点を丁銀から計数銀貨へ移行したゆえんのものでもある。


35. 〔イギリスの金本位制度の経過〕

 脇道にそれることになるが、ここで一つの興味ぶかい事実を指摘しておきたい。世界で最初の資本主義経済体制を樹立したイギリスは、また世界最初の金本位制度を確立した国でもあった。この金本位制度の確立ということは、同時に銀の価値尺度機能を否定することを意味する。とはいえ「銀を貨幣尺度(Geldmaβ)として金とならんでもちいることは、なるほど1816年にジョージ3世治世第56年法律第68号によってはじめて正式に廃止された。それは事実上は、1774年にジョージ3世治世第14年法律第42号によって法律上すでに廃止されており、慣行のうえではそれよりもずっとまえに廃止されていたのである」。すなわちニュートン(Newton,L.)の建議をいれて、1ギニー金貨を銀21シリングと法定することにより、法律上、金銀複本位制度を採用した1717年こそが、それ以降における比価上の法定と実際との乖離をひきおこし、実質的金本位制度のはじまりをもたらしたとさえいわれている。事実、1717年以降、銀は実際には本位貨幣の地位にはつきえなかった。
 そして1774年にいたり、金貨の改鋳が行われたにもかかわらず、銀貨の方は、グレシャム法則によって流通界を独歩していた悪貨であり削りとり貨幣であった。すなわち軽量銀貨は改鋳されることなくそのままにされた。しかしその代わりとして、銀貨での支払いは1回25ポンドまでという制限法貨の取り扱いをうけ、実質的には定位・補助貨幣化され、それ以上の支払いには秤量によって、すなわち銀貨の実体・素材価値によってのみ行使されうることとなった。ここに事実上の金本位制が実現されたのである。その上、1798年における銀貨の自由鋳造の禁止がそれに追いうちをかけたのである。このようにイギリスにおいて事実上の定位・補助貨幣としての銀貨が出現したのは1774年であるといいうる。

36. 〔明和南鐐二朱判の出現―事実上の定位・補助貨幣としての銀貨〕
 それに対し、わが国の事実上の定位・補助貨幣としての銀貨のはじめである明和南鐐二朱判の出現は明和9年(1772)であった。
 この日英両銀貨について若干の対比をこころみてみるに、イギリスにおいては、1759年にバーナードが『銀貨欠乏についての所見』(Barnard, J.; Some Thoughts on the Scarcity of Silver Coin, with a Proposal for Remedy thereof, 1759)なるパンフレットにおいて、銀貨を補助貨幣にする必要と条件とについてのべており、さらにその先駆としては、金か銀のいずれかの単一本位制度と、それよりはずれた金属の補助貨幣化を説く1690年代のペティ(Petty, W.)やロック(Locke, J.)の理論的考察がイギリス銀貨の背後にはあるが、このような本格的な理論的考察はわが国には見あたらない。したがってまた、イギリスの場合のように銀貨の通用制限といった規定も見あたらない。

37. 〔イギリス銀貨の軽量化―一般的民間人による非合法の削盗〕
 しかしその反面、イギリス銀貨の場合、それが定位・補助貨幣となったもとのものは、それらの既存事実・現実としての軽量化である。そしてその軽量化は一般民間人による非合法的な削盗によるものである。換言すれば、軽量化の事実は、自然的摩滅を別とすれば貨幣当局にとってはまったくあずかりしらぬところであり、いわゆる建前としては当局の鋳造した銀貨はあくまでも完全重量銀貨なのであり、その銀貨を補助貨幣として取り扱うことは、軽量という不本意な現実との妥協にほかならない。

38. 〔明和南鐐の場合―貨幣当局によって計画的・意識的・積極的・事前的に推進〕
 ところが明和南燎の場合は、既述のように通用銀に対してはもちろんのこと、金貨に対しても、その素材価値はきわめて低く、すなわち軽量であり、しかもそれは民間人の削りとりによって不本意に促進されたものではなく、貨幣当局によって計画的・意識的・積極的・事前的に推進されたものである。この点よりみれば、定位・補助貨幣としての銀貨出現について、はたして日英いずれが、より進んでいたか合理的であったというべきであろうか。


39. 〔天保一分銀に代表の計数銀貨―法制上は本位貨幣、実質は補助貨幣〕

 話をもとにもどすとして、天保一分銀に代表をみる計数銀貨は、発行総額に法的制限をうけるものではなく、無制限の通用力をもつ貨幣であるから、法制上はあくまでも本位貨幣なのであって、補助貨幣そのものでないことはいうまでもない。しかし実質上の補助貨幣であったことも否定しえない事実なのである。. de jureとして本位貨幣であるが de facto
では補助貨幣であるということである。「元来、金ハ原の貨にて、銀貨、是に代りて、只極印而已に力あり。仮令に云ハ ゝ、紙或ハ革を以て造りたる極印の札に等し」とは幕府当局自身の言葉である。もとよりこれは後述の安政二朱銀事件のおりに発せられたものではあるが、しかし対外交渉のためにのみするいいのがれではなくて、当時の計数銀貨が果たしている経済的機能を率直に観察した発言であることは多言無用である。


40. 〔計数銀貨の交差規定―銀貨の本位貨幣としての秤量貨幣と計数銀貨の規定が交差すること〕

 事実、前節でのべた公差に関する触は金貨についてはくりかえし出されたが、計数銀貨についてはほとんど出されていない。ここでほとんどという言葉をつかったのは、明和5年(1768)7月に「五匁銀之儀、一枚ニ付目方4分迄之軽量は無構、渡方請取方共二可致通用候」との触が出ているからである。五匁銀は既述のとおり丁銀と同様の秤量銀貨の一種として出され、そのかぎりにおいて軽重は問題となりえないのに、明和4年3月に五匁銀の計数貨幣としての通用を命令したため、このような公差を規定しなければならなかったのである。しかし計数銀貨についての公差規定はこれ以外には見あたらない。ということは明和南燎二朱判以降の銀貨がその素材価値において十分に定位貨幣として鋳造され、金貨に対する補助貨幣視されていたからである。
  〔定位貨幣2022.06.20 ―ウィキペディア参照〕

41. 〔計数銀貨―実質的には補助貨幣、形式的には本位貨幣〕

 このように実質的には補助貨幣、形式的には本位貨幣としての、いわばヌエ的性格をもつ計数銀貨、その完成物たる天保一分銀の存在は、一つの問題発生の素地を形成することになる。金銀比価を不当な数値にするということこれである。
もっとも幕府当局は出目をうるため、金銀貨の品位については一切公表していないし、両替商等の一部の人びと以外には正確な含有量は知られていず―、 一般商人等が自己防衛本能よりしておおざっぱなところを知っていたことはいうまでもない―、また自由鋳造制も存在していないのであるから、欧米諸国におけるような意味での金銀比価の問題・意義は庶民の間には存在しえない。そして幕府が絶対不可侵の権力をもち威令が日本全土に行われているかぎり、これより発生すべき問題は凍結されて現実化しえない。

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