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山本博文01『外交の“鎖国”』と論点批判(ek001-01-07)

資021


 山本博文『外交としての“鎖国”
           編集部「鎖国」論点批判

 第1章 北の黒船 日ロ交渉
 
第2章 将軍吉宗 自立経済への道
 第3章 将軍家光 鎖国の決断
 第4章 将軍秀忠 鎖国の原点

A 鎖国ー定義
B 政治状況ー鎖国
C 貿易状況ー鎖国
D 鎖国>制限貿易ー管理貿易
E *用語整理


  山本博文『外交としての“鎖国” NHK出版 2013年発行
     なぜ、200年以上の平和が可能だったのか

    ★論点 〔鎖国と第一次~第五次鎖国令〕
■江戸 外交としての“鎖国”
 目次
 ・はじめに           編集部論点批判000
 第1章 北の黒船 日ロ交渉    編集部論点批判000
  ペリー来航の約60年前、蝦夷地の松前城下で初の日ロ交渉が行われた。
  衝突はいかにして回避され、“鎖国”はまもられたのか

 第2章 将軍吉宗 自立経済への道  編集部論点批判000
  密貿易の激増により経済の混乱を招いた幕府は、唐船の打ち払いによって、
  貿易管理体制を強化する。吉宗の目指したものとは
 
 第3章 将軍家光 鎖国の決断  編集部論点批判000
  オランダ商館の出島移転により、幕府はいわゆる“鎖国”への道を歩む。
  なぜ、貿易の不利益ともなる政策を選んだのか

 第4章 将軍秀忠 鎖国の原点  編集部論点批判000
  家康の貿易振興策を180度転換したといえる秀忠の貿易統制
  ―その狙いとは何か。ニ百数十年に及ぶ″平和″はこうして築かれた

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★論点000
   山本博文『外交としての“鎖国”』 NHK出版 2013年発行
            なぜ、200年以上の平和が可能だったのか

 編集部論点批判000
 はじめに

 江戸時代の日本の政治・社会体制を象徴する言葉として「鎖国」がある。近世=江戸時代の日本のあり方を象徴する言葉として、しばしば用いられる。しかし、この言葉の本来の意味やその実態は、長く誤解をされてきた。
 特に問題だったのは、「鎖国」が、日本とヨーロッパ諸国との関係に注目されて使われてきたという研究史上の弱点があった。そのため、1980年代から日本と朝鮮・中国・琉球などの東アジア諸国との外交関係について研究がなされ、また日本の北方におけるアイヌ民族との交易についても研究が進んだ。こうした研究の進展によって、「鎖国」の実態については、研究者の間ではすでにそうした情報は共有されている。
 しかし、現在でも「鎖国」という用語の使用をめぐって対立〔編集部:★論点〕があり、一般においてはいまださまざまな意味において誤った使われ方をし、結果として江戸時代についての大きな誤解、ミスリーディングを招いてしまっていることは動かし難い事実である。

 〔 編集部:★論点 著者の山本は、「用語の使用をめぐって対立」と位置づけを行なっているが、資本論ワールドでは「翻訳問題」として総括を行なっている。「用語の使用」問題ではなく、「鎖国」は第一に、江戸期後期の翻訳家志筑による翻訳語であることー当時の日本語で使用されていない言葉ー、第二に、「鎖国」言語は文脈上の論理矛盾として“形容矛盾(背理)”を犯しているのである。〕

 本書においては、こうした誤って伝えられた「鎖国」の実態を紹介するとともに、「鎖国」という言葉によって強く印象づけられてしまった江戸時代の「外交」について、今日の研究水準にそくした修正を施したいと思う。
 江戸時代の対外関係史を、歴史をさかのぼるかたちで分析、そして解説するためには、まずこの「鎖国」という体制が終焉を迎えた時期から説き起こし、最終的に「鎖国」がスタートしたとされる地点に立ち返るという道筋をとることになる。
 そこで、第1章においては当然のことながら「鎖国」の反対語として語られる「開国」に目を向ける必要が出てくる。

 〔論点:「鎖国ー開国」ワンセットにして、時代区分の歴史用語に、語義曖昧を導入している。〕

 日本の開国が、嘉永六年(1853)のペリー来航を大きな契機としてなされたことは周知の事実である。しかし、幕府政治および幕府の外交政策の変化や対外意識の変化に視点を向けてみると、大きな転換点がペリー来航の約60年前に訪れていたことに気づくのである。
 第2章では、江戸時代を通じて貿易相手だった中国との関係を見ていく。享保期、八代将軍吉宗の時代に、中国の密貿易船との間に紛争があり、幕府はそれまでポルトガル船に対して構築していた沿海警備体制を発動し、密貿易船の拿捕を試みた。この経過を見ていき、中国との貿易体制がどのような形に定置されることになったかを考察する。

 〔論点:中国の明・清時代では、倭寇対策を兼ね「海禁」政策を伝統的に行なっている。著者の山本には、中国貿易の観点に明清の「海禁」政策が欠落し、結果的に「鎖国」論の分析に東アジア貿易ー国際関係との相互関係が希薄となっている。特に、日本の金属貨幣ー銀と銅の輸出入関連の分析がなおざりとなっている。〕

 第3章では、のちに「鎖国」と呼ばれるようになった体制を築いた三代将軍家光の対外政策を考察する。家光がこのような体制を築いた原因は何だったのかを見ていくことによって、政治的な選択としての「鎖国」の特質を考えていきたい。
 第4章では、2代将軍秀忠の時代における対外関係を見ていく。この時代は、まだポルトガル、オランダ以外にイギリス、イスパニア(スペイン)といったヨーロッパ諸国との通交関係があり、日本の貿易船である朱印船が、東南アジアに進出していた。そうした状況の中で秀忠は、次第に貿易統制を推し進めていく。秀忠がそのような対外政策をとった要因を、東アジア海域の勢力関係から見ていきたい。
 本書は、NHKのEテレで放映された「外交としての“鎖国”を書籍化したものである。番組制作にあたっては、ベテラン担当ディレクターの藤波重成氏と検討を重ね、満足できる出来に仕上がった。・・・以下省略・・・


 
山本博文『外交としての“鎖国”』 NHK出版 2013年発行
        なぜ、200年以上の平和が可能だったのか

編集部論点批判000

  第1章 北の黒船 日ロ交渉
    ペリー来航の約60年前、蝦夷地の松前城下で初の日ロ交渉が行われた。
    衝突はいかにして回避され、“鎖国”はまもられたのか


 ラクスマンの来航

 日本の開国が、嘉永六年(1853)のペリー来航を大きな契機としてなされたことは周知の事実である。ペリー来航時には、国交を開くことが「国禁」であるという意識が強く、日本は上下ともに大騒ぎとなった。しかし、幕府政治および幕府の外交政策の変化や対外意識の変化に視点を向けてみると、大きな転換点がペリー来航の約60年前に訪れていたことに気づく。

 〔 論点000:200年有余のオランダ東インド会社との貿易関係や”オランダ風説書”を除外する「日本の開国」とは何か?ー無原則・恣意的な歴史記述 〕

 ペリー来航は、結果として日本がアメリカと国交を開き、それが諸外国との国際関係を一挙に構築していかざるを得なくなる端緒となったという意味で、もちろん大きな意味を持つ。しかし、それは日本と欧米諸国との初めての接触であったわけではない。すでにその半世紀以上前から、諸外国――とくに日本にとっては北方の「脅威」として認識されたロシアとの接触が始まっていた。そして、ことと次第によってはその時点で、すでに日本を開国へと導いていたかもしれない事態が起こっていたのである。
 そのターニングーポイントとなったのが、寛政五年(1793)六月に行われた、初めての日露交渉である。・・・・

 〔論点:開口一番「日本の開国が」と、著者の山本が言い始める。この時、読者は魔術に掛かる。江戸期日本の「開国」は、ペリー来航に始まり、さらに「諸外国との国際関係を構築」するという具合だ。ここでは、朝鮮も中国も視野の外に誘導されてしまう。〕

 

  幕府内の評議

 定信が日露交渉の経緯を後にまとめた『魯西亜人取扱手留』は、日露交渉の第一級史料である。この記録によれば、このとき、評議を諮問された三奉行の間でも、さまざまな意見が出たことがわかる。
 ――漂流民は受け取るが、江戸に来ることは拒否し、聞かなければ厳しく取り扱うべき   である。
 ――外交の窓口は長崎であり、別の地に来た外国船も長崎で調べて帰国させるので、長   崎に来るように言い聞かせればよい。
 ――ロシアが通商を望むなら、蝦夷地で行えばよいのではないか。
   ここでは、厳しく取り扱うべきだという意見がある一方で、状況次第では通商を行   ってもよいのではないかという意見が出たことに注目するべきだろう。当時の幕閣   は、必ずしも鎖国を絶対のものとしてとらえてはいなかったと言えるからだ。

 〔論点①〕「鎖国」とは、文字通りにとれば「国を鎖す」という意味だが、江戸時代の日本は、国全体を鎖していたわけではない。まず長崎では、オランダ人・中国(清)人との貿易が行われていた。オランダ人は、居留地として出島に隔離され、毎年将軍に対して貿易を許されていることを感謝するため、江戸に参府していた。
 朝鮮とは、対馬藩が外交業務を担う形で、国交を結んでいた。このため、将軍の代替わりごとに朝鮮通信使が日本に派遣されてきた。琉球は薩摩藩の支配下にあったが、清国にも朝貢する独立した王国だった。そのため幕府は、琉球を「異国」と位置付け、琉球国王の代替わりや将軍の代替わりに琉球使節を迎えていた。
 つまり、〔論点②〕「鎖国」と言っても、オランダ・中国とは通商関係をもち、朝鮮と琉球の二国とは政府どうしの外交関係を持つ体制が、江戸時代を通じて維持されていたのである。さらに言えば、アイヌ民族とも松前藩を介して交易をしていたので、こうした関係に注目して、江戸時代日本は、長崎、対馬、薩摩、松前という「四つの口」から世界に開かれていた、と概説されることが近年では一般的である。
 ただし、「これまで交流のない外国とは新たに国交を開かない」という幕府の方針は確かにあった。それ以外の外国船が日本に漂着すれば、長崎に送り、厳重に調査した上で、長崎から帰したことは、先の答申にも明らかである。しかし、それは、特に明文化されていたものではなかった。そもそも「鎖国」という言葉自体、まだ当時は存在していなかった。この言葉は、元禄三年(1690)に出島のオランダ商館付き医師として来日したドイツ人ケンペルの遺稿集『日本誌』の一部を、享和元年(1801)に論点③〕オランダ通詞志筑忠雄が翻訳した際に造語したものである。
 しかし、このとき、「鎖国」という用語がなかったからと言って、国を鎖していなかった、とは言えない。そもそも志筑忠雄は、ケンペルが概説した江戸時代の国家体制を「鎖国」という用語で表現したのである。論点④〕「これまで交流のない外国とは新たに国交を開かない」体制を「鎖国」とすれば、江戸時代の日本は法令では定められていなかったにせよ、「鎖国」体制をとっていたことは確かである。

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 〔編集部論点:著者山本の叙述スタイルが、結晶している。〕
 〔論点①〕「鎖国」「国を鎖す(閉ざす)」意味、と一旦認めるが、国全体を鎖していたわけではない。
 〔論点②〕「鎖国」と言っても、オランダ・中国とは通商関係をもち、朝鮮と琉球の二国とは政府どうしの外交関係を持つ体制が、江戸時代を通じて維持。歴史事実・用語として「国を閉ざす」=「鎖国」ではないが、ケンペルー志筑による「鎖国」となる。
 〔論点③〕ここで、山本は志筑翻訳語を受け入れ、用語として補強ーキリシタン排除ーする。
 〔論点④〕こうして、「これまで交流のない外国とは新たに国交を開かない」体制を「鎖国」とすれば江戸時代の日本は法令では定められていなかったにせよ、「鎖国」体制をとっていたことは確かである。」
 〔論点⑤〕文法的に整理すると、「・・・とすれば(if.・・・)、×××は確かである」。
 この文脈において、「鎖国」語の構成要素は四重となる。
(1)日本語「国を鎖す(閉ざす)」意味=「鎖国」
(2)ケンペルが解釈する用語と志筑翻訳語の「
鎖国」語
(3)「
鎖国」と言っても、オランダ・中国、朝鮮と琉球、アイヌ民族と「対外、外交関係を持つ体制」である。
(3)交流のない外国とは新たに国交を開かない」体制を「鎖国」とすれば、「鎖国」体制をとっていたことは確かである
 このように、江戸期歴史学者・山本による「鎖国」定義は、4つに区分され、文脈に応じて読者が適宜取捨選択することになる。
 編集部では後日、古代ギリシャのアリストテレス「誤謬論や『ソフィスト的論駁』で研究する。
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  定信の強力なリーダーシップ 

 鎖国体制という国家方針に修正を余儀なくする「交易の許可」というカードをちらつかせながら、幕府はロシアとの初めての外交交渉を乗り切った。しかし、このときラクスマンに手交した信牌には、冒頭に「おろしや国の船一般、長崎に至るためのしるしの事」と書かれていたが、それに続いて、日本はそもそもキリスト教を禁止しているので、聖書やキリスト教の教義、あるいは関係する道具なども持ち込んではならないという但し書きがあった。つまり、この信牌はただちに交易を許可するというものではなく、信牌を持って長崎に来航し交易を求めてきたら、改めて幕府の側も対応を考えるという「但し書きつき」の信牌だったのである。
 幕府の返答は、交易をするかどうかはその後の交渉次第という玉虫色のものだったことになる。ロシア側にはこれで交易が可能になるという大きな期待を抱かさせる一方、日本側にはまだ交渉の余地を残しておくという巧妙かつ柔軟な政策だった。・・・以下省略・・・・


  レザノフの長崎来航

 ラクスマンが帰国し、定信が失脚したのは、寛政五年(1793)である。このレザノフの長崎来航は、それから11年もの月日がたっていた。
 レザノフは、特派大使として、ロシア皇帝アレクサンドル一世からの通商を求める国書を持参し、仙台藩領石巻の漂流民、津太夫ら四名を同行していた。もちろん、かつてラクスマンが手交された、長崎への入港を認める信牌も携えていた。
 レザノフの任務は、日本と通商を結ぶことだった。そのため、奉行の言うことに忠実に従い、日本に対して貿易が両国の利益になることを説明し、説得に努めるよう訓令されている。貿易品として予定されているのは、ロシアからは毛皮、魚、皮革製品、ラシャなど、日本からは米、銅、絹などだった。つまり、後のペリーのような強硬な開国要求ではなく、オランダと並んで貿易に参入できればそれでよかったのである。
 ところが幕府は、レザノフが信牌を持参しているにもかかわらず、交渉の席に着こうとはしなかった。半年もの間、レザノフを長崎で待たせた挙句、国書受け取りの拒否と日本からの退去を通告したのである。このときレザノフに申し渡した「教諭書」は、次のようなものである。
 「日本が外国との関係を持つのは、ただ唐山(清)、朝鮮、琉球、紅毛(オランダ)だけである。その他の国と新たに通信・通商を開くことはない。この定めはわが国の歴ほうきよう世封疆(国境)を守るの常法であり、朝廷(幕府)歴世の法であるから、再び来てはならない」
 日本が関係を持つ国を具体的に国名をあげて示し、これが日本の国境を守る長年続いた法であることを明言している。「歴世の法」を強調することで、日本と国交を開こうとするロシアの望みを打ち砕こうとしたのである。
 この「教諭書」の内容は、ラクスマンに手交した段階の「国法書」よりもさらに、日本の「祖法」たる「鎖国」という法を強烈に打ち出していると言えよう。こうした「鎖国」観は、この段階でほぼ幕閣の共通認識になったのである。
 なお、付け加えておくと、幕府がレザノフに伝えた外国との交易を許さない理由は、次のようなものであった。

 「また交易は、日本の産物で国民を養うだけの物はあり、他国からの物がなくても事足りる。また、遠方の珍物が到来すれば、愚民が無益の物を喜んで購入し、質素を旨とする政治の支障にもなり、迷惑だと存じている」
 これは、幕閣の本音を伝えていると思われる。交易をしないことに、それほど積極的な理由はなかった。逆に言えば、だからこそ、「歴世の法」を強調したのである。
 このように近世=江戸時代の「鎖国法」とは、開幕以来の「祖法」というようなものではなく、ラクスマン来航時の松平定信の対応を端緒とし、このたびのレザノフの通商要求をあきらめさせるために、新たに言明されたものだった。その意味で、江戸時代に「鎖国」などはなく、この時点で剔出されたものとする議論も一定の説得力を持つ。
 しかし、幕府は寛永年間にポルトガル船を追放しただけで、その他の外国船はたまたまその後やって来なかっただけだから、「鎖国」をしたつもりはなかった、と言うとすれば、それもまた極端な議論になる。
 島原の乱の経験の深刻さ、さらに布教をしないオランダ人を平戸から幕府直轄地の長崎出島に移したことを考えれば、幕府は、この時点で交流を持つことを許すのはヨーロッパ諸国のうちではオランダだけだと考えていたはずである。オランダとの交易を許したのも、それが上質の中国産生糸や絹織物など、当時の支配階級の贈答品に不可欠であり、断交することが困難だからだった。むしろ幕府の本音は、できることならオランダとの交易すら禁止してしまいたいというものだったと思われる。〔論点:全くの暴論。金属貨幣素材の輸出入貿易は、貨幣改鋳により田沼時代以降必要不可欠だ。〕

 たとえば、延宝元年(1673)、イギリス船リターン号が長崎に入港し、貿易再開を求めたことがある。幕府は、長年の貿易断絶とイギリスーポルトガル両王家の婚姻関係を理由に、貿易再開を拒否した。しかし、それは口実で、そもそも再び外国と通商関係を結ぶことは忌避していたのである。その後も、ポルトガル以外の外国船が日本に接触することがあったが、幕府は、その度に国交や貿易関係を結ぶことを拒否する姿勢を見せている。
 定信にしても、ロシアとの国交を開くことを望んでいたわけではないことは、彼の発言からもはっきりとわかる。本来ならきっぱりと拒絶したいのだが、ロシアは「強国」であり、無下に拒絶すると戦争にもなりかねないから、長崎で応対するとしてとりあえずロシア船を帰し、時間をかせごうとしたのである。それは、ラクスマン来航以来、定信が江戸に隣接する相州などの海岸を調査し、防備体制を築こうとしたことからも窺われる。

 そもそも幕府法というものは、特に基本法令については明文化されているものの方が少ない。オランダや中国とは貿易を行い、貿易関係についてさまざまな法令が出ているが、両国と貿易関係を結ぶという法もなければ、朝鮮・琉球と国交を結ぶという法もない。
 これらは、ある歴史的な時点で形成された関係が維持されていたにすぎないが、明文化されていなくても確かに国の制度であった。政治機構についても、たとえば政務執行機関として老中を何名置くとか、臨時の際にはこれこれの権限を持つ大老を置くとかいう法令は、存在しない。しかし、それらは慣行として将軍から任命され、実際に政治を行っている。「鎖国令」についても似たようなもので、ポルトガル船を追放し、翌年マカオからのポルトガル使節を惨殺した時点で、幕府は、カトリック教国との通交は断固拒否することを決意していた。そしてリターン号への通交拒絶の段階で、それ以外のヨーロッパ諸国についても、新規に国交を開くことは拒否しようという指向性があったことが見てとれる。
 その意味では、定信がラクスマンに手渡した「国法書」にしても、レザノフに申し渡した「教諭書」にしても、幕府がすでに確立させていた「鎖国」を維持するという方針を、「鎖国法」として明文化したものにすぎない。
 ただし、定信にとって、明文化されていないということは、必ずしも「鎖国」を維持しなければならないという明確な強制力もなかったことを意味している。国内的には、そうした法はないとしてロシアとの国交を開くことも、この時点では可能だったのである
 もしロシア側が、ラクスマンに渡された信牌を持って、定信政権が続いているうちに長崎に来れば、ロシアと蝦夷地で貿易を始めることは選択肢として十分にありえたはずである。
論点:著者の山本により、「祖法」であるはずの「鎖国」論の欺瞞性がはしなくも吐露されている〕

 その意味で、ロシア使節が十一年も来なかったことで、ロシアはこの時点での日本との交易の可能性を逃し、幕府は、国内の抵抗なくヨーロッパ諸国との国交を開始するチャンスを逃してしまうことになったのである。


  ロシア船の蝦夷地襲撃事件

 強気で、かつ乱暴な態度を取れば、二度とロシアからのアプローチはないであろうというのが、当時の幕閣の判断だった。この問題を担当した老中土井利厚は、「信牌を与えているのだから、国書と進物を受け取り返書と返物を出すべきだ」と主張する幕府大学頭林述斎の意見に対し、次のように反論している(『有所不為斎雑録』第三集)。
「丁寧に取り扱うほど、それに付けいられることになるから、立腹させる方がよい。腹を立てれば、もう来ないだろう」(中略)
 鎖国体制は、必ずしも明文化された成文法ではなかったとしたが、むしろこうした事態を迎えるなかで、すなわち対外的な危機を強く感じるなかで、幕府官僚たちは鎖国――文字通り国を鎖すことが幕府開閥以来の「祖法」であり、これを守ることによって日本の安寧、安全が守られるという意識を形作っていったと考えるべきなのかもしれない。(-略-)


  「武威」政権のゆらぎ

 その後も天保八年(1837)のモリソン号事件など、西洋諸国の船が日本近海に出現する事態は続いた。そして、天保十三年、アヘン戦争で清がイギリスに敗北するという大 事件が起きる。幕府は再び態度を豹変し、薪水給与令を出すなど、態度を軟化させていった。
 こうした幕府の対応は、どうして起きたか。一つには松平定信の日露交渉が、問題を残しながらもとりあえずは穏便な成功を収めたということが挙げられる。結果として鎖国遵守ができたことから、[祖法]として認識されるようになった鎖国体制を「守らなければならない」との意識が根づき、そのためには外国船は打ち払わなければならないという、ある種の短絡的な発想を生んでしまった。
 ところが、アヘン戦争の結果を見ると、あまり強硬に出ると日本も清国の二の舞になるかもしれないという恐怖が、リアルに迫ってくる。したがって今度は薪水給与令を出して、水と燃料、食糧の補給だけは譲歩しようということになる。こうした対外政策の「ブレ」は、鎖国遵守を掲げながらも、できるだけ外国との紛争を避けようという試行錯誤に起因するものだった。

 現実的な問題として、敗北を避けるにはできるだけ「戦わない」というのがもっとも近道である。したがって幕府は日本を守る「武威」というフィクションを維持しながら、自ら創作した祖法としての「鎖国」体制を守るため、実際の外交現場においては、できるだけ国際紛争が実際の戦争に結びつくのを避けようという判断をすることになった。それが幕府外交のブレを招いたことは間違いない。
 以上のように考えるならば、前例のない日露交渉の矢面に立った松平定信は、現実的かつ有効な対応をしたと評価すべきだと思われる。しかし、その結果を受けた幕府老中をはじめとする外交担当者は、定信の、場合によっては通商関係を開くことをも視野に入れた柔軟な発想に学ぶのではなく、定信の引き延ばし戦略の「成功」という結果だけを模倣しようという、創造性を失った後ろ向きな対応を行ってしまった。その結果、現実の対外的な圧力の前に右往左往し、外交政策は大きなブレを繰り返すという事態を招いてしまったのではないか。           

 2章以降で触れることになるが、鎖国の本来の目的とは、幕府統治の根本を揺るがしかねないキリスト教の日本への流入を防ぐことにあり、外国との貿易自体を最初から幕府が忌み嫌っていたわけでは決してない。実際のところ、対外的な窓口は制限され、幕府の完全な管理体制下に置かれたが、オランダと中国船を介して盛んに貿易が行われ、オランダ風説書、唐船風説書という手段で海外の情勢は日本に伝えられていた。こうした中で、江戸時代には、さまざまなかたちで海外の物資や文物が日本に入り、オランダ語の書物を介して医学・薬学・天文学などの進んだヨーロッパの学問を受容する蘭学が発達し、異国趣味も流行し、薩摩藩主の島津重象、福知山藩主の朽木昌綱ら蘭癖と称されるヨーロッパ趣味の大名も生まれていた。
 だとすれば、定信が外交カードとして用意した、いざとなったらロシアとの通商を認めるという選択肢も残されていたはずなのだが、幕府は自らその選択肢を排除していく。
 弘化二年(1845)には、開国を勧告したオランダ国王への返書で、「通信は朝鮮・琉球に限り、通商は貴国と支那に限る」と返答し、翌年、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが来航したときは、「我国は新たに外国との通信・通商をゆるすことは厳しく国禁としている。それゆえ、早々帰帆せよ」と答えたことで、欧米諸国にもはっきりと通告されることになった。
 嘉永六年(1853)、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーがフィルモア大統領の国書を持参して浦賀に来航し、いわゆる砲艦外交で日本を開国に導くことになる。幕府が「鎖国」を祖法とすると明確に言明していたため、「開国」することは外国の圧力に負けて開国を強いられたことになり、幕府の権威、すなわち「武威」は、大きく損なわれることになった。
 ラクスマン来航以来、幕府は外交において不手際やブレを繰り返していたが、相手の状況などから、結果的に「鎖国」が維持されていた。しかし、開国を受け入れないならば武力に訴えるという有無を言わせないペリーの砲艦外交に、なすすべもなく日米和親条約を結ぶことになったことで、幕府の権威の失墜は決定的になった。

・・・・・・・・・・・以上、第1章 北の黒船 日ロ交渉 終わり・・・

第3章 将軍家光 鎖国の決断
第4章 将軍秀忠 鎖国の原点


論点000

  第2章 将軍吉宗 自立経済への道
    密貿易の激増により経済の混乱を招いた幕府は、唐船の打ち払いによって、
    貿易管理体制を強化する。吉宗の目指したものとは



      岸本美穂『明清と李朝の時代』康煕時代の国際環境ー日中貿易


  明清交代と日中貿易

 第1章では、〔18世紀〕北方からのロシアの接近という「ウェスタンインパクト」に対し、時の政権担当者-松平定信〔老中在位1787-1793年〕がいかに対処したのか、日露関係が決定的な対立に至らぬよう、どのような配慮がなされたのかに焦点をあて、幕末に向けて「鎖国」体制が幕府の「祖法」であると新たに位置づけられ、強化されてゆく過程を見直した。
 本章では、時代を江戸時代中期にさかのぼり、幕府中興の祖とも呼ばれる八代将軍徳川吉宗のとった外交政策に光をあてることとする。
 時代のターニングポイントとして注目したいのは、享保五年(1720)に行われた「唐船打ち払い」である。
 
 唐船とは、言うまでもなく中国の商船のこと。第1章で述べたように、鎖国体制をとったとされる江戸時代でも、日本は完全に国を鎖したのではなく、中国やオランダとの交易、朝鮮や琉球との外交・交易は盛んに行っていた。ただそれがあくまで幕府の管理体制のもとで行われていたものであったことは、すでに紹介した。日本と中国の間も、政府=政治権力どうしの正式な外交関係、すなわち国交は結ばれていなかったが、交易は長崎において幕府の管理下に盛んに行われていた。
 さらに、密貿易――当時の言葉で言えば「抜け荷」も盛んに行われていて、その意味では唐船を通して密貿易を含むさまざまな通商関係が築かれていたというのが、この時代の鎖国の実態であった。
 現在の日中関係を見てもわかるように、交易が盛んであるということは、互いに経済的な依存関係が深まっていることを意味する。だからこそ、外交や交易をめぐる問題が発生すれば、それは単に国際問題にとどまらず、それぞれの国内産業に大きな打撃をもたらすこともある。近年、国境・領土問題をめぐる日中関係が悪化した際、中国がレアーアース(希土類元素)の対日輸出をストップしたことで、レアーアースを必要とする国内のエレクトロニクス産業に大きな影響を及ぼしたことは記憶に新しいだろう。江戸時代でもそれは同じだった。

 〔中国清朝と鄭成功〕
 鄭成功は、明の再興をめざすとともに、日本・琉球・台湾・安南・コーチ・シャム・ルソンなどと交易を行なった。1658~59年には南京攻略を試みるが、敗れた。〔清は、制海権を握って反清復明運動を続ける鄭成功に対し、1656 年に海上貿易を厳禁, 61年に「遷界令」を出し,鄭氏と沿岸住民との接触を遮断した。その後、1683年には清に降伏することになった。長期にわたる戦乱のなかにで、清朝側も打開策を模索し「遷界令」を1684年に停止し、海禁を解除する「展海令」を発布した。〕

 貞享令と新たな問題
 この展海令発布によって、当然のことながら日中間の交易がより大きな期待をともなって再開され、数多くの中国の商船が日本に向けて出港することになる。日本側の記録によれば、貞享元年(1684)に来日した唐船は24隻だったのが、展海令が発布された後の翌二年には85隻に増えた。前年の3.5倍である。85隻というのは長崎で商取引ができた船数で、12隻は追い返された。
 大挙して来航する唐船にどう対応するかが問題となり、幕府は貞享二年(1685)、長崎での貿易額に上限を設けることにした(貞享令)。唐船に対しては銀6千貫、オランダに対しては金5万両(銀高にして3千貫)を上限としたのである。これを「定高(さだめだか)」という。さらに元禄二年(1689)には唐人屋敷を建設し、これまで長崎市中に自由に宿泊していた中国人の宿舎とした。総坪数は9300坪ほどで、出島の約2倍半の広さである。これも、中国人と日本人を引き離し、抜け荷を防止するための策だった。

 幕府にとって、貿易額をどうしても抑えなければならない事情があった。 江戸時代の初めのころ、17世紀の日本は白糸(中国産の上質生糸)・朝鮮人参などを輸入し、その対価として金・銀の輸出を行っていた。日本には外国の欲しがる輸出品が金・銀以外にはなく、そのため、大量の金・銀の海外流出が続いたのである。17世紀の後半以降になると、日本国内でも商品流通が盛んになり貨幣への需要が増大した。ところが、金・銀の国内産出量が激減したため、それまでのような大量の金・銀を輸出にまわすことは不可能になっていた。そんな状況下で発布されたのが、貿易額に上限を設ける貞享令であった。

 いっぽう、貿易の相手である中国側も難題をかかえていた。銭貨鋳造のための銅材を必要としていたのだが、のちに雲南省の銅山が整備されるまでは国内での調達がむずかしく、豊富に産出する日本の銅にねらいをつけたのである。貿易額の制限は金・銀の流出を防ぐことにあったから、元禄八年(1695)には、伏見屋四郎兵衛という商人が、定高のほかに銀1000貫分を銅で決裁することを願い、許可された。これが「代物替え(しろものがえ)」の始まりだとされる。

 〔論点000:日本の海外貿易と銅の輸出参照

 交易は当事者の双方にニーズがあって初めて盛んになる。日中双方の利害が一致したところで、中国への輸出品は金銀から銅へと大きく転換した。こうして、銅代物替えの拡大によって日中貿易は再び活性化し、スムーズに進むかに思われたが、日本の産銅にも陰りが見えはじめ、これにどう対処するかが幕府にとっての大きな課題として浮上した。
 さらに、貞享令の発布にともない、もう一つの大きな問題も生起する。唐船が大挙してやってきても、貿易額に上限があるため、先に述べたように長崎で交易できない船も多数出た。貞享令が出された3年後の元禄元年には、来航した194隻の唐船のうち、117隻は商売を許されたが、77隻が積み戻しを命じられたのである。積み戻しだからといって、「はい、わかりました」と積み荷を持ち帰るわけにはいかない。日本のほかの地域に船を廻し、密貿易を行おうとする者が出るのは当然だった。
 貞享令の発布後に新たに起こった諸問題にどう対処するのか、それまでオランダに比べると幕府の統制が緩やかだった唐船に対してどう対処するのかが、大きな課題として幕府に突きつけられたわけである。この大問題に、最初に立ち向かったのが、新井白石であった。
・・・以下、省略・・・


  〔吉宗の時代ー国内外交流の進展〕

 唐船の取り締まりにかける吉宗の熱意が実を結び、各地で見られた密貿易はまもなく影をひそめるようになる。唐船は、白石がもくろんだように、信牌を持つ船以外は貿易できないことになった。こうして信牌による貿易管理体制は確固たるものになり、日中間の貿易量は減少し、金銀や銅の海外流出に歯止めをかけることができたのである。
 〔論点000:日本の海外貿易と銅の輸出参照


 吉宗の殖産興業政策

 こうした貿易の大規模な制限は、本章の冒頭で述べたような海外からの輸入品に依存する産業分野には大きな打撃を与えることになる。しかし、江戸時代の日本においては、比較的混乱が少なかったようだ。これは、どうしてだろうか。
 たとえば、国内唯一の絹織物生産地の京都・西陣では、元禄期(1688~1703)の始まる4、5年前までは、原料の生糸をほぼ輸入生糸に頼っていた。それは、オランダ船や台湾の鄭氏一族の船が日本にもたらしていたもので、鄭氏が清に降伏すると、一時、生糸の輸入が激減した。そのため、地方で作間稼ぎとして真綿を作っていた養蚕農家から、京都に生糸が上せられるようになり、西陣からも地方に買い付けに行くようになった。こうした中で幕府は、正徳三年(1713)閏5月、諸国に養蚕を奨励する触書を出している。輸入に頼っていた生糸を、国産の生糸でまかなおうとしたのである。
 吉宗の時代に貿易額が大幅に削減されたことによって、生糸はいっそう品薄状態となった。しかし、そのため逆に養蚕や桑の栽培が全国各地に広まり、さらに西陣の先進的な絹織物生産の技術も地方に伝播していくことになる。たとえば桐生(群馬県)では、元文三年(1738)、西陣の大火で江戸に来ていた織工を迎え入れ、西陣の高機を模造して紋のある絹織物を生産しはじめる。日本の国内産業は、自助努力によって大規模な貿易制限政策を克服したのである。吉宗時代以降、こうして広まった生糸の生産や絹織物技術の発展は、日本全国の需要をまかなうようになり、開国以降、国産の生糸が主要な輸出品となったことは周知のとおりである。

 享保の改革と呼ばれる吉京の政治は、三つの大きな特徴を持つとされている。①統治体制の強化、②幕府財政の再建、それを実行するための③官僚システムの整備である。そして、その目指すところは、国家による保護や規制が社会の隅々まで及ぶ、現代で言うところの「大きな政府」であった。貿易制限を行ったという点だけを見るならば、その姿勢は内向きな縮小志向のようにも見えるが、視点を変えてみれば、経済の海外依存体質を改善し、内需を拡大して税収も増やすという、まさに「大きな政府」へとつながる方向性でもあったのだ。
 吉宗は、中国との貿易は制限しながらも、国家・社会の利益に結び付くと思われる実学的・実用的な学問については、海外からの書籍の輸入規制を緩和するなどの措置をとっていた。中国の天文学を移入し、博物学やオランダ語の書籍から西洋の学問を学ぶ蘭学などの普及に理解を示したことは象徴的である。元文五年(1740)には、青木昆陽と野呂元丈に、江戸参府中のオランダ人についてオランダの学術を学ぶよう内旨を与えている。こうした吉宗の性向は、貿易制限に伴うマイナス面への対処にも大きな影響を与えること
になった。
 さらに朝鮮人参などの薬種植物や、サトウキビ・砂糖など、主要輸入品の国産化に力を入れた。白石も言っていたように、輸入薬種は日本にとってなくてはならないものだったからである。・・・・・・

 こうして、輸入品に大きな割合を占めていた薬種や砂糖などの国産化が進むいっぽうで、輸出の主要商品であり、国内生産量が激減傾向にあった銅を補完する新商品が生まれた。蝦夷地を主要な産地とするフカヒレ、ナマコ、干しアワビなどの海産物である。
 これらは、俵に入れて出荷されたことから「俵物」と呼ばれる。俵物は、長崎会所(俵物役所)の統制のもとで調達され、長崎を経由して中国に輸出され、中華料理に不可欠の食材となっていく。現在でもこうした海産物は日本産がその大半を占めており、吉宗の時期に形づくられた輸出海産物の伝統が、今日までも生き続ける強い生命力を持つものであったことがわかる。こうして、17世紀の金・銀という限られた貴金属に依存する貿易構造は、18世紀以降、銅のほかに毎年コンスタントに調達できる俵物輸出へ大転換することになったのである。
 大幅な貿易制限は、「鎖国」政策の強化にほかならない。そしてそれが日本の自立経済を促すことになったことの意味を、我々は十分に評価しなくてはならない。
 〔★論点000:〕

 〔論点000:日本の銅生産の世界的レベルの生産量となり、出島商館・オランダ東インド会社の主要なドル箱・黒字経営を支えている。世界市場のなかの日本銅ー住友別子銅山など大幅な輸出産業へと成長した。『世界史のなかの近世』真栄平房昭著「鎖国」日本の海外貿易 中央公論社1991年。八百啓介著『近世オランダ貿易と鎖国』吉川弘文館1998年。著者の山本の独断と偏見の証左〕

 戦国時代以来、日本は金・銀の産出が盛んで、その量たるや新大陸のそれに匹敵、あるいは凌駕するほどのものだった。しかし、当時の鉱山技術の制約もあり、17世紀の半ばになると、これらの産出は次第に下降線を描いていく。そのため幕府は、金・銀の輸出を禁じ、銅に換えるが、これも量には限りがあり、輸出を制限することになった。白石が言うように、これらの貴金属の流出は、永久に日本の国富が失われるという危機感を持たざるをえないものだった。
 しかし、必要物資が貿易によってしか入手できないのであれば、大幅な貿易制限をすれば国内に混乱が生まれる。江戸時代の日本があまり混乱もなくごうした貿易制限ができたのは、輸入に頼っていた品物の国産化がはかられ、全国各地の農民や商人の努力によって、それがおおむね実現したからである。これが、同時代のヨーロッパと違うところである。ヨーロッパでは、香辛料・茶などの物品の国産化ができず、恒常的にアジアに依存していた。そしてそのために大幅な輸入超過となり、その対価としてアヘンを中国に持ち込むといった不名誉な政策をとらざるをえないことにもなった。
 日本が、その後、150年以上も「鎖国」状態を維持できたのも、必要物資の大半を国内産業でまかなうことができるという経済的条件があったからである
 〔論点000:徳川幕府による国内産業政策ー金・銀・銅貨幣改鋳を含むーと貿易管理政策・江戸期重商主義との直接的・具体的に検証が必要である。国内経済と貿易の質的な変化・相互関係が論証可能な段階を迎えている。〕

 海外に進出しないことで、造船技術はすたれ、戦闘技術や武器は17世紀初頭のものがそのまま凍結状態になった。アメリカ使節ペリーが浦賀に来航したとき、日本人は、それを取り返しのつかない遅れだと思ったことだろう。しかし、「鎖国」状態にあったおかげで、江戸時代の日本人が200年以上におよぶ平和な時代を享受することができたことを忘れてはならない。


  吉宗が播いた種

 ただし、誤解してはならないのは、日本が文化的にまったく孤立状態にあったわけではないことである。「鎖国」状態にあったとは言え、進んだヨーロッパの学問が、長崎の出島という狭い窓から次第に日本に入ってきていた

  〔論点000:「鎖国」状態にあったーこの言表は日本語表現を無能にしてゆく〕

 吉宗は、みずから博物学や天文学といった新奇な学問に関心を寄せ、それが国内の新たな産業育成に資することを期待していた。その背景には、国内の科学技術や生産技術の進歩、充実によって国内産業の振興を果たし、貿易に依存しない社会経済体制をつくり上げたいという明確な意識を読み取ることができる。その結果、日本経済はたしかに国内で成長を続けることができる、自立可能なものへと変質し、戦国時代から続いていた貿易依存体質を脱却することに成功したのである。

 〔論点000:この「貿易依存体質を脱却することに成功した」歴史記述は、「田沼時代の実相」と相容れないー事実誤認、あるいはソフィスト論法に該当する。〕

 吉宗は、一面においては「鎖国」を強化した。しかし、それは日本の金銀の流出に象徴される海外依存体質を改善し、国内産業の育成、自立経済の達成というプラスの側面を伴う措置だったと言えるだろう。つまり、本章の「時代を変えたターニングポイント」として紹介した「唐船打ち払い」は、それまでオランダに比べると緩やかたった中国商人・唐船に対する統制強化が進められ、幕府の貿易管理体制が強化された画期的な転換期であった。それは、日本外交の大きなターニングポイントであると同時に、日本経済が自立化へと舵を切る、経済におけるターニングポイントでもあったということなのである。
 吉宗以降、享保の改革の影響で、日本社会は大きく変質したとされている。地域の歴史や特徴といった、いわゆる地域性が注目されたり、社会全体で文書による記録が重視されるという合理的・客観的な判断が重んじられる気風が生まれたのは、その大きな特徴である。その根底には、商品経済や貨幣経済の発展という、目に見えない大きな時代の流れがあり、それが実学的で、合理的な精神の涵養に果たした役割は大きい。同時に、吉宗という一人の個性が果たした役割、すなわち吉京の精神や合理的な思考法が時代に与えた影響も、決して無視することはできない重みをもっている。
 蘭学は、杉田玄白らが『解体新書』を翻訳したことに見られるように、まず西洋医学の外科の分野からおこった。その後、内科や薬学の翻訳書が刊行され、さらに天文学や地理学など、オランダ語を媒介にさまざまな学問が国内に勃興していく。吉宗が播いた種が、実を結ぶようになったのである。その成果は、北方探検や地図作成の分野に顕著に表れ、化学や物理学、さらに世界歴史などの研究も進んでいく。こうして、鎖国体制の強化、継続という流れの一方で、日本は、独自の「文明化」と「国際化」をおし進めていったのである。その基礎を築いたのが、吉宗であり、変革の一つの起点となったのが、「唐船打ち払い」であったことは注目すべきであろう。
  ・・・以上、第2章 将軍吉宗 自立経済への道 終わり・・・

第3章 将軍家光 鎖国の決断
第4章 将軍秀忠 鎖国の原点