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18世紀 国際銅貿易の比較分析
オランダ-日本-イギリスの銅経済 (ek001-03-24)

 歴史科学と経済分析01
 18世紀 国際銅貿易の比較分析

18世紀 国際銅貿易の比較分析

   オランダ-日本-イギリスの銅経済
  島田論文:歴史科学と経済分析
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  • 1 オランダ東インド会社と日本銅 ・日本の銅生産と輸出
  • 2 イギリス東インド会社とヨーロッパ銅
  • 3 江戸幕府の銅貿易の衰退

 資本論ワールド 編集部
  島田竜登『18世紀における国際銅貿易の比較分析』(島田論文)の研究
 Ⅰ 『比較分析』の要約と論点
 Ⅱ 『比較分析』研究 序論:江戸時代「鎖国論」の廃棄から歴史科学の構築
   1. 17世紀 銀経済のグローバル時代ー日本銀とポトシ銀山
   2. 18世紀 日本銀から日本銅の時代へ
   3. 18世紀 オランダー日本銅の衰頽とイギリス銅貿易の隆盛



   資本論ワールド 編集部

  島田竜登『18世紀における国際銅貿易の比較分析』(島田論文)の研究
  Ⅰ 『比較分析』の前段階
1. 17世紀前半 オランダ東インド会社(1602年設立)と長崎出島商館は、日本銀の貿易関係を基軸に展開されていました。オランダは、中国産の生糸や絹織物を出島商館で売りさばき、見返りに日本銀を購入して、中国・東アジアに販売する中継貿易によって、会社の中核的利益を確保していました。日本銀の貿易推移を参照
2. 17世紀後半には、



 歴史科学と経済分析01-2022.06.01
 →島田竜登「国際銅貿易の比較分析」
歴史科学と経済分析02-2022.06.00
   →田沼意次の貨幣改鋳の国際環境
■HP
 *ek001-03-24
  ・島田論文-18世紀銅経済の変遷 : オランダ-日本-イギリスの銅経済
 *ek001-03-25
 ・歴史科学と経済分析01 *島田論文 -18世紀銅経済の変遷

 島田竜登「18世紀における国際銅貿易の比較分析
     -オランダ東インド会社とイギリス東インド会社-
  (島田論文原本→)https://core.ac.uk/download/pdf/144436481.pdf

 資本論ワールド 編集部
  歴史科学と経済分析01
  18世紀国際銅貿易の歴史科学と経済分析の研究


 島田竜登論文
 「18世紀における国際銅貿易の比較分析」の研究-要約と論点-
  -オランダ東インド会社とイギリス東インド会社-

  要約と論点 
       
日本銅の生産量等の図表はこちら(リンクを新しいWindowで開く)



   1.はじめに
   2.オランダ東インド会社と日本銅
    2.1. 日本の銅生産と輸出       <表1>
      〔日本銅の総生産量急増と減少
    2.2. 長崎貿易のモデル分析
      〔日本の銅価格決定メカニズム〕
      〔国内購入価格と海外〕
      〔取引のメカニズムを分析
        ー輸出金額は国内販売金額より安価〕
      〔日本側の帳場上の操作〕
      〔幕府の貿易制限=貿易金額の総額規制方式の矛盾〕
      〔輸出市場向け供給の赤字分を国内消費者に転化
              → 貿易の衰退を促した〕
      〔 中国人商人からの金・銀の輸入―田沼時代の経済改革ー
       オランダは日本に銀貨供給ー見返りに日本銅受取 〕
    2.3. オランダ東インド会社の銀輸入
      〔日本銅輸出の停滞と金・銀の輸入を開始〕
      〔日本貿易の変化:銀輸入を銅輸出で決済〕
   3. イギリス東インド会社とヨーロッパ銅
      〔イギリスの銅輸出ー産業革命への曙光〕
      〔銅精錬業の石炭利用は必要不可欠〕
    3.3. イギリス銅の世界史的位相
      〔オランダ東インド会社の敗北要因
       江戸幕府の銅貿易の衰退〕
   4. おわりに

 ■参照資料 
   A・・・
   B・・・


 『比較分析』研究 序論  江戸時代「鎖国論」の廃棄と歴史科学の構築
   1. 17世紀 銀経済のグローバル時代-日本銀とポトシ銀山
   2. 18世紀 日本銀から日本銅の時代へ
   3. 18世紀 オランダ-日本銅の衰退とイギリス銅貿易の隆盛


 島田竜登論文
  「18世紀における国際銅貿易の比較分析」の研究
    ーオランダ東インド会社とイギリス東インド会社ー

  要約と論点 
           日本銅の生産量等の図表はこちら(リンクを新しいWindowで開く)

  「18世紀における国際銅貿易の比較分析」
  1. はじめに

① オランダ東インド会社史に関する最近の研究によれば,オランダ東インド会社は 18世紀においても利潤を得続けていたという。これは,17世紀末にはオランダ東インド会社の重要性は失われたとする旧来の見方への反論である。

② こうした近年のオランダ東インド会社史に関する研究は,特にアジア間貿易を中心とするオランダ東インド会社の貿易活動を明らかにしつつあるが,一点,重要な問題の解明が取り残されている。それは,オランダ東インド会社とイギリス東インド会社の競争についてである。
オランダ東インド会社はアジア間貿易にその存立を大きく依拠していたし,イギリス東インド会社は 18世紀中期以降成長を見せる本国経済に大きく依存していたのである。したがって,両東インド会社にとってバックグラウンドをなす経済の分析は,両東インド会社の競争関係の解明に大きく貢献する余地があるといえよう。

③ 以上の問題意識を背景として,本稿はオランダ東インド会社とイギリス東インド会社の銅貿易について考察する。銅貿易を素材として両東インド会社の貿易活動の分析を試みるのは,両東インド会社にとって銅はきわめて重要な取引商品の1つであったためである。Shimada[44]によれば,日本銅はオランダ東インド会社にとって 17世紀以来,南アジア市場向けの重要商品の1つであり,18世紀においても,日本銅貿易がオランダ東インド会社のアジア間貿易における一大根幹であった。
 またイギリス東インド会社は、ヨーロッパ銅を 1730年頃より盛んに南アジアに輸出し,結果として両東インド会社は南アジアの銅市場をめぐる競争にさらされたと論じている。したがって,銅貿易を導きの糸とし,両東インド会社の経済基盤を比較史的に考察することは有意義であると考えられる。

④ そこで,本稿は,第1に,オランダ東インド会社が銅の供給地として依拠した日本の銅供給状況について分析する。ここでは,まず,日本の銅生産の概況が示されるとともに,長崎貿易のメカニズムが日本の銅生産に与えた影響,さらには,18世紀後半から始まるオランダ東インド会社からの日本の銀輸入について世界史的意義を検討することにする。
第2に,本稿はイギリス東インド会社のヨーロッパ銅のアジア向け輸出について考察する。まず,スウェーデンにおける銅生産とその輸出を概観し,ついで 18世紀に興隆したイギリスの銅生産の状況を考察する。イギリス東インド会社がアジアに向けて輸出した銅はスウェーデン銅であったとする通説とは異なり,イギリス銅であったことを明らかにすることになる。その後,イギリス銅のインド向け輸出の意義をオランダ東インド会社の動向とともに検討する。



 2. オランダ東インド会社と日本銅
       〔田沼時代― 貨幣素材の輸入〕

  2.1. 日本の銅生産と輸出

⑤   日本銅の総生産量急増と減少

 17世紀後半には日本の銀および金の産出量低下の一方,銅生産は急増した。<表1>によれば,1700年前後には日本の銅の総生産量は年平均5,300トンを凌ぐにいたった。しかしながら,数年後には生産量は低下する。1710年代には年平均 3,840トンに落ち込み,1770年代には 2,700トンにまで低下する。すなわち,18世紀中に生産量はおよそ半分にまで減少したのである。
  <表1> 日本とスウェーデンの年平均銅生産量と輸出量 1701-1800

⑥ 日本の銅生産は基本的に海外市場における強力な需要と結びついていた。生産量の半分以上がオランダ東インド会社船と中国船によって長崎から輸出されていたのである⑴。表1は,これらオランダ東インド会社と中国人商人による輸出も示している。1700年代には年平均 3,842トンの日本銅が輸出されており,これは国内生産量の 72%にあたる。以後もこうした傾向は同様で,1710年代には 65%,1760年代には 56%,1770年代には 54%となっている。 
たしかに日本で生産された大部分の銅が海外に輸出されたとはいえるが,国内消費の絶対量は減少しつつも国内市場のシェアは次第に増大してきたことは注意を要する。これは,銅輸出を規制した日本の当局が海外市場への供給ばかりでなく,国内市場への供給も十分なる考慮を払っていたことを示唆するし,現実的にも日本の銅生産は,銅の輸出制限のため,次第に輸出よりも国内市場向けにシフトしつつあったのである。

⑦ 近世日本には多くの銅山があり,ある記録によれば 1703年には 243を数えたという。だが,主要な銅鉱山地域は幾つかに限られており,おもに東北日本と四国で生産されていた。これらの地域にある銅山の産出量が,18世紀を通じた日本の総産出量の 75%以上を占めていた。
  <表2> 日本銅の大坂集荷量 1708-1843

 別子銅山を例にとれば,労働集約の様態を垣間見ることができる。別子銅山の生産量は,<図1>に示されている通り,17世紀末にピークを迎え,その後生産量は低下した。1730年代からは 18世紀末まで生産量は弱含みながらほぼ一定で年 500トン程度であった。


  2.2. 長崎貿易のモデル分析

⑧ 〔日本の銅価格決定メカニズム

 日本の銅生産の停滞は,技術的な問題のほかに,日本国内での銅価格決定メカニズムに関連していた。幕府は,毎年各銅山に対し,あらかじめ幕府の指定した価格によって一定量を供出するように割り当てていた。この幕府により決められる価格は国内市場価格よりたいてい低かった。

⑨ 〔国内購入価格と海外〕
 くわえて,当局が長崎においてオランダ東インド会社と中国人商人へ売り渡す際の価格は,当局が銅山から購入した価格よりもさらに安価であったのである。これらの結果として,幕府は,価格メカニズムが銅生産の技術発展を促進する経済制度を作り出すには至らなかったのである。
一例を挙げよう。1773年,幕府は秋田銅山から 100斤(約 60㎏)あたり 156.520匁,南部銅山から 139.480匁,吉岡銅山から 144.000匁にて購入した。この年,各銅山からの国内市場向けの売渡価格はいずれもこれらの価格より高値であり,そ れ ぞ れ 143.464匁(秋 田 銅 山),153.418匁(南部銅山),178.185匁(吉岡銅山)であった⑻。一方,幕府は,集荷した日本銅をオランダ東インド会社には 60.250匁,中国人商人には 115.000匁で売却したのである。


⑩ 取引のメカニズムを分析輸出金額は国内販売金額より安価

 銅山と政府(幕府)は,市場価格より安価に銅を売り渡したので,どちらも赤字を抱えたはずである。銅山は国内市場に提供するよりも安価に生産物を売り渡さなければならなかった。
また,政府も銅山から買い入れた価格以下で長崎から輸出したのである。しかしながら,銅山にせよ,政府にせよ,結果としてこれらの赤字の負担を負うことはなかったのである。両者は,赤字分を別の市場参加者,すなわち日本国内の銅消費者に負担させたのである。
 事実,政府は基本的に海外市場向け価格と国内市場向け価格を調整し,欠損(Rectangle A)と利益(Rectangle B)とが等しくなるようにしていた。1738年の価格決定の記録がこの推論を支持する。この年,秋田銅山は幕府に対し海外市場向けに 100斤あたり170.000匁にて銅を購入することを願い出た。これに対する当局の決定は,海外市場向けには127.400匁,国内市場向けには 270.000匁ということであった。加重平均を取るならば両市場向けの価格は 170.000匁であったのである쑰썶。

⑪ 銅山に代わり,日本の国内消費者が高価格で銅を購入することで,赤字を引き受けた。図2において,国内消費者の追加負担は Rectangle B である。政府の銅山から生産費を下回る価格で購入を続ける以上,赤字は国内消費者に転嫁されたのである。いい換えれば,日本の銅生産における生産費の増大は国内の消費者銅価格に容易に転嫁できる価格メカニズムになっていたのである。

⑫ 一方,政府の側の銅取引上の赤字は,輸出入貿易の帳簿操作により,苦労もなく解消することができた。日本銅は長崎貿易において,政府に赤字を生じさせるような安価な一定価格で販売されていたが,政府は輸入貿易において海外商品を日本が本来提示できるよりも低い価格で購入しさえすれば,銅輸出の赤字は生じなかったことになるのであった。

⑬  日本側の帳簿上の操作

 政府はこの赤字を引き受ける必要はなかった。政府は輸出貿易の赤字分を補いうる価格で輸入品を安価に購入したのである。この政府のモデルにおいて注意すべきことは,日本側の帳簿上,輸出入にかかるあらゆる商品が本来の価格よりも低額に決定されていたこととともに,こうした,政府による赤字解消のための価格操作は,日本側のみで完結していたことである。具体的には,長崎会所は銅を 100斤あたり 60.250匁で日本側の帳簿上,オランダ東インド会社に売却していた쑰썷。他方で,長崎会所は,同じく日本側の帳簿上,オランダ東インド会社から安価に外国商品を購入することで輸出の赤字を補っていた。

⑭  幕府の貿易制限貿易金額の総額規制方式の矛盾 〕

 長崎貿易におけるこのような慣習は,長崎の当局が一定の国際貿易を維持することを目的としていた。長崎の当局ばかりでなく,長崎に居住するあらゆる階層の人々が外国貿易に依存していたからである。
 長崎の市民は貿易の規模が大きいほどより多くの利益を得ることができるわけだが,幕府により課された貿易制限という状況では,あらゆる価格を安価にすることが貿易の当事者にとって好ましい対応策であった。なぜなら,幕府の貿易制限はたいてい貿易総額を制限するというものであったのである。
 18世紀に相次いだ貿易制限令により,長崎貿易には年間取引額の上限が設けられていた。幕府としては外国貿易の制限を基本的に望んでいた訳ではあるが,長崎会所をはじめとした貿易従事者や関連機関にとっては,大幅な貿易の制限は好ましいものではなかった。そこで,実際の貿易をとりおこなう長崎会所は,輸出入品の双方の価格を低く抑え,物量ベースでの貿易高を一定の水準に保つようにしていたのである。

⑮  輸出市場向け供給の赤字分を国内消費者に転嫁貿易の衰退を促した

1701年に設立された大坂銅座は銅の国内集荷と配分を巡り重要な役割を果たし,長崎会所とこのシステムの維持に動いていたのである쑰썹。いずれにせよ,政府の銅輸出貿易における表面上の赤字は,貿易量維持を図るための日本側の実務目的のものにすぎず,輸出入品価格をめぐる日本側の帳簿上の価格操作により消散するのであった。
以上により,このモデル分析は次のような結論に達する。日本銅の価格メカニズムは日本の銅消費者に負担を強いるものであった。銅山は赤字を,国内市場価格を上昇させることで輸出市場向け供給の際の赤字分を国内消費者に転嫁することができ,政府の側の赤字は輸出入におけるゼロサムゲームとなって消滅した。結果としては,銅生産の衰退は国内市場における銅価格の急増という方向へと向かったのである。
 幕府の政策を通じてむしろ貿易の衰退を促した。
 したがって,日本の銅価格決定メカニズムは鉱業技術の発展にとって好ましいものとはいえなかったのである。銅輸出の赤字は国内消費者に転嫁されたため,国内消費市場における銅価格の上昇は結果的に銅輸出を低下させる方向に働いた。かくして,18世紀を通じ,幕府は日本の銅輸出量を制限する法令を相次いで発令したのである。




  2.3. オランダ東インド会社の銀輸入

⑯ 〔 銅輸出の停滞と金・銀の輸入を開始

 日本の銅生産の衰退が銅輸出の停滞を生み出すとともに,18世紀後半に日本が金・銀の輸入を開始したことは,国際貿易上,等しく重要な変化であった。
 1760年代は日本経済史上ばかりでなく,国際経済史上重要な転機であった。1763年に日本は長崎来航の中国人商人から銀の輸入を開始し,数年後には金の輸入も開始した쑰썺。また,1769年以後日本はオランダ東インド会社から銀を輸入するようになった。これは,オランダ本国で鋳造されたデゥカトン銀貨(ducaton)であった。表3は、その毎年の輸入量を示している。17世紀までは日本は多量の銀を海外に輸出していたが,18世紀後半には日本は銀の輸入を開始したのである。

⑰ 日本の変化 :銀輸入を銅輸出で決済

 全ての輸入された銀貨は日本で国内流通用に新たに鋳造された。この国際貿易上の日本の変化の意義をかつて指摘したのは Munsterberg と内田であるが,オランダ東インド会社の銀輸入貿易を強調する研究者は現在では稀有である。   1769年から 1800年の 32年間にわたるデゥカトン銀貨の輸入価額は 1,101,933ギルダーに達する。同時期に日本は 8,026,564ギルダーの日本銅を輸出しているので,約 14%の銅輸出がデゥカトン銀貨の輸入で決済されたことになる。
 <表3>オランダ東インド会社からの日本の銅輸入

 オランダ東インド会社からの銀貨輸入は,会社貿易(本方貿易)のみならず一種の私貿易勘定であるカンバン貿易(脇荷貿易)によっても輸入されていた。しかし、オランダ東インド会社の公式の記録は会社貿易のみを記すことが原則であった。
 オランダ東インド会社の記録と日本側の記録を対照させることで,銀輸入は,その総額が減少しつつも,会社貿易およびカンバン貿易によって継続していたことが明らかである。

⑱ 中国人商人からの金・銀の輸入―田沼時代の経済改革ー
    オランダは日本に銀貨供給で、見返りに日本銅の貿易方式


 なお,中国人商人からの金・銀の輸入は,オランダ東インド会社のそれよりも,価額ベースで約5.7倍に及ぶ。1763年から 82年の 20年間において,オランダ東インド会社から銀貨を価額で 2,546貫473匁輸入したのに対し,中国人商人からは14,584貫 534匁に及ぶ金・銀を輸入したのである쑱썫。くわえて,1766年から 1842年の期間,双方からの輸入貴金属の価額は,同時期の日本銅輸出価額の約4分の1に達すると見積もられている쑱썶。
こうした外国からの金銀輸入は,いわゆる田沼時代の経済改革の1つでもあり,一方,日本の国際経済上の位置付けを変更するものでもあった。くわえて,オランダ東インド会社にとっては,貿易構造上の大いなる転換でもあった。
オランダ東インド会社は本国銀での支払いは常に避けるべきことを命題としていた。本国から銀が供給されても,それをすぐさま全て本国向けの商品購入には振り向けず,一部をアジア間貿易に投下して,そこからの利潤も本国向け商品の購入に振り向けていた쑱썷。こうしたアジア間貿易が,イギリス東インド会社に対する優位を保証していたのである。
また,以前は,日本貿易においては主にアジア産品が輸入され,銅購入のために銀を決済に用いる必要はなかったため,オランダ東インド会社にとって日本貿易は多くの利益をあげていた。しかし,18世紀後半に,日本に銀貨を供給することにより,ようやく日本銅が確保できるようになると,それはオランダ東インド会社のアジア間貿易に打撃を与えざるをえなくなったのである。


  3. イギリス東インド会社とヨーロッパ銅

  〔 イギリスの銅輸出―産業革命への曙光

⑲ Furber[25]によれば,18世紀末までに南アジア市場においてヨーロッパ銅は日本銅に取って代わったという。イギリス東インド会社がヨーロッパ銅を扱い,オランダ東インド会社が日本銅を販売していたから,日本銅からヨーロッパ銅へのシフトという現象は,とりもなおさずオランダ東インド会社からイギリス東インド会社へと貿易上の覇権のシフトとイギリスのインドにおける最終的な勝利を象徴しているのである。

⑳  スウェーデンの銅生産は 17世紀には年間約 2,100トンを誇っていたが,18世紀には約 800トンと低下していた。イギリスにおける銅生産とアジア向け輸出18世紀を通じてイギリスの銅生産―南イングランドのコーンウォール(Cornwall)地方における銅生産量およびイギリス東インド会社のアジア向け輸出量 ―は飛躍的に発展した。
 <図3> イギリスの銅生産量とアジアへの輸出量 1725-1800

 当初,1720年代から 50年代にかけて,コーンウォールにある諸銅山から産出された銅の年間の精練銅生産量は 1,000トン程度にすぎなかったが,その後,年間精錬銅生産量は劇的に増加し,1760年代には 2,500トン以上に達した。18世紀末には,コーンウォール銅の精錬銅生産量は年 4,000トンを超えている。 最大の要因は,鉱山業ならびに精錬業での石炭の利用にあった。

  銅精錬業において石炭利用は必要不可欠

㉑  こうしたコーンウォールにおける蒸気機関の採用がさらなる蒸気機関の改良と発展を促していたのである쑳썫。銅鉱石がコーンウォールの諸銅山で採掘される一方,産出した銅鉱石は南ウェイルズ(Wales)のスウォンジー(Swansea)の銅精錬工場に輸送された쑳썶。コーンウォールから銅鉱石をスウォンジーに運ぶ船舶により,南ウェイルズの石炭がコーンウォールに供給され、コーンウォールの銅生産の発展は南ウェイルズの石炭と強く結びついていた。
銅生産の過程において,銅山業よりはむしろ銅精錬業において石炭利用は必要不可欠であった。地理的にコーンウォール半島は南ウェイルズとブリストル海峡(Bristol Channel)を隔てているだけであったから,両地域は船舶によって,コーンウォールの銅鉱石がスウォンジーに運ばれるように連結されていた。銅山では排水のほか鉱内からの銅鉱石の運び出しのためにエンジンが利用された。そして、コーンウォールから銅鉱石をスウォンジーに運ぶ船舶により,南ウェイルズの石炭がコーンウォールに供給された。

㉒  イギリスの銅生産の急速な成長は産業革命期の初期に生じたものである。近年の産業革命に関する諸研究は,あらゆる産業が顕著な成長を見たわけではなく,一部の産業が特定の時期においてのみ成長をみせたことを明らかにしている쑳썧。まさしく,銅生産業がこの時期の成長産業であった。
結果として推論できることは,銅生産業の成長は多量の石炭を必要とし,これが石炭業の発展を促した一要因となっていた。銅生産業の成長は蒸気機関の発展と結びつき,〔イギリス〕綿工業の発展を促進したことになる。

  3.3. イギリス銅の世界史的位相

㉓  このヨーロッパ銅,すなわちイギリス銅はアジアに向けて輸出され,広範囲な利用に供された最初のイギリスの自国製品である。いわゆる産業革命の初期に大規模に生産され,アジアに供給された。このイギリス銅のアジア輸出は,約半世紀,イギリスの綿布輸出に先んじていたことは注目に値する。<図5>
 イギリスが 1750年代および 60年代に数々の利権をインドに得た後の 18世紀末にも,80年代の若干の減少を除けば,インドからイギリスへの綿布貿易は基本的に継続していた。〔イギリス綿布工業はインド産におされていた。〕
 以上から,イギリス綿布ではなく,18世紀のイギリス銅が,アジアへのイギリス産業革命の最初のメッセンジャーであったといえるのである。

㉔  オランダ東インド会社の敗北要因と江戸幕府の銅貿易の衰退
 
 <図4> オランダ東インド会社の日本銅・アジアへの輸出量と
     イギリス東インド会社ヨーロッパ銅のアジアへの輸出量 1650-1700

 オランダの日本銅貿易で、長崎の銅価格は名目的な性格を帯びていた。徳川幕府による輸出入品を低価格に維持し,価額ベースでの貿易制限令の下で全体の貿易量を大きく維持するためであった。オランダ東インド会社の長崎商館の帳簿では日本銅購入価格はほぼ低価格で一定しており,明らかに日本の生産費や市場価格を反映したものではない쑴써。オランダ東インド会社の会計方法では,この日本貿易の決済方法上の習慣を反映できずにいたのである。18世紀後半,オランダ東インド会社の銅貿易からの帳簿上の名目利益率はイギリス銅のインド流入により減少した쑴썩。しかし,見かけ上の利益率はやはり大きく,オランダ東インド会社は,日本銅貿易を会社の存続に重要なものと位置付け,イギリス銅の流入に対して確たる対抗策を打ち出さなかった一因となったのである。



 4. お わ り に

  <図6>世界の銅価格の趨勢 1730-1800

㉕  以上,本稿は,オランダ東インド会社の銅貿易とイギリス東インド会社の銅貿易を比較史的に検討してきた。とりわけ,双方の会社にとっての銅調達国における銅生産の考察に意を払った。オランダ東インド会社が銅供給を仰いでいたのが日本である。17世紀末の日本の銅生産の衰退は,オランダ東インド会社の銅輸出量の低下に結びついた。
結局,18世紀後半には日本はオランダ東インド会社からオランダ本国銀貨〔主には中南米産銀貨〕を輸入するようになり,これは日本が銀貨輸入国になるという世界経済史上の転換がなされたと共に,アジア間貿易を特徴とするオランダ東インド会社にとっては,日本貿易の重要性が低下したのであった。
なお,オランダ東インド会社はこうした多量のイギリス銅の流入に対して,確たる対抗策をとらなかった。その1つには,特殊なオランダ東インド会社の貿易帳簿上では,日本銅貿易は依然として利益を上げ続けていたからであった。

・・・・・・・・・・・・・・・・以上、終わり・・・・・・・・・・・・・・・・


*********************
 関連質料
(1) 島田竜登「19世紀における日本の銅貿易と東アジア――日本銅の中国輸出を中心として――」
    明治維新史学会編『明治維新とアジア』 吉川弘文館,2000年,236頁。
(2) 小葉田淳『日本鉱山史の研究』岩波書店,1968年,31-32頁
(3) 永積洋子「大坂銅座」地方史研究協議会編『日本産業史体系』
     (6 近畿地方篇)東京大学出版会,1960年,410-11頁
(4) 中村質『近世長崎貿易史の研究』吉川弘文館,1988年,451頁。
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 Ⅱ 『比較分析』研究 序論  江戸時代「鎖国論」の廃棄と歴史科学の構築
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