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  3. 中国と日本ー東アジアの産業連関(ek001-07)

第2篇 中国と日本ー東アジアの産業連関(ek001-07)

 第1部第2篇 東アジアと江戸時代の制度的枠組み

  目次
   総論1 中国と日本ー東アジアの産業連関
   総論2 オランダ東インド会社の東アジア経済圏

   各論 
   1. 岸本美緒『東アジアの「近世」』
             銀のアジア史ー日本・中国・アジアの銀経済圏
   2. 岸本美緒「康熙時代の国際環境日中ー東南アジアの産業連関
   3. 上田 信『海と帝国ー明清時代』 銀経済と貿易管理
   4. 中国の「海禁」政策と日本の倭寇 15~16世紀東アジアの海域
   5. 出島商館とオランダ東インド会社ー東アジア経済圏
      →① オランダ




  第1部 第2篇 中国と日本ー東アジアの産業連関
   
   
  岸本美緒東アジアの「近世」 山川出版社1998年発行

   〔目次〕
   貨幣への欲望-銀
  1. 銀の時代の始まり
  2. 北虜南倭の時代
  3. 国際交易ブーム
  4. 世界の銀流通と東アジア
  5. 銀経済の転換
  6. 近世東アジアの貨幣制度



    ① ―貨幣への欲望-銀

 1. 銀の時代の始まり

    〔石見銀山と灰吹法〕

 16世紀は世界的にみて銀の流通量が飛躍的に拡大した時期であり、その背景には、よく知られているように新大陸アメリカにおける銀鉱山の開発がある。しかし束アジアについてみると、16世紀前半、東アジアにおける銀の時代の本格的幕あけを告げたのは、新大陸の銀ではなくむしろ日本の銀であった。
 15世紀以前の束アジアで貨幣としての銀の流通がまったくなかったわけではない。中国ではすでに漢の時代から銀は貨幣として用いられていたが、民間で用いられる貨幣の主流は銅銭であった。南宋・金・元および明初には政府発行の紙幣が使用されていたものの、15世紀初めの紙幣制度の混乱のあとは、税の一部が銀納化されたほかはふたたび銅銭の使用が一般的となっていた。日本では13世紀ころから、中国との貿易をつうじて輸入された銅銭が貨幣の主流を占めるようになったが、米などが貨幣の役割をはたすこともなくなったわけではない。朝鮮でも14世紀後半すなわち高麗時代の末から朝鮮王朝の初期にかけて、銀や紙幣、布や米などさまざまな貨幣が使われていたが、その後、国内の金銀の不足のために銀の使用は禁止され、15世紀にはおもに布が貨幣として用いられていた。総じて15世紀の東アジア諸地域では、実効ある明確な貨幣制度がとられないままに、多種の貨幣が雑然と混用されていたといえるだろう。   
 16世紀の初頭、東アジアにおいてまず銀産出の中心となったのは朝鮮である。端川銀山などの開発により増加した朝鮮産銀は密貿易をつうじて中国や日本に流出したが、30年代には日本銀の産出が急増し、日本から中国・朝鮮への銀の流れが圧倒的になっていった。そのきっかけをなしたのは。灰吹法といわれる銀の精錬法が朝鮮から日本に伝わったことである。灰吹法とは、まず不純物を含む銀鉱石を鉛と一緒に加熱して不純物の除去された銀と鉛との混合物をえる。そののち、灰のうえでその混合物を加熱すると鉛が先に溶けて灰に吸収され、銀が残るという方法である。この方法は、新たに発見された石見銀山などで採用され、爆発的な銀の増産をもたらした。
 日本の銀は、あるいは直接に浙江や福建など中国の東南沿岸へ、あるいは朝鮮をとおって遼東(現在の中国遼寧省の南部)から中国本土へ、と運ばれていった。しかしその流れには大きな障害があった。というのは、朝鮮にしても中国にしても、当時、民間の貿易にたいして厳しい禁止・制限策をとっていたからである。その障害とはなんであろうか。ここで目を中国に転じてみることしよう。

 2. 北虜南倭の時代

 中国国内でも銀はまったく採掘されなかったわけではなく、15世紀前半、永楽帝・宣徳帝の時代には浙江・福建地方を中心として、多いときで年間100万両(約37トン)程度の産出量があった。その後、銀の産出はしだいに衰えたが、それにもかかわらず銀の需要は増大していった。というのも、当時の明の財政は、対モンゴル戦争の必要から、銀に依存する性格を強めていたからである。貿易の拡大を求めて中国の北方辺境に侵入を繰り返していたモンゴル勢力に対抗するため、明は15世紀後半から万里の長城を整備して九つの軍管区(九辺鎮)をおき、大量の軍隊を北方辺境に配置した。明の成立当初には、政府は穀物など現物で税を取り立てる現物主義の財政制度をとっていたが、かさばる穀物を前線に運ぶ困難さから、次第に価値の高い(すなわち軽くて運びやすい)銀を税として取り立て、それを北方に運んでそこで軍需物資を買いつけるシステムに移行していったのである。銀を取り立てられる一般人の側からこれをみれば、ただでさえ少ない銀を毎年入手して税として払わなければならない。北方に運ばれた銀はすぐに内地に還流するわけではなく、内地に残る銀はだんだん少なくなってゆく。銀の希少化にもかかわらず、税や徭役(ようえき:前近代の国家による無償強制労働など)の銀納化はしだいに進み、国家に支払う銀を手に入れる困難さは増大した。税や徭役を逃れるために、有力者はさまざまな不正手段を弄し、一般農民は土地を捨てて逃亡する、といった事態も起こってくる。
 16世紀には、こうした税の重さと人びとの窮乏が深刻な社会問題となった。それにともない、銀にたいする需要がどんどん強まってくる。あたかもそのころに日本銀の産出が急増したわけであるから、そこに日本から中国に向けての銀の流れが奔流のような勢いで生ずるのは当然であろう。しかし、その流れは明朝の初期からの政策である「海禁」すなわち民間海上貿易の禁止によって阻まれていた。宋や元の時代には民間の海上貿易がさかんにおこなわれていたが、社会経済にたいし強い統制・管理政策をとろうとした明朝政府は、周辺諸国とのあいだの朝貢貿易を推進する一方で、民間の海上貿易にたいしては「寸板も下海を許さず(一寸の長さの板も海にでることを許さない)」という厳しい禁止政策をとっていたのである。日本から中国への銀の奔流は、いわば明の築いた「海禁」というダムによって堰き止められていたわけで、このダムを突きくずそうとする勢いのなかで、16世紀の「倭寇」が成長してくる。
 「倭寇」とは「日本人の海賊」の意味であり、16世紀の倭寇は、14世紀の元明交替期に東アジアの沿岸で活動した倭寇と区別して「後期倭寇」ともいわれる。明代の前期にいったん鎮静していた倭寇の活動が16世紀にふたたび活発化した背景には、この銀の流れが存在するのである。倭寇といっても日本人ばかりではなく、日本・中国など東シナ海周辺のさまざまな地域の人びとがいりまじる密貿易集団である。彼らは明の官憲の取り締まりに対抗するため、武装船団を組み、密貿易のかたわら中国の東南沿海地帯に侵入しては略奪をおこなった。人びとの頭のなかには、上半身裸で抜き身の刀を振り回す「日本人」にたいする恐怖の記憶が刻みつけられた。しかしまた同時に、彼らのもたらす銀は、この地域における経済の活況の源でもあったのである。
 1550年代は、そうした倭寇の活動が最高潮に達した時期であった。同時に北方でもモンゴルの活動が活発化し、50年にはアルタン率いるモンゴル軍が長城をこえて深く侵入し、8日間にわたり北京城を包囲した。「北虜南倭」と連称されるモンゴルと倭寇の危機がこの時期同時に高まったのは偶然ではない。北方の軍事的な緊張が高まるほど軍事費は増大して中国の銀需要は強くなり銀需要が強くなるほど日本銀流入の圧力は高まる。このように「北虜」と「南倭」とは、遠く離れた中国の北と南で、銀を媒介に深い関係をもっていたのである。

 3. 国際交易ブーム

  〔日本の銀ーポルトガルー中国の生糸〕

 1550年代の「北虜南倭」の危機をなんとか切り抜けた明朝は、その後方針の転換をおこない、67年ころには「海禁」をゆるめて民間の海上貿易を許す(ただし日本への渡航を除く)とともに、70年にはモンゴルとのあいだに和議を結んで北方の交易を軌道に乗せようとした。この方針転換がおこなわれた時期は、東アジアの銀の流れからいっても一つの画期であった。それは第一に、日中貿易におけるポルトガルの台頭である。ポルトガルは1557年に明の官憲からマカオ居住の許可をえて中国沿岸に拠点を確保していたが、70年ころには日本の側でもキリシタン大名大村純忠の領内に長崎港が開かれ、長崎とマカオを結ぶ交易がポルトガルの手によっておこなわれるようになる。日本を警戒する明は日本人の中国来航や中国人の日本渡航を禁じていたが、その間隙を縫ってポルトガルは、日本の銀と中国の生糸という当時の東アジア最大のドル箱路線を確保して巨利をあげたのである。その後、日本銀産出のピークであった1600年前後まで、東アジアにおけるポルトガル船貿易の黄金期が続く。
 第二に、1571年にスペインがかねて占領していたルソン島にマニラを建設して以後、アメリカ大陸の銀が大量に中国に流れ込むようになったことである。1540年代に開発の始まったペルーのポトシ銀山は、70年代以降急速に生産を拡大し、世界の銀の流通額を押し上げていった。スペインがアメリカで採掘した銀は、一部はアメリカ大陸にとどまるほか、多くは東に向け大西洋を横断して本国スペインに運ばれるが、逆に西に向かい太平洋を横断してマニラに運ばれる部分もあった。マニラに運ばれたアメリカ銀は、マニラに集まってくる中国船によってほとんどが中国へと流入する。当時のスペイン人の記述によれば「毎年200万ペソ(約50トン)の銀がフィリピンに送られるが、これらの財はすべて中国人の所有に帰し、スペインには帰らない」(1602年の記事。『フィリピン諸島誌』)といわれており、スペイン政府は銀の流出をとめようとしばしば禁令を発したものの、この流れをとめることはできなかった。一方、ヨーロッパに運ばれた銀も、すべてヨーロッパにとどまったわけではない。1637年のある報告書は「[メキシコからスペインへ密輸入される銀は]イギリス人、フランス人、オランダ人およびポルトガル人の手に移り、彼らに利益を与えたのち、ポルトガル人によって東インドに輸送される。インドにおいてオランダ人、ペルシア人、アラビア人、ムガール人など敵国民の手にわたり、最後には銀の集中地たる中国に流れ込んでしまう」(『フィリピン諸島誌』)と述べている。ヨーロッパ経由で中国に流れ込んだアメリカ銀がどれほどあったかは推計不可能で、おそらくそれほど多くはなかったであろうが、当時のヨーロッパ人の目に、中国が世界の銀の最終目的地と映っていたことは興味深い。

 4. 世界の銀流通と東アジア

 このような東アジアの銀流通は、当時の世界の銀流通のなかで、どの程度の割合を占めていたのだろうか。アメリカ銀のヨーロッパ流入にかんする古典的な業績として長いあいだ依拠されてきたのはE・J・ハミルトンの研究であったが、近年はハミルトンが用いた公式統計にもれた部分をも含めて新たな流入量推計がおこなわれている(図1)。これによれば、1600年前後には、年平均で100万ペソ(約25トン)近い銀がスペインを経由してヨーロッパに流れ込んでいたのである。一方、太平洋を横断してフィリピン経由で東アジアに流れ込んだのはどの程度の量だろうか。マニラ当局の記録に残る中国船の税額から計算すると、1600年前後に中国船がマニラから輸出した銀は年平均100万ペソ(約25トン)程度と見積もられる(図2)。しかし「毎年200万ペソの銀がフィリピンに送られ、この財はすべて中国人の手に帰す」といった前述の記事などからみると、統計に載らない部分もかなりあったのではないかと考えられる。また、前述の1637年の記事にあるように、ヨーロッパからインド洋をとおって中国にいたる新大陸銀の流れも若干はあったであろう。
 一方、日本銀についてみれば、小葉田淳は、17世紀初頭の日本銀の輸出を丁銀(純度80%程度)勘定で年間400万両から500万両(150トンから190トン)と見積り、その大半が中国に流入していた、と推測する。欧米の学者のよりひかえ目な見積りでは、中国の日本銀輸入量は1610年代に年間50トン余り、その後ふえて三〇年代には85トン程度(ただし純度93%の銀として計算)となっている。
 これらの推計からすると、(1)当時日本銀の輸出は、アメリカ銀の世界輸出と比較して半分とはいかないまでも少なくとも2~3割程度には達する相当の量を占めていた。(2)アメリカ銀の総輸出のうち、太平洋航路をとおってフィリピンに運ばれる部分は、1割から2割程度を占めていたようである。(3)日本銀にしても、フィリピンに運ばれたアメリカ銀にしても、その大半は中国に流入したと考えられ、17世紀初頭、その流入量は年間200万両から400万両(75トンから150トン)に達していたと推測される。
 この時期の中国を「世界の銀の終着点」というのはやや大げさであろうが、当時世界の銀のほとんどを産出していたアメリカ大陸と日本とからの銀の輸出量のうち、5分の1から3分の1程度の量が中国に流れ込んでいたとみてよいのではなかろうか。興味深いことは、この時期に北京の国庫から北方軍事地帯に毎年運ばれていた銀の額がちょうど400万両程度であったことである。中国の銀が北方に吸い上げられ、その空隙をアメリカ大陸や日本の銀が埋める、という南から北へ向けての大きな銀の流れが存在したことが了解されよう。16世紀のヨーロッパでは銀の流入にともなって、価格革命と呼ばれる激しい物価騰貴が起こったのにたいし、中国では相当量の銀が流入したにもかかわらず、民間では銀不足が問題となり、1620年代にいたるまで米価はほとんど上昇しなかった(図3)。その理由は、流入した銀が絶えず北方に吸い上げられてゆくこの構造にあったのである。
 ・・・中略・・・

  5. 銀経済の転換

 17世紀の半ばころには、こうした銀の動向に大きな変化が起こった。一つは、東アジアの銀流通を支えていた日本の銀が、その産額を減少させていったことである。17世紀の初めに成立した徳川幕府は、1630年代に対外関係にかかわる一連の命令(いわゆる鎖国令)を発し、日本人の海外渡航禁止やポルトガル人の来航禁止など厳しい規制をおこなった。しかしこれによってただちに日本の対外貿易額が縮小したわけではない。「鎖国」後も中国船はさかんに来航し、銀の輸出も世紀初頭と変わらない水準でおこなわれていた。日本の銀輸出が大きく減少するのは1660年代後半以降のことで、その背景には、通貨原料となる銀の大量流出に危機感をいだいた幕府の銀輸出制限政策があった。その後も、対馬―朝鮮ルートや琉球ルートをつうじて日本銀の輸出はわずかながら続いていたが、18世紀の後半にいたると日本の銀鉱山はほとんど生産を停止し、むしろ日本は中国から銀を輸入する立場に回ってしまうのである。
 アメリカ大陸の銀についてはどうだろうか。17世紀前半にアメリカ大陸の銀生産が減少に転じたことは、長く通説となってきた。ヨーロッパ史にかんしていうと、この銀の減少が異常気象と重なってヨーロッパ経済を冷え込ませ、それが「17世紀の全般的危機」をまねいてイギリス革命やフロンドの乱などの背景となったという説が有力であった。この説には批判もあり、17世紀にはアメリカ銀のヨーロッパ流入は減少していなかったとする研究者もいる。まして束アジアでこの時期にアメリカ銀流入の減少があったのかどうかという点については、論争はあるが定説はない。しかし少なくともマニラに来航する中国船の数や関税の額からみるかぎり、その数値は17世紀初頭をピークとして減少に転じ、その後18世紀末までかつての水準が回復されることはなかった。

 以上のように日本銀・新大陸銀いずれも、17世紀の半ば以降は産出・流入の勢いが鈍化し、銀流入に支えられた東アジアの国際交易ブームは鎮静していったといえる。この時期は同時に、中国の北方辺境での強い銀需要が緩和された時期でもあった。というのは、東北の女真族の建てた清朝がモンゴルを支配下にいれ、また1644~45年に中国を占領したことにより、従来中国の憂患となっていた北方戦線が消滅したからである。日本でも、国際交易に依存しない自立的な経済構造への転換が、この時期以降、徳川政権のもとで進められていった。16世紀の東アジアの交易ブームを引きおこした日本の銀供給と中国の銀需要は、ともにこの時期、その圧力を弱めていたのである。

  6.  近世東アジアの貨幣制度
 
       →〔日本の銅生産と輸出〕

 16世紀から17世紀の東アジアでは、華やかな国際交易を担った銀の動向が人目を引くが、銀以外の貨幣もそれぞれの地域の経済を支える重要な役割をはたしていた。江戸時代の日本では、秤ではかって用いる丁銀のほかに小判・一分金(いちぶきん)などの金貨や寛永通宝という銅銭がつくられ、金・銀・銅銭の「三貨」が貨幣制度の基本となった。明・清時代の中国では、秤ではかって用いる銀と各皇帝の年号を冠した銅銭との二本立ての貨幣制度が採用された。朝鮮でも17世紀後半以降、銅銭(常平通宝)が発行され、銀にかわってしだいに主要な通貨となった。
 近世東アジア諸地域の貨幣制度は、それ以前に比べると整っているとはいえ、今日の貨幣制度と比べるとかなり煩雑である。たとえば今日の日本では貨幣の材質は紙・銅・アルミニウムなどさまざまだが、単位はすべて「円」であり、その間の交換比率も当然一定している。しかし当時は金・銀・銭それぞれに単位も異なり、また、諸種貨幣のあいだで公定の交換比率が定められてはいても、今日の外国為替相場のように市況によって交換比率が変動することもあった。
 なぜこのような複雑な貨幣制度が採用されるのであろうか。十分な説明は難しいが、一つの理由として以下のようにいうことができよう。高額・長距離の交易に適した銀(や金)は、16世紀以降に東アジア諸地域の経済が国際交易と結びつく過程で、人びとの生活のなかに深くはいっていった。一国全体の財政を効率的に運営してゆくためにも、金銀は便利な貨幣であった。しかし一方で、金銀は日用の小規模な交易に使いにくいのはもとより、長距離交易の動向の影響を受けやすいために流出入が激しく地域内部の貨幣供給を不安定化させる。それにたいして銅銭は不便であるゆえに動きが少なく、地域経済を安定させる効果があるのである。いわば、広い世界と結びつきながら、といって完全に統合されてもいない経済構造のなかで、国際的・全国的な取引と地域内部での取引との安定した共存をはかるために、こうした重層的な貨幣制度がとられたのだといえよう。
 ・・・・・以下省略・・・・
 第1部 「鎖国」論の批判
 第2篇 東アジアと江戸時代の制度的枠組み

  目次
     総論 中国と日本ー東アジアの産業連関

   各論
   1. 岸本美緒『東アジアの「近世」』
   2. 岸本美緒康熙時代の国際環境」日中ー東南アジアの貿易
   3. 上田 信 『海と帝国』明清時代 銀経済と貿易管理
   4. 中国の「海禁」政策と日本の倭寇 -15-16世紀東アジアの海域-
     ① コラム―倭寇と海禁
     ② インタネット情報  
     ・日本大百科全書・小学館「倭寇」の解説
        田中健夫 倭寇の侵略地と根拠地」地図参照
     ・フリー百科事典 ウィキペディアー
        「倭寇」をめぐる論争
        「海禁」 明代と清代の海禁

  
  中国と日本ー東アジアの産業連関
    
資本論ワールド 編集部 はじめに


 〔1.〕 17~18世紀の海上貿易ー清朝と日本、ヨーロッパ列強

 岸本美緒康熙時代の国際環境日中ー東南アジアの貿易

  『明清と李朝の時代』 世界の歴史12  中央公論社1998年発行
   第7章 清朝の平和

       岸本美緒:1952年東京都生まれ、
       東京大学大学院人文社会系研究科教授。 専攻は中国明清史

  〔抄録目次〕
     東南の海上貿易ー清朝の海禁ー
   1.〔日中貿易の盛衰ー貿易制限令〕
   2.〔貿易ブームから日本国内「輸入代替」的産業へ〕
   3.〔東南アジア華僑のネットワーク形成〕


  康熙時代の国際環境

  東南の海上貿易ー清朝の海禁ー

 1684年、海禁は解除され、沿岸諸省には、江海関(こうかいかん)(江蘇こうそ)、浙(せつ)海関(浙江)、閩(びん)海関(福建)、粤(えつ)海関(広東)の四つの海関が設けられた。海外貿易を行いたい商人は、各級地方政府の渡航証明書を入手し、各港の番所で、禁制違反の品物を持っていないかなどのチェックを受けてから出航を許される。禁制となっていた物資は、武器や、金・銀・硫黄・硝石・銅などの鉱産物、あるいは携帯食糧分以外の米穀などであった。これらの禁制はいずれも主に、物資が海外や海賊に流れてその勢力を増すことを懸念するという治安上の考慮にもとづいている。
 17~18世紀といえば、多くのヨーロッパ諸国で重商主義政策が取られ、国内産業を保護するための貿易制限が行われた時期であるが、清朝の場合、その貿易制限は、国内産業を保護するという経済的な意味よりもむしろ、海上の平和を維持するという治安維持の意味合いが強かった。というのも、ともすれば他国の商品やサービス(海運など)との競争に負けて自国の産業が衰退してしまうという厳しい状況に直面していたヨーロッパの国々と異なって、清代中期までの中国の場合は、黙っていても中国物産が世界中に売れてゆくという安定した売り手市場であったからである。中国産の生糸や陶磁器は古来世界に知られた高級品であったし、江南産の綿布も「ナンキーン(南京)」と呼ばれてヨーロッパ人の垂朧の衣料であった。18世紀から急速に取引量を伸ばしてゆく茶も、19世紀半ばまでは世界中で中国がほぼ独占的に産出していたのである。したがって、清朝にとっての貿易問題とは、他国との経済的な競争の問題というよりは、貿易を通じて中国人が海外に移住し反清的勢力を形成したり、海賊の活動が活発化したりすることをいかに抑えるかという問題であって、為政者がつねにそうした規制的な関心から貿易を見ていたことに注意する必要がある。


 1. 日中貿易の盛衰ー貿易制限令〕

 さて、当時の東南沿岸の海上貿易の状況を、北のほうから順番に見てゆくこととしよう。江蘇の上海・乍浦(さほ)、浙江の寧波(にんぽう)は、対日貿易の中心地であった。海禁時期に抑えられていた対日貿易は、1684年の海禁解除とともに急増し、1685年には85隻、そして88年には194隻と、海禁時代の鬱憤(うっぷん)をはらすかのように、中国商船は長崎に殺到した。この状況は徳川幕府をあわてさせずにはおかなかった。貴金属の大量流出と市場の混乱とを恐れた幕府は、85年に貿易制限令を発布して、中国船の貿易高を1ヵ年で合計6000貫(約60万両)に制限し、さらに88年には来航船数を70隻と定めて、それを超過する分については貿易を許さず帰航させた。その後も徳川幕府は、中国貿易の制限を強化し、18世紀の後半には、長崎に来航する中国船の数は、一年に10数隻へと減少していた。
 こうした貿易制限によって中国と日本との関係が切れてしまったわけでは無論ない。文化面からいうならば、戦争や飢饉にあけくれた16~17世紀前半に比べ、幕府のが安定し平和の訪れた17世紀末以降は、中国への関心が日本国内の広い階層に広まり、中国文化の影響はむしろ強くなったともいえる。長崎ばかりでなく、琉球や対馬・朝鮮を通じての経済関係も続いていた。しかし、全体としてみれば、日中貿易の重要性は、日本にとっても中国にとっても相対的に減少していたといえよう。
 
 2. 貿易ブームから日本国内「輸入代替」的産業へ〕

 16世紀半ばから17世紀前半までの国際貿易ブームの時期、日本はもっぱら銀を中国に輸出し、生糸などの手工業製品を輸入していたわけだが、17世紀後半以来の貿易制限にともなって日本では生糸や砂糖など従来の輸入品を国内で自給する「輸入代替」的産業がしだいに発達し、19世紀初めごろまでには日本経済は中国に依存しないという意味での「自立」度を高めていたのである。一方日本から中国への輸出品を見ると、最大の輸出品であった銀は幕府の輸出制限とともに急減し、かわって銅、次いで俵物(たわらもの)(海産物)などが主役となった。17世紀前半までの相互の強い依存関係は、しだいに弱まっていたのである。
 日中貿易にかわり、南洋貿易の比重が高まったのがこの時期の一つの特徴である。福建省の厦門(あもい)は、清代における中国船の南洋への出航地として最大のものであった。ここから毎年出航する中国船は、18世紀半ばの最盛期で一年に60~70隻、行き先はマニラ(十数隻)、バタヴィア(十数隻)、ヴェトナム、タイなどを中心に、東南アジアの全域にわたっていた。


 3. 東南アジア華僑のネットワーク形成〕

 東南アジアとの帆船貿易が盛んになり、経済的・人的関係が密接になるにつれて、中国人のなかに、東南アジア諸地域に住み着いてしまう人びとが出るのも不思議ではない。とくに山がちで人口の多い福建は、人口圧力と海上交易依存度の高さから、東南アジア華僑を多く生み出す地域であった。
 清朝は、こうした海外移住を中国人の海外発展とは見ず、反政府活動の温床としてつねに警戒的な態度で扱った。1740年にジャワでオランダ人による中国人1万人あまりの虐殺があったときも、清朝は結局、抗議の姿勢を示すことなく放置した。これは、オランダと敵対することによって貿易を阻害したくないという理由もあるけれども、また海外の中国人は保護する必要のない「天朝の棄民」であり、迫害されるのも自業自得である、という清朝の突き放した態度の所産でもある。しかしそうしたなかで、東南アジア華僑は、自らの相互扶助的ネットワークを作りあげ、商品経済の中枢を握り、東アジア・東南アジアの交易網に大きな役割を果たすようになっていったことは、周知の通りである。
 中国船の出航貿易の中心である厦門と対比して、広州(欧米人はカントンという)は、外国船の来航の中心地であった。18世紀の前半には、年間平均10~20隻の欧米船が来航しているが、船の数においても貿易量においても、その重要性は中国商人の帆船貿易に大きく劣るものであった。欧米船の貿易がその重要性を増してくるのは、18世紀半ば以降のことである。
 17世紀末から18世紀前半は、欧米船の活動も不活発で、日本船はむろんまったく姿を見せず、東シナ海・南シナ海はほぼ中国船の一人舞台だったといってよいであろう。この時期は、中国帆船の南洋貿易の黄金期であった。総じて、清朝は明朝と異なり、中国人の出航貿易に対し、治安を害しないかぎりで放任しておくという態度をとった。現に、この時期の東南沿岸には、小規模な海賊の活動を除けば、強力な外国勢力も、清朝を脅かす軍事集団もなく、東南沿岸は清朝にとって概して安心な地域であったのである。そうした状況を背景にして、清朝の関心はむしろ、内陸部に向けられることとなる。
 ・・・・以下省略・・・・



 日本-中国-東アジア ポルトガル/オランダ

  資本論ワールド編集部
  はじめに


 上田 信『海と帝国』明清時代 銀経済と貿易管理
            中国の歴史09 講談社2005年発行
 〔抄録目次〕
  第7章 王朝の交替 ― 17世紀
   1. 海の変貌
   2. 交易基調の変化
   3. 互市システムの確立
   4. 江戸幕府と中国 ー東南アジアの海域管理体制

 
 上田 信 『海と帝国』明清時代  銀経済と貿易管理

  第7章 王朝の交替 ― 17世紀  
      海域世界の終焉 

 〔1〕海の変貌 

 古くからの港町・泉州に近い南安県に、石井という海浜の村がある。その背後にある丘の上に登る。村落の全景が見渡せる。農地はほとんどない。村の南には台湾へとつながる海洋が広がり、東には白沙の砂州を望むことができる。海原を見つめると、吹き寄せる風から身を守るように、砂州の北側には数隻の外洋船が停泊している。丘からおりる道の左右に点在する墓の墓碑銘を見ると、鄭姓のものが多い。この光景は、400年前とさほど変わったところはない。
 万暦三二年(1604)に、この村に鄭芝龍、のちに鄭一官として知られる男が生まれた。18歳のとき、外洋船に乗り込み海に出た。耕地が少ない泉州の周辺では、ごく自然な選択であった。
 鄭芝龍が乗り出した東ユーラシアの海は、王直が活躍した16世紀の海域世界ではない。海は変化しつつあったのである。まず倭寇にその活動の拠点を提供していた日本が、豊臣秀吉のもとで統一され、17世紀には徳川家康に引き継がれた。日本を中心とする海域世界は、豊臣・徳川と続く統一政権の統制を受けるようになった。

  〔豊臣-徳川政権の貿易統制〕

 それまで九州の領主が担っていた海洋を介した交易を、豊臣政権が統制しようとする動きが16世紀末には現れていた。豊臣政権は日本国内の銀山を直接に支配し、日本から中国に輸出された最大の商品であった銀を掌握する。この銀を海外貿易に投資し、東南アジアなどを経由した中国との交易に対する最大のスポンサーとなった。さらに豊臣政権は、全国的な領海権を掌握した。この変化は、海辺に漂着した遭難船への対応にはっきりと見ることができる。
 中世の日本では、漂流物は漂着先の沿岸住民に帰属するという原則が広く見られた。16世紀にはその土地の領主が、漂着したものを占有するようになり、遭難船の乗組員はしばしば奴隷的な立場に置かれることもあった。ところが1596年、高知にスペイン船が漂着したとき、豊臣秀吉は奉行を派遣してその積み荷を没収し、漂流民に食糧を与え、船を修繕させて帰国させている(荒野泰典『近世日本と東アジア』東京大学出版会、1988年)。これは、中世的な慣行が終わったことを示す。海は、統一政権が管理する公的な空間へと変化したのである。
 豊臣政権は日本の沿海から中国・朝鮮半島にかけて広がる海で活動していた海賊を封じ込めるとともに、1592年に日本から海外に赴く船舶に許可証である朱印状を発給して、特定の商人に海外との交易を特許する方針を出した。この政策は徳川政権によって引き継がれ、1604年から1635年までのあいだに、判明しているだけで356通の朱印状が交付された。明朝は日本船の入港を認めなかったので、朱印状の宛先はマニラ・台湾およびインドシナ半島の港町である。
 朱印状を携えたいわゆる朱印船は、行き先の港町で香木の伽羅などの熱帯アジアの物産を購入するだけではなく、中国商人とのあいたでも交易を行い、生糸などの中国物産を仕入れた。日本の船は中国に直航することはできなかったが、東南アジアなどの港町で出会い貿易を行っていた。徳川政権は朱印状を一つの手段として、日本と中国とのあいだの間接的な交易を管理するようになったともいえよう。
 日本だけではない。海域世界で活躍していたヨーロッパ人たちも、しだいに交易から利益をあげればよいという体質から脱皮し、植民地経営に依拠したシステムのなかに、海を取り込むようになる。
       ・・・中略・・・
  台湾平定のめどがついた清朝は、康煕二〇年(1681)に遷界令(せんかいれい)を解除したが、商船が海に出る禁令は続いていた。鄭氏政権崩壊の翌年、康煕二三年(1684)に展界令(てんかいれい)を発布、民間の海外貿易を許した。海域世界に根ざした海の勢力は姿を消し、東ユーラシアの海は、陸の政権が共同で管理する空間へと姿を変えていた。


 〔2〕交易基調の変化

 16世紀に東シナ海で展開した海上交易の基調は、日本が銀を中国に輸出し、中国から生糸を輸入するというものであった。明朝は日本と直接に交易することを厳禁したために、倭寇が活躍する余地が生まれ、また東南アジアの港市を経由する出会い貿易という迂回路が現れた。ポルトガル入もまた、この交易に参入したのである。
 中国産の良質な生糸が大量に輸入されたことによって、日本国内の養蚕業は打撃を受けて衰退した。京都の西陣織など高級絹織物の原料は、ほぼ完全に輸入生糸に依存するようになった。ところが、一七世紀なかばからこの交易基調に変化が現れる。それは技術的な制約もあって、日本の銀の産出量がしだいに下降し始めたところに起因する。16世紀のように銀を海外に垂れ流すということは、許されなくなってきたのである。

  〔日本の銀経済と通貨体制〕

 江戸幕府という統一政権のもとで通貨体制が整うに従い、国内の経済を運営するためにも、銀を確保する必要が生じた。幕府は国内の銀通貨を鋳造する原料を確保するため、1609年に純度が高く品位が一定な灰吹き銀を禁輸品に指定した。しかし、灰吹き銀は密輸のかたちで持ち出された。こうした状況への対処は。徳川家康の時期から懸案とはなっていたが、本格的に交易そのものを統制できる条件が整ったのは、徳川家光の統治期にあたる1630年代である。実際に採られた政策は、日本統一の理念を確立するために幕府が進めたキリスト教徒への禁圧とも歩調を合わせて進められた。
 幕府にとっての課題は、キリスト教宣教師との関係を断ち切れないポルトガル商船の扱いであった。イエズス会は16世紀後半から、中国と日本における布教活動に必要不可欠な資金を獲得するために、中国で生糸を買い付けてマカオから日本に向かうポルトガル船に投資していた。マテオ=リッチはその著作のなかで、1603年にマカオ港内で日本に向けて出港を準備していたポルトガル船が、3隻のオランダ船に掠奪され、イエズス会は多額の損害を受けたと記している。
 ポルトガル商人からすれば、イエズス会は欠かせない投資者であり、日本における商売の障害になるからといって、関係を断ち切ることは不可能であったのである。キリスト教宣教師と結びついたポルトガル商人を交易から排除することは、幕府の課題となった。しかし、ポルトガル人を退去させたあと日本が必要とする生糸をどのように入手するか、これが幕府を悩ませた。
 ポルトガル人に代わるものとして浮上したものが、オランダ人であった。一時期中断していたオランダ人との関係が1632年に再開されたとき、オランダ人は幕府と交渉する権利を失い、将軍から温情として交易を認められた存在になる。オランダ商館長は、その恩恵に謝意を表すため翌33年から江戸に赴くことが恒例となった。オランダ人は幕府にとって扱いやすい存在と考えられた。
平戸や坊津、博多などに来航していた中国商人の船舶は、1635年にすべて幕府直轄地である長崎に集中させられ、互市の場も長崎に限定された。さらに同年に幕府が日本人の海外渡航を禁止し、外国に居住していた日本人の帰国を禁止する。中国産の生糸・絹織物は、海外との交易から退出させられた日本人の商人に代わって、主に中国商人によって担われるようになる。
 多数の中国船は日本に直航するのではなく台湾に寄港し、オランダ商館に売却しようとした。その結果、オランダ人は日本商人から利子を払って銀を借り、中国産品を買い整えて日本に運んだ。この実績は、ポルトガル商船に依存しなくても必要な生糸などを輸入できるとの幕府の判断材料となり、1639年にはポルトガル人の日本からの追放が決定された。さらに41年になると、オランダ人自身が平戸から長崎に移され、出島という限られた空間のなかで管理を受ける立場となった。
 交易ルートが幕府によって統制される体制が整ったとき、鄭芝龍は中国の生糸を直接に長崎に運び始めた。対抗できる勢力がもはや存在しなくなっていたため、鄭は生糸と銀の交易をほぼ独占することが可能となった。穿った見方をするならば、鄭は台湾のオランダ商館を手玉にとって、競争相手となるポルトガル人を日本から排除させたとも考えられる。鄭が生糸の代金として受け取った銀には、幕府が発行する純度80パーセントの慶長銀が含まれる。その品位は幕府が統制し、その鋳造所(銀座)の刻印によって保証されていた。
 台湾に拠るオランダ勢力は、鄭の旗を立てた中国商船に依存しなければ、生糸・絹織物を手に入れることはできない。鄭が配下の商船に台湾に寄港せず、直接に日本に赴くように命じさえすれば、オランダ人の交易量は激減する。案の定、1641年以降、鄭は自分の持ち船を長崎に直航させて莫大な利益を獲得し、台湾で中国産生糸を入手できなくなったオランダ人は、新たな供給地をヴェトナム(トンキン)に求めざるを得なくなる。
・・・中略・・・
 
 〔3〕互市システムの確立

 14世紀から17世紀前半にかけて、東ユーラシアの海域世界では、陸の統制を受けない勢力が入れ替わりながらも存続した。中国に成立した明朝は、王朝を建てた朱元璋が採用した朝貢メカニズムを維持するために海禁政策を行い、民間の交易活動を禁圧した。そのために密貿易を行う勢力が生まれた。嘉靖大倭寇のあと1567年に海禁は解除され、政治的な交渉を行わないという合意のもとで売買を行う互市という交易システムが作られた。
 しかし、日本はこの互市から除外されていた。16世紀における海の交易の基調は、中国の生糸と日本の銀の交換であったため、海域世界では、出会い貿易を行う中国商人や日本商人、あるいはマカオのポルトガル人や台湾のオランダ人などが交易に参入し、互いに抗争した。 抗争は海賊行為として現れる。商船は航行の安全を求めて、17世紀に勃興した鄭氏勢力を支え、鄭芝龍・成功の父子は、海域世界をほぼ完全に掌握することになった。

  〔江戸幕府の貿易管理〕
                        
 17世紀の30年代に、日本の江戸幕府は交易を統制するために、交易を担う人々から政治的な交渉権を奪い、中国との交易ルートを四つに限定し、幕府が統制する体制を確立していく。四つのルートとは、長崎ルート、朝鮮-対馬藩ル-ト、琉球-薩摩藩ル-ト、アイヌ-松前藩ルートである。長崎ルートについては、すでに論じてきた。
 朝鮮-対馬藩ルートは、複雑な政治過程を経て統制が強化された。朝鮮の李朝と日本の江戸幕府とは、互いに相手の国を自国よりも一等下に見なしていた。李朝と徳川政権のあいだに立った対馬藩の宗氏は、その財政基盤が日本と朝鮮のあいたの交易にあるために、やり取りされる国書を改ざんし、往来が途絶しないようにしていた。この一件は1631年に幕府の知るところとなる。幕府はこの事件を契機にして、宗氏が朝鮮との交渉に責任を持ち、それを幕府が管理するという体制を確立する。
 琉球は1609年に九州の島津氏の侵略を受け、その勢力下に組み込まれていた。1633年に琉球王の尚豊(しょうほう)が明朝の皇帝から冊封され、翌34年には島津家の領地として幕府が認めるという事態となる。琉球は中国に対しては独立した王国として朝貢しつつ、薩摩藩の領地に位置づけられることが、このときに明確になったのである。いわゆる琉球の両属と呼ばれるもので、以後、19世紀後半にいたるまで、琉球を苦しめる体制ができあがった。これと似た状況は、アイヌ-松前藩ルートにも認められる。

  〔清朝の貿易管理〕

 中国側では明朝が滅び、清朝の中国支配が完成することで、日本と中国とのあいだの互市が確立する。清朝は毛皮などの交易にもとづいて成長した政権であるために、体質的に明朝に比べて交易を容認する姿勢を持っていた。17世紀なかばに海禁と遷界令を実施し、海域世界を掌握していた鄭氏政権を滅ぼす。その直後に中国の清朝は展界令を発布し、中国の商人が日本に直接に赴くことを許した。こうして日本は初めて、朝貢関係を持たずに中国と互市ができるようになったのである。
 清朝は海外との交易を管理する海関を、江蘇・浙江・福建・広東に置いた。その設置時期と場所について、従来は20世紀に編纂された『清史稿』などにもとづいて、康煕二三年(1684)に、江(江蘇)海関は雲台山(鎮江府丹徒県)、浙(浙江)海関は寧波、閩(びん:福建)海関は厦門(あもい)、粤(えつ:広東)海関はマカオにそれぞれ同時期に置かれたと考えられてきた。ところが最近の研究によると、康煕二三年に閩海関は厦門に、粤海関が広州に置かれ、江海関は翌二四年にまず華亭県(かていけん)に置かれ、康煕二六年に上海に移転され、浙海関は康煕二五年に寧波に置かれたことが明らかにされている。海関では、商船が入港すると船鈔(せんしょう)と呼ばれる入港税と、貨物に課せられる貨税とが徴収された。
 遷界令発布から展界令発布までの23年間、長崎に入港した中国船は毎年二、三十隻であった。その船のなかには鄭氏船のほかに、東南アジアの港市に拠点を持つ中国船、三藩の一つ平南王の尚氏(しょうし)政権が派遣した船舶が含まれる。展界令が発布された翌年には、85隻の船が押し寄せた。中国から日本に直航する商船の数は増加し、康煕二七年(1688)には194隻となった。銀流出に頭を痛めた幕府は、翌年からは長崎来航の中国船を70隻に制限することにした。
 
 〔4〕江戸幕府と中国 ー東南アジアの海域管理体制ー

 日本と中国とのあいだで交易を展開した中国船は、日本では長崎において幕府の統制を受け、中国においては海関で管理された。しかし、江戸幕府と清朝とは外交関係がない。そのために日本が中国に対して、日本に向けて出港する船舶を制限するように要請する交渉ルートは存在していなかった。日本側で来航数が決められると、交易できずに貨物を積んだまま帰帆を命じられた中国船が出てくる。こうした中国船が、しばしば「抜け荷」と呼ばれる密輸を行った。さらに日本から持ち出せる銀の量も上限が決められたため、抜け荷は絶えなかった。
 ただし、この活動は陸の統一政権による交易管理の間隙を縫うものに過ぎず、16世紀の密貿易とは質も量も比べものにならない。鄭氏政権が滅び、陸の政権による海の管理が貫徹され、400年のあいだ存続した東ユーラシアの海域世界は終焉を迎えたのである。
 ・・・・以下省略・・・・2022.02.23


 4. 中国の「海禁」政策と日本の倭寇 -15-16世紀東アジアの海域-
     ① コラム―倭寇と海禁
     ② インタネット情報  
     ・日本大百科全書・小学館「倭寇」の解説
        田中健夫 倭寇の侵略地と根拠地」地図参照
     ・フリー百科事典 ウィキペディアー
        「倭寇」をめぐる論争
        「海禁」 明代と清代の海禁