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ポトシ銀山・メキシコ銀のグローバルヒストリー 
大塚史学と江戸期日本の世界史01 (ek001-10)

ポトシ銀山と大塚史学と江戸期貨幣の世界史2022.05.10
 
 資本論ワールド 編集部

 世界史にリンクした16~18世紀 ー江戸時代の制度的枠組の背景とその基底ー
 ・16~19世紀 西洋(ポルトガルースペインーオランダーイギリスーロシアーアメリカ)
 ・戦国~江戸期の国際環境とグローバル時代の様相発掘史
 ・新大陸ポトシ銀山・メキシコ銀と東インド・中国の連結環

 大塚史学と江戸期日本の背景
  ・江戸期日本研究の基底・原点としての大塚久雄(1907-1996)『近代欧州経済史序説』
  ・ポトシ銀山とオランダ重商主義ー大塚史学と江戸期日本の世界史
  ・銀の世界貿易 南米ポトシ銀山ーマニラ・ガレオン貿易と日本銀・佐渡金山
    ―/―/― 西洋とアジア・中国ー日本の連結環・国際環境の研究。

〔目次〕
 第1部 ポトシ銀山
  第1章 ラテンアメリカ史のポトシ銀山
     ・植民地社会
     ・アガムガム精錬法
     ・貿易制度
     ・マニラーアカプルコ航路
  第2章 ポトシ銀山の銀産出
  第3章 マニラ・ガレオン貿易 ―メキシコ銀の東アジア経済圏


 第2部 大塚史学-『近代欧州経済史序説』と中南米-欧州-東アジア・日本の経済連結環
  第1章 大塚史学の源流としての『近代欧州経済序説』
  第2章 中南米-欧州ルート
  第3章 欧州-東アジア・日本ルート
  第4章
 第3部 
  第1章 江戸期金属貨幣-銀と銅の海外貿易関連-荻原重秀と田沼意次・田沼時代
  第2章 オランダ東インド会社と出島商館の中国-日本の中継貿易


トポシ銀山と大塚史学と江戸期貨幣の世界史2022.05.10

 資本論ワールド 編集部
 はじめに
 解説と抄録


 第1部 ポトシ銀山 

   国本伊代『概説ラテンアメリカ史新評論1992年初版.2001年改訂

  第1章 ラテンアメリカのポトシ銀山

  1 旧世界と新世界の「出会い」の歴史的意義p33

1-1. コロンブスによって新大陸が「発見」された時にはじまったヨーロッパ世界と新世界との「出会い」は、双方に大きな衝撃と変化を与えた。エル・ドラード(黄金郷)を求めてつぎつぎに渡来してきたイベリア半島出身の征服者たちは、山脈を横断し、熱帯雨林を踏破し、荒涼とした砂漠を越え、危険な未知の世界の探検にひるむことなく挑んだ。その結果、コロンブスの到来から1世紀も経たぬうちに、北は現在のアメリカ合衆国の南西部から南はチリにいたる広大な地域が、スペインとポルトガルの植民地となった。
 ヨーロッパ人の到来は、新大陸の住民にとって文明の破壊を意味した。ヨーロッパ人は先住民の文化を徹底的に破壊しただけでなく、新大陸の住民を奴隷のように酷使し、その人口を激減させた。カリブ海域では、コロンブスがはじめて到来した1492年頃、約300万人が生活していたが、約30年間でその数は10数万人にまで激減したと推計されている。アステカ王国が支配していたメキシコ中央部は、スペイン人到来直前には約2500万の人口を有していたと推定されている。しかし征服から100年後の1625年頃には、その人口はわずか100万にまで激減した。一方、インカ帝国が栄えていた中央アンデス地域は約1200万の人口を擁していたと推定されているが、スペイン人による征服から約半世紀後には5分の1にまで減少していた。
 これらの人口推定値には、研究者によって実際にかなりの幅がある。しかしいずれにしても、先住民の人口が激減したのは確かであった。その結果、征服者たちに続いて新大陸に移住してきたイベリア半島人たちは比較的自由に都市を建設することができ、また一部を除いた広大な土地を大きな抵抗を受けることなく占拠することができた。そしてヨーロッパから動植物を移植し、新大陸にイベリア世界の風土と景観に似せたラテンアメリカ世界を出現させたのである。


1-2. 新大陸は、ヨーロッパの文化と技術の移植によって大きく変化した。新大陸文明が知らなかった車輪、実用金属としての青銅と鉄、新大陸に生息していなかった牛・馬・山羊・羊・ロバ・豚などの家畜がもち込まれた。また小麦・ライ麦・コメ・サトウキビ・コーヒーなどが移植された。やがて植民地統治体制が確立して、王権の支配する植民地時代が約300年にわたって続くことになり、新大陸は拡大したヨーロッパ世界の一隅に位置することになった。メキシコの著名な歴史学者オゴルマンはその著書『アメリカの発明』(邦訳あり)の中で、アメリカ世界はコロンブスによって「発見」された新世界ではなく、ヨーロッパ人によって「発明された世界」であると述べたが、今日ラテンアメリカと呼ばれる地域は、まさにコロンブスの到来後スペイン人とポルトガル人を中心とするヨーロッパ人が創りあげた新しい世界となったのである。
 しかし旧世界と新世界の「出会い」は、新世界にのみ衝撃を与え、変化させたわけではない。ヨーロッパ世界もまた、新世界から多くの影響を受けた。まず物資的面からみると、それまでヨーロッパ世界が知らなかったトウモロコシ・ジャガイモ・サツマイモ・トマト・ヒョウタン・トウガラシ・カボチャ・パイナップル・パパイヤ・ピーナツ・タバコなどの栽培植物が新世界からもち込まれた。なかでもジャガイモは、ヨーロッパの食糧危機を救ったことで有名である。タバコとココアやチョコレートの原料となるカカオがヨーロッパに紹介され、新しい嗜好品として広がった。アメリカ大陸からヨーロッパへ流出した金・銀の影響については、16世紀のヨーロッパで引き起こされた「価格革命」がよく知られている。スペインに送られた莫大な銀はヨーロッパ諸国に流出し、各国の貨幣価値を下落させ、物価を3倍から5倍にも上昇させた。またアメリカ大陸での需要がヨーロッパのさまざまな産業を成長させ、イギリスの産業革命を引き起こす一つの刺激ともなった。
 新大陸がヨーロッパに与えた影響は物資的なものだけではなかった。未知の大陸が発見され、地球球体説が実証されると、キリスト教世界で描かれていた地球観や宇宙観を動揺させ、科学的かつ合理的にものごとを理解しようとする考え方が現われた。ルネッサンスの科学的精神の発達ともあいまって、精神界もまた中世からの離脱を遂げる契機となったのである。未知の人間集団との接触は、人間の本性に関する思想的衝撃として一大論争を引き起こした。またヨーロッパの将来に不安をもつ知識人の中には、新大陸にユートピア社会の建設を夢見る人々も現われ、人類のあり方を思索する大きな契機を与えた。p35



 3 スペイン人による新大陸の征服

 3-1. 征服とは何かp46

 イベリア半島からアメリカ大陸への旅は、当時は大冒険だった。しかしコロンブスがアジアへの新航路を発見したというニュースは、多くの人々の冒険心を煽りたて、未知の世界の探検に旅立たせた。コロンブスが新大陸からスペイン王室に届けた黄金と先住民などの獲得物が人々に一獲千金の夢を掻き立てたからである。探検隊が組織され、探検に要する費用が募られた。すでに述べたように、コロンブスの最初の探検に投資したのはスペイン王室であった。数多くの探検隊が新大陸の各地に向かって出かけ、多くの人々が何らかの資本を持参して参加した。資本のないものは体をはって参加した。このように征服は、個々の人間にとっては一獲千金を狙う投機にも等しい大事業であった。したがって、征服者たちが「投資」に見合う成果を獲得するまで貪欲に行動したとしても当然であった。それでは、征服者と呼ばれた人々は一般にどのような人たちだったのだろうか。
 のちに征服者と呼ばれたイベリア半島の人たちは、大多数が過剰人口と窮乏する祖国を脱出した貧しい人々であった。スペインではちょうどグラナダが陥落し(1492)、8世紀にわたった国土回復戦争が終結した直後で、多くの失業兵士が溢れていた。また農業の不振は、祖国の大地に未練をもたない人々を新しい世界へ駆り立てた。彼らの多くは、身も心も貧しかった。一獲千金を狙って新大陸に向かい、黄金郷を発見して故郷に錦を飾って帰ることを夢見たのである。
 しかし彼らの大多数は、夢を実現することはなかった。莫大な黄金を手に入れたものたちの多くも、長い歳月をかけてやっと実現したのである。メキシコを征服したコルテスが新世界へ旅立ったのは19歳の時であったが、アステカ王国征服への旅立ちはそれから15年もあとのことであり、コルテスは34歳になっていた。同じくペルーを征服したピサロが大西洋をはじめて渡ったのは彼が22歳の時であったが、インカ帝国を征服した時には50歳になっていた。
 未知の世界に踏み込んだこれらの征服者たちも、アステカ王国やインカ帝国征服時代には、応分の分け前を手にすることができた。しかしのちに述べるように、征服者たちの命をかけた事業は、やがて王室の植民地経営事業へと変わり、征服者たちは王権に管理される身となった。国王とカトリック教会が個々人の切り拓いた新世界に征服者の後から進出し、彼らの功績を奪ったのである。多くの探検隊には書記と伝道師が同行した。時代を経るにつれて王室の役人も探検隊に同行し、征服者たちの行動を監視した。一方、征服者たちは遠征隊付きの公証人にこと細かに記録させ、国王の認可を求める手続きをすばやくとるための準備を怠らなかった。国王と征服者たちは新大陸の富の配分をめぐって、厳しく牽制しあったのである。・・・以下省略・・・・



 第2章 イベリア国家による植民地統治と開発

 2 植民地社会の形成
   鉱山開発と銀ブーム p72

 黄金を求めて内陸部を探検したスペイン人たちは、新大陸でさまざまな鉱山資源を発見し、開発したことで知られている。金・銀鉱脈のほかに、16世紀には銅がチリとベネズエラで、硝石が南アメリカ大陸太平洋岸のアタカマ砂漠で発見され、それらの開発がはじまっている。しかし新大陸が生み出した富の中心は金と銀であって。はじめは金の産出が銀を上回ったが、16世紀半ばにつぎつぎと有力な銀鉱脈が発見され、のち約1世紀にわたる銀ブームが出現した。この時期のブームは第1次鉱山ブームで、その後いったんブームが衰退したのち18世紀に再び鉱山開発が隆盛を極めたが、これを第2次鉱山ブームと呼んでいる。
 16世紀の銀ブームは、1545年にペルー副王領のアンデス山岳地帯に位置するポトシで発見された銀鉱脈の開発ではじまった。ヌエバ・エスパーニヤ副王領では、サカテカス(1546)、グアナフアト(1550)、サンルイスポトシ(1555)、パチュカ(1555)で豊かな鉱脈が発見された。その結果、鉱山開発は植民地経済の最も重要な部門として、経済活動のみならず植民地社会の形成にも大きな影響を与えた。
 植民地時代には、鉱産物は王権の所有物であった。貴金属の鉱脈が発見されると、その採掘権が国王より発見者に与えられ、その代償として鉱山経営者は生産額の20%をキントと呼ばれた5分の1税として王室に納めた。鉱脈は一般的に内陸部の奥地で発見されたので、労働力を遠隔地から導入しなければならなかった。労働力は、主としてレパルティミェントと呼ばれた、強制労働徴用制度によって村々から調達された。アンデス地域ではインカ時代に存在していたミタと呼ばれる労働力の徴用制度がそのまま活用された。黒人奴隷も鉱山に投入されたが、一般に黒人は鉱山労働者としては肉体的に不向きであり、インディオが鉱山労働者の中心となった。しかし労働力不足から鉱山における賃金は比較的高かっかため、自由労働者の流入がかなり早くからみられた。



 ポトシ銀山と水銀アマルガム精錬法

 鉱山開発に伴って、労働力や食糧を供給するために新たな地域社会が鉱山を中心にして形成された。鉱山の周辺に食糧供給のためのアジェンダが拓かれ、銀を輸送するための道路がつくられ、交通の要所に宿場町ができた。鉱山町は活況を呈した。新大陸で最大の銀鉱の町となったポトシは、その最盛期の17世紀はじめには、人口が16万を数える新大陸最大の都市となっていた。当時の副王庁所在地のメキシコ市やリマが数万人の都市であったことを考えると、標高3900メートルの高地に出現したポトシがどれほど銀ブームに沸く鉱山都市であったかが想像できよう。
 ポトシの銀鉱脈はセロ・リコと名づけられた標高4000メートルを越える山に集中していたが、坑道を山腹に水平や斜めに掘り進むことができたため、浸水の問題が比較的少ない、採掘条件に恵まれた鉱山であった。1571年に完成された銀を鉱石から分離する水銀アマルガム精錬法は、銀ブームに拍車をかけた。はじめ水銀はヨーロッパから輸入されたが、ポトシから約1200キロ離れたアンデス山中のワンカペリカで水銀が発見され、ポトシの鉱山開発はいっそう進展した。1570年から1620年にかけてポトシが産出した銀は、世界全体の銀生産量の約半分に達した。
 新大陸の銀の一部は域内の通貨として新大陸に残ったが、残りのほとんどは銀塊にされてスペイン本国に移送された。
その莫大な量はスペインの物価を急上昇させただけでなく、ヨーロッパ全域に価格革命をもたらしたほどであった。新大陸からスペインに送られた銀の大半はスペイン本国の輸入の支払いや借金返済などのために国外に流出した。その量は莫大な額に達し、ヨーロッパでは17世紀はじめまでに物価が2倍から5倍にも上昇した。




  貿易制度〔新大陸の重商主義政策〕
 
 スペインは、本国と植民地との間の交流を厳しく管理しながら、重商主義政策をとった。重商主義政策とは国内の産業を保護・育成しながら国際貿易によって国富を形成する商業主義政策のことであるが、スペインの場合には植民地における生産活動が本国の産業と競合しないよう特定の産業を禁正し、貿易を独占することによって植民地から富を収奪する制度であった。もっともスペインの工業生産力は、当時、非常に弱かったので、新大陸に輸出された工業製品のほとんどはヨーロッパの他の地域から輸人したものの再輸出であった。
 新大陸との貿易は、フロタ制と呼ばれる護衛艦隊つきの船団を組んだ商船隊によって行なわれた。フロタ制はスペインが行なってきた北ヨーロッパとの羊毛貿易の先例に習ったもので、外国の攻撃から貿易船の航行を防衛するために軍隊が商船隊を護衛した。新大陸貿易の場合、セビーリヤ(のちカディス)港から植民地の港へ向けて大船団が年に2回、春と夏に出発し、復路にはしばしば合流して一大船団となつてスペインに戻った。
 4月から5月にかけてセビーリヤ(のちカディス)を出港しメキシコに向かう船団はフロタと呼ばれた。8月に出港し大陸部のカリブ海沿岸に向かった船団はガレオンと呼ばれ、カリブ海のサントドミンゴに寄ったのちパナマ地峡のポルトベーリョを目指した。スペインを出発し大西洋を横断した大船団は、それぞれ数十隻から成り、図12でみるような航路を通って目的地に向かった。帰路はフロタもガレオンもハバナに寄港した。カディスに戻るのはフロタが翌年の1月に、またガレオンは2月に予定されていたが、フロタとガレオンがハバナで合流して、大船団を組んで戻る場合もあった。このようにして新大陸と本国の交易は、本国ではセビーリヤ(のちカディス)に、アメリカ大陸ではベラクルスとポルトベーリョおよびカルタヘナに貿易港が限定されていた。
 ベラクルスに陸揚げされた物品は、陸路でメキシコ市を経由して内陸部および中央アメリカの各地へ送られた。一方、カルタヘナに陸揚げされた物品は、陸路でサンタフエ・デ・ボゴタやカラカスへ運ばれた。ポルトペーリョに降ろされた物資は陸路でパナマまで運ばれ、そこから再び海路リマヘ輸送され、さらにリマから陸路でアンデス山地帯へ、また海路でチリ総監領へ、そしてさらに陸路で内陸部の各地に送られた。したがってメキシコ市とリマから遠隔の地にある辺境の地では、ヨーロッパからの輸入品を手に入れることは難しく、また高価であった。

 マニラ―アカプルコ航路

 太平洋のスペイン領フィリピンとアメリカ大陸間の貿易は、同じくマニラとアカプルコ間に限定されて行なわれた。年に一度、時代により異なったが、だいたい2隻以上のガレオン船が船団を組んで太平洋を横断した。マニラ・ガレオン貿易はフィリピンを中継基地とする中継貿易で、マニラに運び込まれた中国の絹や陶器など貴重な東洋の物産が大量のメキシコ銀と引き換えにアカプルコを経由してアメリカ大陸の各地にもち込まれた。
 〔フィリピン・ガレオン貿易については、第3章・・・・〕
・・・以下省略・・・・



 第1部 ポトシ銀山
  第2章 ポトシ銀山の銀産出

 資本論ワールド 編集部
 

2022.05.12
..............................
 植民地時代には、鉱産物は王権の所有物であった。貴金属の鉱脈が発見されると、その採掘権が国王より発見者に与えられ、その代償として鉱山経営者は生産額の20%をキントと呼ばれた5分の1税として王室に納めた。

新大陸の銀の一部は域内の通貨として新大陸に残ったが、残りのほとんどは銀塊にされてスペイン本国に移送された。
その莫大な量はスペインの物価を急上昇させただけでなく、ヨーロッパ全域に価格革命をもたらしたほどであった。
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 ポトシ銀山と大塚史学ー東アジア経済圏
 東アジアと江戸期日本の経済圏
 

   青木康征 『南米ポトシ銀山』 中央公論社2000年発行 
        ―スペイン帝国を支えた”打出の小槌”


 『南米ポトシ銀山』抄録
 〔目次〕
 第1章  インディアスの略奪
 第2章  セビリアに流入する貴金属
 第3章  ポトシ銀山
      ・銀の産出額
      ・水銀アマルガム法 導入
 第8章  ミタ労働と水銀アマルガム法
      ・水銀アマルガム法
 第11章 ミタ労働の終焉
      ・好況へ向かうポトシ
 第12章 流出する銀
      ・ガレオン貿易
       アカプルコーマニラ航路

 ................................................


 *『南米ポトシ銀山

 第2章 セビリアに流入する貴金属

 コルテスによるアステカ王国の征服後、スペイン人の活動舞台は大陸へ移る。とともにセビリアに流入する貴金属は、重量では銀が金を上回る。しかし、16世紀を通して金と銀の比価はおおむね1対11であったため、金額のうえでも銀が金を上回るのは1560年以降である。

  カルロス五世の時代の流入額

 新大陸からヨーロッパに流入した貴金属に関する研究でいまなお光を失わないのがE・J・ハミルトンの『新大陸の貴金属とスペインにおける価格革命― 1501―1650年』(1934年刊)である。同書によれば、カルロス五世の時代にあたる1516年から1555年までにセビリアに流入した貴金属の総額は約4650万ペソであった。そのなかで王室向けは約1380万ペソ、全体の約30%を占めた(表1、表2)。
 1530年代中ごろに流入額が急増しているのはインカ帝国の財宝が到着したためであり、1540年代後半以降の増加がいちじるしいのは、メキシコやペルーで銀山の開発が本格化したためである。1520年まではエスパニョーラ島、プエルトリコ島、キューバ島などのカリブ海諸島が金塊を送り出した。1521年からはメキシコが貴金属の全量を、1533年以降はペルーがメキシコを上回る量の貴金属をセビリアヘ送り出した。

 フェリペニ世の時代の流入額

 1556年以降にセビリアに到着した貴金属については、前述のハミルトンのほかにも本格的な研究成果がいくつか発表されている。そのひとつ、スペインの研究者であるE・ロレンツ・ザンス著『フェリペ2世時代の新大陸貿易』(1980年刊)による数値もハミルトンの数値とともに紹介しておく。サソスによれば、1556年から1600年までの流入総額は約2億8240万ペソ、王室向けが約8500万ペソ(全体の約30%)、民間向けが約2億ペソであった(表3)。これらの貴金属の38%がメキシコから、60%がペルーから、残る2%がカリブ海諸島から送り出された。p.23
・・・・・・・・・・・・・


 【参照資料】 
   『南米ポトシ銀山』
 表2 セビリアに流入した貴金属 [1521-55](万ペソ) 
  年 王室向け 民間向け   合計   年  銀(トン)  金(トン)
1521ー25     5.8    16.4    22.2 1521ー30   0.1  4.9
1526ー30   45.0   126.8   171.8
1531ー35   71.5   201.5   273.0 1531ー40  86.2  14.5
1536ー40   223.5   428.0   651.5
1541ー45   125.4   694.2   819.6 1541ー50  177.6  25.0
1546ー50   263.5   647.9   911.4
1551ー55   600.3  1,031.9   1,632.2
合計  1,335.0   3,146.7  4,481.7  263.9  45.4
 [E.J.Hamilton:op.cit., p.34より作成]

  表3 セビリアに流入した貴金属 [1556-1600](万ペソ)
 王室向け  民間向け   合計  [サンス]
1556ー60   259.5  1,063.9  1,323.4  1,427.4
1561ー65   301.0  1,854.2  1,854.2  1,854.9
1566ー70   626.2  2,339.6  2,339.6  2,357.9
1571ー75   545.7  1,969.8  1,969.8  1,958.3
1576ー80  1,100.1  2,854.2  2,854.2  2,716.4
1581ー85  1,249.2  4,859.8  4,859.8  4,878.0
1586ー90  1,330.7  3,942.9  3,942.9  3,681.9
1591ー95  1,658.3  5,821.1  5,821.1  4,539.0
1596ー1600   1,815.6   5,695.9  5,695.9  4,824.2
 計  8,886.3  30,660.9  30,660.9  28,238.0
 [E.J.Hamilton:op.cit., p.34;E.L.Sanz:Comercio de Espana con
 Indias...,tomoⅡ,p.255より作成]

 表5 5分の1税の納入額       表6 5分の1税の納入額
    [1549-1600](万ペソ)      [1566-92](万ペソ)
  年 平均納入額 .
.
  年 納入額
1549 (1) ・・・・  23.5  1566  ・・・・  49.9
1550 ・・・・  66.4  1567 ・・・・・  43.0
1551ー55 ・・・・  50.0  1568 ・・・・・  41.0
1556ー60 ・・・・  42.5  1569 ・・・・・  39.4
1561ー65 ・・・・  45.0  1570 ・・・・・  34.0
1566ー70 ・・・・  41.5  1571 ・・・・・  24.4
1571ー75 ・・・・  29.2  1572 ・・・・・  20.9
1576ー80 ・・・・  89.5  1573 ・・・・・  25.6
1581ー85 ・・・・ 135.1  1574 ・・・・・  32.7
1586ー90 ・・・・ 134.9  1575 ・・・・・  42.6
1591-95 ・・・・ 157.3  1576 ・・・・・  55.6
1596-1600 ・・・・ 138.7  1577 ・・・・・  73.9
 1580 ・・・・・ 121.7
(1)7月19日から12月30日までの分。  1585 ・・・・・ 136.2
[P.J.Bakewell:Registered silver  1590 ・・・・・ 143.9
 production...,pp.92-93より作成]  1592 ・・・・・ 164.6
                  [P.J.Bakewell:op.cit.,pp.93-94より作成]

 表12 5分の1税の納入額    表13 5分の1税の納入額 
   [1601-1700](万ペソ)     [1701-89](万ペソ)
     
  年 歳入額(平均)   年  歳入額(平均)
1601-05 ・・・・125.0 1701ー05  ・・・・ 35.3
1606ー-10 ・・・・129.4 1706ー10 ・・・・ 35.5
1611ー-15 ・・・・131.7 1711ー15 ・・・・ 20.0
1616ー-20 ・・・・114.0 1711ー15 ・・・・ 20.0
1621ー-25 ・・・・110.2 1721ー25 ・・・・ 23.3
1626ー-30 ・・・・106.8 1726ー30 ・・・・ 31.6
1631ー-35 ・・・・101.6 1731ー35 ・・・・ 29.6
1636ー-40 ・・・・120.7 1736ー40 ・・・・ 19.5
1641ー-45 ・・・・ 92.9 1741ー45 ・・・・ 20.6
1646ー-50 ・・・・ 99.1 1746ー50 ・・・・ 25.2
1651ー-55 ・・・・ 80.3 1751ー55 ・・・・ 29.4
1656ー-60 ・・・・ 83.2 1756ー60 ・・・・ 32.3
1661ー-65 ・・・・ 63.3 1761ー65 ・・・・ 33.6
1666ー-70 ・・・・ 66.6 1766ー70 ・・・・ 37.0
1671ー-75 ・・・・ 65.8 1771ー75 ・・・・ 39.1
1676ー-80 ・・・・ 60.8 1776ー80 ・・・・ 45.9
1681ー-85 ・・・・ 69.6 1781ー89 ・・・・ 44.9
1686ー-90 ・・・・ 63.7 1786ー89 ・・・・ 45.0
1691ー-95 ・・・・ 55.1
1696ー-1700  ・・・・ 46.0
 [P.J.Bakewell:op.cit.,pp.93-94より作成]



  ポトシ銀山 銀の産出額 p.37

 ヤミに消えた銀は別にして、ここでは1545年から1600年までを3期におけて銀の産出額を見る。
 アメリカ人研究者P・J・ベイクウェルによれば、この期間にポトシ財務局に納入された5分の1税とコボス税の合計(以下、5分の1税とする)の年平均額は表5のとおりである。

 〔第1期〕 1545年から1555年まで。ポトシの草創期で、カルロス五世の治世である。ポトシに財務局が設置されるのは1550年である。それ以前の産出額を知るのは難しいが、参考になるデータはいくつかある。そのひとつ、ゴンサロ・ピサロの反乱が終結したあとの1549年7月、ポトシから銀の延べ棒3771本がセビリアヘ向けて発送された。この輸送作戦には2000頭のリャマと1000人のインディオが動員されたといわれる。また、ポトシ財務官エルナンド・デ・アルバラドによれば、1548年6月23日から1550年6月3日までの5分の1税の徴収額は合計74万9845ペソであった。
 ペイクウェルの計算では、1549年7月から1555年までの5分の1税の徴収総額は約340万ペソである。ハリングは1552年から1555年までの徴収額を年平均44万ペソと計算している。

 〔第二期〕 1556年から1572年まで。フェリペニ世の治世の前半にあたり、第1次銀ブーム(1549-50年)と1573年以降の急上昇期にはさまれた時期である。
 1550年代になると、それまで露天掘りで採掘していた高品位の鉱石が枯渇しはじめ、地中深く掘り進まなければならなくなった。山での労働条件が厳しくなるわりに、収入が増えなかった。その結果、稼ぎどころとしてのポトシの魅力は薄れ、イソディオ・バラのポトシ離れがめだつようになる。
 1561年にポトシを査察したラプラタ聴訴院議長ファン・デ・マティエンソは、フェリペニ世に宛てた同年10月20日付けの書翰のなかで、ポトシのインディオ人口が減少している事実を確認したうえ、2万人を超すインディオのなかで実際に山に入っているのは300人そこそこで、あとはローソクやパンを作ったり、果物や食料品を商って暮らしていると報告している。ラプラタ聴訴院も1563年2月、ヤナコナが家族を連れて山を離れ、ポトシに食料を供給する農園などへ移動していると本国に報告している。
 1566年、タカナ・リカは枯渇し、ポトシから活気が消えた。ポトシの低迷はグアイラの数にも表れている。アコスタによれば、当初6000基あったグアイラは1000-2000基に減少した。ポトシの製錬業者―アソゲロと呼ばれる―のひとり、ルイス・カポチェは1585年に著した『帝国町ポトシ記』のなかで、ポトシには一時期6497基のグアイラが使用されていたが、いまでは見る影もないほどすたれていると述べている。鉱脈を掘るヤナコナ=インディオ・バラがポトシを去り、銀を溶解するグアイラの数が減少すれば、当然、銀の抽出量も税収も落ち込む。
 地表近くの鉱床から採掘された夕カナ・リカの場合、鉱石1キンタル(46キログラム)あたり80―90マルコの銀が溶け出た。しかし、1574年当時、同じ1キソタルの鉱石から得られる銀は八-九マルコで、かつての1割にすぎなかった。山の麓には銀の含有量が乏しい屑鉱石がうず高く積み上げられていた。この屑鉱石の山が、水銀アマルガム法で銀を抽出する際、生産費ゼロの原材料として活用される。

 第三期〕 水銀アマルガム法 導入
 ベイクウェルによれば、ポトシ財務局への5分の1税の納入額は1572年に大底を打ったあと、ほぼ一本調子で増加し、ピークを迎える1592年には160万ペソを優に超えた。これは1572年の7.9倍に相当する(表6)。
 銀の産出量が急増した最大の理由は、技術面では1572年から導入されはじめた水銀アマルガム法にあり、労務面では1573年から実施されたミタ労働にある。ほかに、1563年にウアンカペリカ水銀鉱山が発見されたことや、水銀アマルガム法の導入に必要な製錬所、ダム、導水路などを建設するために300万ペソにのぼる大規模な設備投資がおこなわれたことも見逃すことができない。こうして、鉱石水銀アマルガム法ウアンカベリカ水銀鉱山ミタ労働設備投資銀の大増産という式が成立した。これら一連のポトシ再生策を果敢に推進したのが第5代ペルー副王フラソシスコ・デ・トレド(在任1569-80年)である。
 しかし、ポトシの再生とその後の急成長も副王トレドが突如、無から生み出したものではない。それまでのインディオ政策の歩みのなかで、とりわけ、インディオ労働をめぐる紆余曲折のなかで道がつけられてきたものが、副王トレドの行政手腕によって結実したと解すべきである。つぎからの章では、本書の主題であるミタ労働がポトシに導入されるまでの道のりをふりかえることにしよう。p.41

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  〔アマルガム法〕 2022.05.12
 水銀アマルガム法は、セビリア生まれのスペイン人バルトメロ・デ・メディーナが1555年のはじめ、メキシコのバチュカで完成させた銀の抽出法。混汞(こんこう)法とも。金,銀が水銀とアマルガム(水銀とほかの金属との合金)をつくりやすいことを利用した製錬法。鉱石を水銀とともに粉砕してアマルガムを形成させ,表面をアマルガム化した銅板上を流すと,金・銀アマルガムが捕集される。のち水銀を蒸留で除く。実収率が低く現在は行われない。
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  水銀アマルガム法ー銀抽出の工程p.115

 近代ヨーロッパの冶金技術を知るうえでG・アグリコラの『冶金術』1555年刊)が有名であるが、これに匹敵するのがポトシの司祭であったアルバロ・アロンソン・バルバ神父が著した『金属術』(1636年脱稿、1640年刊)である。同書には水銀アマルガム法による銀の抽出法とその技術改良の過程があますところなく説明されている。
 水銀アマルガム法では、およそ、つぎのような工程を経て銀を分離・抽出する。
(1)鉱石をハンマーで砕き、銀の含有度の高い部分を選別する、(2)水車を回し、先端に四角形の鉄を付けた木柱を持ち上げては落下させて鉱石を粉砕する、(3)粉砕された鉱石の粉を簡にかけたあと、石畳の中庭(パティオ)に敷くか、木製もしくは石の容器に移し、塩水と水銀を加える、(4)泥状になるまでよく攪拌し、水銀アマルガムを作る、(5)水流で泥を洗い出し、沈澱する水銀アマルガムを抽出する、(6)水銀アマルガムを布でくるみ、水分をとる、(7)水銀アマルガムを加熱して銀を分離する。
 メディーナやベラスコが完成させた水銀アマルガム法の利点は、鉱石を粉にすることによって低品位の鉱石からも銀が抽出できることにある。常温で水銀アマルガムを作れば燃料は不要で、非熟練者でも作業にあたることができた。
 水銀アマルガム法の問題点としては、銀の抽出に不可欠な水銀が安価で安定して供給されるかどうか、粉塵や水銀による健康被害をいかに防ぐかといったことがある。
 水銀アマルガム法による銀の抽出技術は、19世紀になってシアン化法に代替されるまで、基本的には同じであった。しかし、1575年ごろ、アマルガム化を速めるため、釜を使用する加熱法が考案された。常温ではアマルガム化に2ー3週間を要したが、これを4、5日で終えることができた。また、1580年代には、アマルガム化の工程に鉄分を加えることによって水銀の消費量をそれまでの10分の1程度に節減することができた。なお、加熱用の燃料としてポトシ近辺のイチョ(ナガホハネガヤ)が大量に伐採された。・・・以下省略・・・

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表12 5分の1税の納入額 p.137
[1601-1700](万ペソ)

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表13 5分の1税の納入額 p.165
[1701-89](万ペソ)

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 第11章 ミタ労働の終焉

 ブルボン・スペインもミタ労働を存続させる
 18世紀、スペインの歴史はあらだな時代に入る。国王カルロスニ世は世継ぎがないまま1700年11月に崩御し、フランス王ルイ十四世の孫であるアンジュー侯フィリップが王位に就いた。フェリペ五世(在位1700-46年)である。この王位継承にハプスブルク家のレオポルト一世が異をとなえ、イギリスとオランダが支援した。こうしてはじまった王位継承戦争は1713年のユトレヒト条約をもって終結し、ブルボン・スペインの基礎が固まった。
 フェリペ五世は1718年、リマ聴訴院にたいし、ナポリ出身のペルー副王サント・ブオノ王子(在任1716-20年)が提起したミタ労働の廃止案について審議するよう指示した。審議の過程でいちじ廃止論が優勢になったが、アソゲロ側はミタ労働の存続を求めて製錬所をロックアウトするなどして抵抗し、結局、副王カステルフェルテ侯(在任1724―36年)の時代である1728年、リマ聴訴院は賛成多数でミタ労働の存続を答申した。
 これをうけ、フェリペ五世は1732年10月22日付けでミタ労働を副王トレドが定めた当初の基本にしたがって続けることに決した。ただ、このとき、土地を所有するフォラステロはミタ労働の対象に組み入れられた(実施は一部の地域に限られた)。また、ミタヨの負担を軽減するため、ポトシまでの移動費の半額を出発時に支給することや金納イソディオの廃止、過重労働の禁止、ミンガとして鉱山労働に就くインディオ、黒人、ムラート(白人と黒人の混血)には通常の年貢を免除するなどの措置が講じられた。

  好況へ向かうポトシ

 17世紀末からペルーの港にフランス船がひんぱんに入る。E・タンデテルによれば、1695年から1726年までの期間、マルセイユ港などからマゼラン海峡を周回して太平洋へ向かったフランス船は181隻にのぼり、1701年から1725年までにおよそ5500万ペソ(年平均約220万ペソ)の銀を持ち帰った。これらの銀はすべてポトシの銀で、その40パーセントはポトシ財務局に申告されないヤミの銀塊であったという。
 フランス船との交易は非合法であるが、王位継承戦争のせいでパナマ経由によるヨーロッパ商品の供給が乱れていたため、おおいに歓迎された。ポトシで需要の多い高級衣料や紙の価格は50パーセント近くも値下がりし、商いは活発であった。リマ商人などはフランス商品を少しでも多く買い付けるため、競って銀塊を入手した。
 王室は、ポトシ振興策として、1735年1月28日付けで銀にたいする税率を従来の20パーセントから10パーセントに引き下げた(実施は1736年7月20日から)。銀の抽出に不可欠な水銀の供給についても、1725年以降、アソゲロ組合が支払いを保証する条件で、資金不足に悩むアソゲロヘの水銀の掛け売りに同意した。ウアンカベリカ水銀鉱山1730年代からは生産が伸び、水銀の供給に不安はなかった。加えて、1730年代以降、ポトシとブエノスアイレスの交易も活発になる。ユトレヒト条約でイギリスに認めたアシエント貿易による交易船が入港するほか、ポルトガル領であるブラジルのサクラメント居留地との密貿易も盛んになった。こうして、ポトシは1730年代から1790年代にかけて好況を呈する(表13)。・・・以下省略・・・・

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  第12章 流出する銀

 表14 ペルー副王領における年間歳入と歳出 [1680-1809](万ペソ)
年(平均)  歳入(ポトシを含む
 高地ペルーの分)
 歳出(防衛費)
1680-89   567.7 (251.3)   530.1 (119.3)
1690-99  471.4 (201.3)  462.8 ( 88.0)
1700-09  353.3 (201.1)  386.9 ( 74.8)
1710-19  265.1 (136.7)  249.6 ( 42.4)
1720-29  300.6 ( 95.8)  242.4 ( 60.0)
1730-39  347.3 ( 95.3)  294.6 ( 53.7)
1740-49  256.7 ( 86.4)  319.5 ( 69.8)
1750-59  301.8 (109.6)  335.8 ( 54.5)
1760-69  393.7 (126.5)  414.7 ( 70.6)
1770-79  504.8 (231.8)  533.3 (220.0)
1780-89  844.1 (259.5)  771.4 (318.8)
1790-99  835.5 (298.2)  763.3 (151.7)
1800-09  945.7 (354.9)  849.0 (216.6)
(金額は10年ごとに平均したもの)
[J.J.Tepaske:New World Silver, Castile and the Far East(1590-1750)
H.S.Klein:Las Finanzas americanas del imperio espanol 1680-1809
pp37,38,53-56,67,79,80 より作成]


  リマ財務局の歳入と歳出  p.175

 申告されずにヤミに消えた銀は別にして、ポトシ財務局に持ち込まれた銀のなかで王室の歳入になるのはその20パーセント強にすぎない。この銀は、全量、セビリアヘ向かったと考えてよい。問題は残る80パーセント弱の銀のゆくえである。どのくらいの銀がインディアスに留まり、先住民のために役立てられたのであろうか。この問いに答えるため、逆に、どのくらいの銀がスペイン本国をはじめとするペルーの外へ流出したかを考えてみよう。
 ペルー副王領での王室歳入としては、17世紀中ごろでみれば、つぎのようなものがある。王領地のインディオが納める年貢、保有者未決のまま王室預かりになっているエンコミエンダからの年貢、5分の1税・コボス税・水銀売却益などの鉱山収入、インディアス貿易にかかわる輸出入税(アルモファリファスゴ)、売上税(アルカバラ)、護衛船団負担金(アベリア)、戦費協力金(ウニオン・デ・アルマス)、役人拠金、専売収入、黒人奴隷搬入税、公職売却収入、土地所有改めにともなう登記料(コンポシシオン)、免罪符売り上げなどの教会収入、エンコミエンダ保有3分の1拠金、没収金・罰金収入、借入金・献金収入など。
 王室歳入は領内のおもな経済拠点に配置された地方財務局に納められる。地方財務局は徴収した歳入から管轄地域の統治にかかおる一般行政費を歳出したあと、残金を本局であるリマ財務局に送付した。リマ財務局は各地方財務局から送付された剰余金にリマ財務局のそれを加えて本国に送金した。リマ財務局が所管する一般行政費には王室役人の給与、ウアンカベリカ水銀鉱山で働くミタヨの賃金と水銀の買上げ費(これは水銀売却収入となって回収される)、カリャオ艦隊費、一般防衛費、チリ対策費、修道女給付金、フーロの利払いなどがある。ほかに、外国船が太平洋海域に出没したときな
どは臨時の防衛費が加わった。・・・以下省略・・・・
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 表15 王室歳入となった銀のゆくえ [1591-1749](万ペソ)
    年  ペルーから  
 スペインへ
 メキシコから 
 スペインへ
 メキシコから 
 フィリピンへ(注1)
1591-99     1,995.7    933.3    46.6
1601-09   1,724.9   1,001.6    117.5
1611-19   1,102.5    607.2    254.2
1621-29   1,103.8    578.3    362.1
1631-39   1,657.8    720.1    367.3
1641-49   1,484.8    298.1    220.7
1651-59   1,081.3    433.3    150.8
1661-69    297.4    399.1    138.0
1671-79    208.9    996.7    162.8
1681-89     30.7    477.1    195.2
1691-99    43.2    274.1    166.1
1701-09   165.8    523.4    124.9
1711-19     7.7    781.1    101.1
1721-29   103.4    558.7    133.9
1731-39   142.7    851.0    151.1
1741-49   54.5    532.6    176.2
 合 計  11,205.1   9,965.7   2,868.5
(金額は1年あたりのもの)[H.S.Klein:op.cit,pp.134より作成]
 (注1)
 
16世紀末にはマニラアカプルコリマ(カリャオ港)ポトシをむすぶ商業ルート


  ガレオン貿易

  アカプルコ―マニラ貿易   p.185

 メキシコの太平洋岸とペルーの通航は1536年にはじまる。この年、インカの血をひくマンコ・インカが反乱を起こしてクスコを包囲した。窮地にたったピサロが各地に送った救援要請に応えたのがアステカ王国を征服したエルナン・コルテスで、同年、エルナンド・デ・グリハルバが指揮する救援船をペルーへ派遣した。コルテスはその後もたびたびペルーへ船を送った。商いのためであるが、太平洋の西方海域を探検するねらいもあった。
 ペルーでは、マンコ・インカの反乱が鎮圧されたあとも、ピサロ派とアルマグロ派の抗争やゴンサロ・ピサロの反乱がつづき、政情は落ち着かなかった。が、こうした混乱に一応の終止符がうたれた1550年以降、メキシコとの貿易は軌道に乗った。といっても、リマ商人にとってはパナマ経由のインディアス貿易が基本で、メキシコとの貿易はこれを補完する副次的なものであった。交易船の数は年間4-6隻程度であった(以下、W・ボロウの研究による)。

 1550年代から60年代の前半までポトシの銀生産は堅調で、5分の1税を納めたあとの残りは年平均188万ペソにのぼった。これに未申告の銀が加わる。これらの銀が購買力となってリマやポトシではヨーロッパ商品をはじめとする消費財の需要が高まり、高値で受け入れられた。メキシコからは馬や武具といった軍事用品のほか、肉、砂糖、果樹、ラバ、衣料、各種繊維製品、雑貨などが供給された。その代金としてポトシの銀がアカプルコへ渡った。1560年代には一時的にウアンカベリカ産の水銀が、16世紀末からはブドウ酒もメキシコへ送られた。貿易の規模は1564年ごろで、年間10万一12万ペソであった。このような貿易も1585年に区切りを迎える。アカプルコを介してあたらしく流入する中国商品の需要が増大してゆくなか、旧来のローカル交易は脇役に転じたからである。

 アカプルコとマニラをむすぶ太平洋貿易はガレオン貿易と呼ばれる。マニラからの第一船がアカプルコに入るのは1573年のこと、水銀アマルガム法がポトシに導入され、銀ブームに火がつく直前である。第一船が運んできた中国の絹製品などの一部がペルーに再輸出され、注目を集めた。こうした動きを察知した王室は、セビリア商人の権益を守るため、1579年4月14日付けでフィリピン・ペルー間の直接貿易を禁止した。
 1580年6月にマニラに着任したフィリピン総督ゴンサロ・ロンキーリョ・デ・ペニャローサはこうした禁止令にかまわず、ペルーへの通航を企てた。1580年、2隻の船がペルーへ向かったが、トラブルに見舞われて引き返した。翌1581年、総督はそのなかの一隻をあらためてペルーへ送った。目的はカリャオ港に据え付ける大砲を輸送することであったが、船には中国の絹製品や陶磁器、香辛料、鉄、ロウなどが大量に積み込まれていた。
 王室は1582年6月11日付けでペルーとフィリピンの直接交易をあらためて禁止するとともに、中国商品のペルーでの販売も禁止した。しかし、この禁止令がリマに届いたとき、すべては終了していた。積み荷は完売になり、船は大量の銀を積んでマニラへ向かっていた。
 第7代ペルー副王カニェテ侯も1590年、中国との直接貿易を企てた。副王の考えは、中国商品を積んだ船が年間3-4隻カリャオに入れば、相当額の税収が期待できるうえ、大砲を造るための銅を安価に調達できるということであった。フェリペニ世はこの提案も却下した。しかし、副王は独自に準備を進め、同年12月、フィリピンへ向けて船1隻を送り出した。1500キンタルの銅を買い付けるためであったが、総督ロソキーリョが企てたことと同じく、船には30万ドゥカードを超える銀が積み込まれていた。これらの銀は、副王をはじめ、リマの役人や商人などが出したものである。マニラから絹製品や陶磁器などの中国商品を持ち帰って一儲けする魂胆であった。

 フェリペニ世はアカプルコを経由してペルーの銀が無制限にマニラに流出するのを防ぐため、換言すれば、ペルーをセビリア商人が独占するインディアス貿易の枠内に閉じこめるため、1593年、アカプルコーマニラ間の貿易規模を年間300トンの船舶2隻に限定したうえ、マニラでの商品の買付け額を年間25万ペソ以下、アカプルコからの銀の持ち出し額の上額を年間50万ペソと定めた。しかし、この規則も守られなかった。
 王室によるたび重なる禁止令や制限令にもかかわらず、リマ商人がアカプルコとの交易を拡大させたのは、アカプルコで仕入れる中国商品の価格がパナマ経由の商品に比べて格段に安かったためである。ペルー副王カニェテ侯はフェリペ2世に宛てた1594年4月12日付けの書翰のなかで、「夫が妻の服を仕立てる際、中国産の絹を使えば200レアル(25ペソ)ですむが、カスティーリャ産の絹を使えば200ペソでも追いつかない」と述べ、安価な中国商品をペルーから閉め出すのは「不可能」と報告している。
 セビリア自身、ペルーが求める商品を安定して供給することができなかった。16世紀末から17世紀前半のカリブ海には、インディアスから帰航する財宝船を待ちうける海賊などが横行していた。そのため、セビリア商人は、危険を避けるため、年に一度のフロータス(交易船団)の出航をとりやめることもたびたびあった。
 
  表15 王室歳入となった銀のゆくえ

 そこで、王室はペルーーメキシコ間の交易を一定の範囲内で許可することにした。最終的には1620年3月28日付けの布告で、アカプルコーカリャオ間の年間交易規模を200トンの船舶1隻、ペルーからの銀の持ち出し額を20万ドゥカード(約27万ペソ)に制限し、買い付けるのはメキシコ産の商品に限定した。しかし、それでも法をくぐり抜けて中国商品がペルーに入り続けたため、王室は1631年、セビリア商人の要請に応え、メキシコーペルー間の交易を全面的に禁止した。この禁止令は1634年11月20日付けであらためて発令された。向こう5年間の時限措置であったが、そのまま18世紀初頭まで廃止されなかった。

 中国商品の購入代金としてペルーからアカプルコへ、そして、マニラへ流れた銀の量であるが、1602年のメキシコ市会の報告によれば、アカプルコから毎年500万ペソの銀がマニラへ向かい、1597年にはそれが1200万ペソにのぼったという。H・A・エイサギーレは、マニラへ向かった年間500万ペソのなかの140万から300万ペソはペルーからの銀で、1641年から1660年までに合計4000万ペソの銀がペルーからフィリピンへ流れたと推計している。この推計にしろ、メキシコ市会の報告書にしろ、具体的な統計資料による裏付けはないが、16世紀末にはマニラーアカプルコーリマ(カリャオ港)ーポトシをむすぶ商業ルートができあがっていたこと、そして、このルートを通して相当量の銀が移動したことは確かである(表15)。
 リマにもたらされた中国商品は、おもに、絹織物、陶磁器、銅、鉄などであった。中国産の水銀も買い付ける計画があったが、最後まで実現しなかった。中国商品は、安価な帽子などの一部をのぞけば、そのほとんどすべて、インディオの生活とは関わりのない商品であった。

・・・以下省略・・・・

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 第1部 ポトシ銀山
  第3章 マニラ・ガレオン貿易 ―メキシコ銀の東アジア経済圏


  1571年 銀の大流通と国家統合  岸本美緒編 山川出版社

  目次
 1章 スペインのマニラ建設  平山篤子     
 2章 北虜問題と明帝国
 3章 ムガル帝国の形成と帝都ファトゥフプルの時代
 4章 東地中海のオスマン帝国とヴェネティア人
 5章 宗教戦争と国家統合
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  資本論ワールド編集部
  はじめに
  山川出版社から刊行された シリーズ『歴史の転換期』では、
 「グローバルヒストリーなど世界史を広い視野から多面的に考えようとする動きが活発な今日、最新の学問的な知見を踏まえ、さまざま時期の「世界」を新しい切り口で提示してみたい―」とあります。
 第一に「転換期」ということの意味について
 第二に 世界史的な「共時性」について
 第三に「世界史」とは何か、という問題。

 資本論ワールド編集部では、これまで「江戸時代の資本論」にマッチした数々の題材を提示してきました。この度、徳川幕府の「転換期」と「共時性」について興味深い二つの論文をご紹介できたことに大変喜ばしく感じています。
 ポトシ銀山関連と江戸期日本東アジアの二つで、第6巻「1571年」銀の大流通と国家統合と第7巻「1683年」近世世界の変容に収容された、
 第6巻 岸本美緒編
、平山篤子著「1章 スペインのマニラ建設」(2019年7月発行)、
 第7巻 島田竜登編、島田竜登著「1章 アジア海上貿易の転換」(2018年12月発行)です。

 スペインによる「マニラーアカプルコ航路」の開発とオランダ東インド会社・出島商館のグローバル・ヒストリーは、中国・日本・東アジアの結束点を形成しています。金・銀・銅の三貨制度は、江戸期日本の特許品ではなく、アジア域内貿易の重要商品であり、世界史の「共時性」として戦国ー江戸期の歴史的所産として位置づけられるべきだった――荻原重秀と田沼意次の足跡から”歴史の証明”として明らかとなりました。

 資本論ワールド編集部では、この地歩を起点に ”大塚史学” の伝統を加味して「江戸時代の資本論」の支柱を構成してゆきます。


 第1部 ポトシ銀山
 第3章 マニラ・ガレオン貿易 ―メキシコ銀の東アジア経済圏


  1 「1571年」  〔 マニラ・ガレオン貿易ー中南米アカプルコ 貿易〕


  平山篤子 1 章 スペインのマニラ建設

   視座の転換

1> 1571年は、スペイン人がフィリピン、ルソン島のマニラに植民地政庁を開設、通称「マニラ・ガレオン」の定期運航によってスペイン帝国に接続させた年である。このことが惹起した変化と、その広がりの大きさから「歴史の転換点」としてとらえたい。

 「マニラ・ガレオン」とは、おおむね毎年3月、メキシコのアカプルコ港を出港して、5月にマニラのカビーテ港へ入港、7月にカビーテを出港、12月頃アカプルコに帰還する太平洋航海船団の通称である。
 15世紀末以来、スペインはヨーロッパ内外の多様な地域を支配下におき、「スペイン帝国」を形成してきた。とくに本章の前提となるのは16世紀前夜に始まるイベリア半島とアメリカ大陸の関係確立である。コロンブスが大西洋往還に成功した結果として南北アメリカ大陸という「新世界」が彼らに開かれた。この時は、金銀をできるだけ多くため込むことを国富の増大と考える、いわゆる重金主義の時代であり、他方でカトリック理念によって国家統一を遂げてまもないスペインは他者のカトリック化を国是とする強い使命感をもっていた。スペインは金銀の獲得と「新世界」のカトリック化の双方をめざして、大西洋に海運交通路を設けた。それは「フロータス」「ガレオーネス」と呼ばれた護送定期船団で、運行船舶数は16世紀後半には年間100隻を超えた。これによって「新世界」に多くのヒトを送り込み、司法やカトリック教会の制度移植を進めると同時に、多くのモノを旧大陸に持ち帰り、現在のメキシコやペルーを「スペイン世界」と同期化した。メキシコはヌエバ・エスパーリャ副王領、ペルーはヌエバ・カスティーリャ副王領と呼ばれ、王の「分身(altar ego)」としての副王を中心に周辺地域を含む領域にスペイン王権の支配確立を求めた。とくにメキシコを中心としたヌエバ・エスパーニャ副王領の政治的・経済的確立は、本章の核となるアカプルコ・マニラ間のガレオン船定期運行に必要不可欠な要素である。

2> 話を本題に戻すと、16世紀中期には本国・アメリカ大陸間はすでに太いパイプで接続されていたので、「マニラ・ガレオン」がユーラシア東部海域をアメリカ大陸に接続すると、この3地点の「一元化」に道をつけたといえる。「歴史の転換点」を主題にする本書としては、「一元化」という言葉をあえて使いたい。近距離間の複数の文明がリレー的に相互接続し、その結果として遠隔地間が繋がる従来の世界のあり方とこれは根本的に異なるということを強調したいのである。自分が属する社会は地球規模で展開され、自らの王の差配下にある定期的交通手段で接続されているとの認識をもち、ものごとを地球規模で俯瞰して構想、ヒト・モノ・情報を動かしうるとの世界観に生きるヒトが一定の規模であらわれたと考えられるからである。ヒト・モノ・情報がある閾値を超えて通行し、遠隔地を同期化する力が強く働く世界の始まりともいえるかもしれない。(中略)

3>  だがスペイン帝国のフィリピン領有が惹起した広域にわたる地域間の関係性に注目して、マニラで生起した具体的な現象に焦点を当てるなら異なる様相が浮かび上がり、多様なヒトが自律的に織りなす活気に満ちた世界がみえてくる。話をわかりやすくするために、極力単純化した構図を示してみよう。スペイン人は定期航路設立後、植民地維持経費として「カネ=銀」をマニラに搬入した。この一種普遍的価値をもつモノは瞬く間に周囲の関心を誘発した。とくに中国大陸のヒトの銀への関心は高く、スペイン人が望むものを諸島に積極的に搬入して、その対価として多くの銀を大陸に持ち帰った。だれがこの銀の最終保持者かについて明確な結論はまだ出ていないように思うが、中国・中国東北部に大きな活力を与え、中国・東南アジア間で多くのモノを移動させる力となり、それが歴史を動かすことに大きく関与したことは間違いない。他方スペイン人も、少なくとも彼らがコロンブス以来経験した自他の関係とは非常に異なる関係性をこの海域で知った。征服・支配・金銀の獲得を目論んで入植したはずだったが、この地で進行した事態は大分異なる。とくに重要な点は貴重な銀を使ってでも得たいと思うモノがこの地で潤沢に生産、供給されていたことで、収奪ではなく交換、互恵関係に立ち入ったことだ。それによってアメリカで得た銀が王権の意志に反して本国とは逆方向に向かって流れ始め、いったんできた流れは急増大した。「モノ」とはおもに中国で生産される絹である。絹は新大陸に運ばれると、社会や産業構造に影響を与え、多様な流通経路を拓き、その影響は当然本国にも波及した。これを俯瞰すると、太平洋航路を主軸・背骨として、その両端に自らの利益と危険で流れに関わるヒトと地域の複雑な経絡が形成され、後者は骨につく筋肉のように柔軟に展開・消長し、背骨に依存しつつこれを支えたとみえる。つまり王権の意思から自律的でありながら王権が敷設したマニラ・ガレオンに依存し、他方でこれを安定させた。モノの流れはヒトと情報の流れをつくり、三世界〔スペイン・アメリカ・フィリピン〕平準化の長期軌道に乗せた。この事業はそれに端緒をつけた人々が想像しなかった変化をこの世界にもたらしたというわけだ。
 では、「1571年」のできごとを契機に惹起された現象と、その構造内部の要所を語ることで、なぜこの年が「転換点」と呼べるかを検証してみよう。


    スペイン帝国のフィリピン領有の目的と航路確立

  〔1. 西回り世界の成立:イベリア半島-新大陸・メキシコ・ペルー-マニラ・東アジア・日本
  〔2. スペイン・ポルトガル同君連合:1580-1640〕
  〔3. オランダ東インド会社の銀経済圏 ―ヨーロッパ・アジア間貿易 (第7巻)〕

4> 「1571年」は太平洋世界がスペイン帝国に偶然開かれた年ではない。世界・地球という概念の意識化が導いた結果である。
 時代を始点に戻すと、15世紀末、ヨーロッパのなかで抜群の海運力をもったのはポルトガルとスペインだが、後者の支援を受けたコロンブスの大西洋往還成功は、一足早くアフリカに向かい大西洋で活躍していた前者との衝突・紛争の局面を予想させた。そこで両国はローマ教皇アレキサンデル六世の仲介によって1493年、活動領域分離を協議、翌年ポルトガル側の要求を容れた修正を加えてトルデシリャス条約が成立した。条約は現在のアフリカ西岸、ダカールの西、ベルデ岬諸島から370レグア(約2000キロメートル)、西経46度半あたりを境界線として地球を二分、その東側をポルトガル、西側をスペインの「発見」「植民」行動に委ねるとした。これで西半球での境界線は設定されたが、その裏側、東半球での境界線は概念上のものにすぎず、既成事実の積み上げが重要になってきた。
 ポルトガルは1511年にマラッカを入手しており、この戦略で一歩先んじていたので、一刻も早い「現場」到達がスペイン王たちの世界戦略の懸案事項の一つであった。カルロス王(スペイン王としては一世、神聖ローマ皇帝としては五世)はそのために19年以来立て続けにマゼランやアンドレス・ニーニョらを同海域や太平洋岸探索に向けて派遣し、25年8月にはサンティアゴ騎士団長フライ・ガルシア・デ・ロアイサに8隻の船団を委ね、スペイン北西端の港ア・コルーニャから出航させた。主任パイロットはエル・カノ。マゼラン隊の生き残りで、フィリピン諸島のセブ島で死亡したマゼランにかわり世界周航を1522年に完成させた人物である。彼はマゼランがとった航路をたどり、南アメリカ大陸最南端のマゼラン海峡を通過、ロアイサ艦隊を太平洋に導いた。・・・・・・

5> 新大陸からフィリピン諸島までは、赤道の南北15度付近に吹く、のちに貿易風と呼ばれる風に乗れば2ヵ月程度で航海できる。だが復路として同経路を逆にたどる海路は存在しなかった。現地住民から得た情報や生存者たちの経験が蓄積されていった点を忘れてはならない。
 1554年王位継承したフェリペニ世もこの問題に関心を示し、ヌエバ・エスパーニャ副王に遠征を命じた。そこで編成されたレガスピ艦隊は、64年にメキシコ、現在のハリスコ州、ナビダーを出航した。同艦隊に乞われて主任パイロットに就いたのがアウグスチノ会士となっていたウルダネタである。船は航海命令書に従いフィリピンに向かい、マゼランゆかりのセブ島に根拠地を構えた。その2ヵ月後にはウルダネタの指揮で復路探索に取りかかり、フィリピン諸島からは台風を日本に運ぶ風に乗り、黒潮をとらえると日本列島仙台沖をかすめて北緯40度あたりまで北上、針路を東にとりカリフォルニアに向かう。メンドシノ岬をみて南下、アカプルコ帰還をはたした。これは以後のマニラ・ガレオンの基本航路となり、帆船時代にも踏襲される。約4ヵ月の同航海の完遂者は幸いにも195名、死者21名。彼らの経験は次航海の安全・安着に不可欠で、彼らの手記は航海情報の集積である。



 マニラ・ガレオン
 〔マニラ‐アカプルコ‐メキシコ銀・トポシ銀〕
・・・・・
6>  定期便運行の主目的は、マニラ行きは兵員や植民地官僚の補給、給与・教会維持費・軍事経費用のペソ銀貨(銀純度93%強、27.468グラム)と個人資産銀貨の輸送である。アカプルコ行きは、搬入された銀貨で購入したモノの運搬である。モノは沈没以外に嵐による水潰かりでの商品価値喪失や敵の強奪などさまざまなリスクに晒されたが、新大陸ではマニラにおける仕入れ値の何倍もの価格がつき、高収益が期待できる投資物件であった。ではだれが投資したのか。「だれでも」といって良いだろう。法律上はフィリピン植民地維持に貢献している同諸島のスペイン人住民が優先権を有した。・・・・・・・・・・・・・・

7> ところで、マカオとマニラを類似の世界ととらえる傾向がある。たしかにヨーロッパ勢力が東アジアに伸ばした橋頭堡的存在という点では類似するが、スペイン王の正式な領土であるマニラに対して、マカオは明・清朝に賃料を支払う租借地である以外に、銀山のあるアメリカ大陸とのあいだを年一回往復するこのガレオン船の存在が両者に決定的差異を与えていた。王権が当ガレオン船で定期的・大量に民間分も含めて資金補給したマニラに対し、マカオは域内交易網の一大拠点で、ゆえに自助的である。ポルトガルはアフリカ大陸から中国にいたる海岸部に西からおもにモザンビーク、ディーウ、グジャラート、ゴア、コチン、コロンボ、ベンガル、マラッカ、テルナテ、ティモール、マカオ、長崎など域内交易拠点を築いた。本国とゴアを結ぶ以外に、この拠点と情報を挺子に域内交易網上でモノを動かして手持ちの銀=カネを増幅させ、再投資する構造である。マカオはこのなかで対華人交易と対日交易の組み合わせで最高益をあげる拠点である。佐久間重男によれば広州で絹を得て日本で販売、日本銀を得て再度広州に持ち込んだ額は1599年から約40年間に5~6000万両(約7000万ペソ)にのぼる。マニラもマカオにとり極めて重要な上得意である。マニラはポルトガル人から主として絹と奴隷を高値で買い上げ、信用力のいるペソ貨即金で支払ったからだ。ポルトガル本国から赴任する役人が示すスペイン人への強い反感とは対照的に、一般にカサードと呼ばれた、マカオに拠点をおく交易者ポルトガル人やポルトガル系の人々はマニラとの良好な関係維持に神経を使った。両者の通行をインディアス法は禁じているが、とくに1583年以来、連綿と継続される。


  2 モノの移動

  移動の始まり 〔銀と生糸、絹織物〕

8> 前節冒頭で述べたように、スペイン人がフィリピン諸島に陣どり、毎年銀を注入したことは、モノをこの地に引き寄せた。食料・生活雑貨・軍需物資・木綿・絹・「奴隷」・真珠・ダイヤモンド・ルビー・肉桂・ピメント・琥珀などが中国・インドーシャムーセイ只ン島・ジャワ島・スマトラ島などから舶載された。冒頭四種以外はいわば贅沢品で最終消費地は新大陸かヨーロッパである。本節では代表的な二つのモノ、銀と絹の移動から「転換点」を検証してみたい。ちなみに、本章で「絹」と記す場合、特記しない限り生糸、絹織物すべてを含む呼称で用いている。

9> 既述のごとく当時のヨーロッパ諸国は金銀を自国に取り込むことを国益と考えており、スペインが新大陸で先住民からの貴金属奪取や強制労働で酷使して貴金属鉱山の開発と採掘に邁進したのもこの政策にある。だが太平洋では銀は西に、絹は東に向かって流れた。つまり銀はスペイン帝国から流出したのである。これに対してスペイン王は1586年「これはスペイン帝国のあり方ではない」と不満を表明した。しかし、いったん太平洋上にできた銀の流れは国王の不満をかき消し、瞬く間に既定事実となった。
 スペイン人はフィリピン植民開始当初、生活維持の手段をほとんどもたなかった。そこに華人が商機を見出した。スペイン人来航以前からこの地にわずかにいた華人が呼び込んだか、彼らの行動に触発されたのか、最短距離の漳州府海澄県月港から出航した華人が食料品・生きた動物・生活雑貨から軍事・造船・船舶運航の必需品まで、売れ行きを見極めながら搬入し始めた。これはスペイン人をカネ(銀)があってもモノに窮する生活から救った。・・・・

10> マニラにモノと労働の大きな市場があり、対価を銀で受け取れることが知れ渡ると、華人は大人数で毎年来港し始めた。明朝では1570年代に広がった税の銀納化(一条鞭法)と銀鉱山のほぼ全面的閉鎖によって銀はいっそう貴重品となっていたが、銀を潤沢にもつスペイン人は銀の購買力にあまり頓着しないので、華人は自己の相場よりはるかに高くマニラではモノが売れると考えたからだ。取引の主体は生活必需品から絹へと交替、前者が減少したのではなく後者が急増したのである。マニラのスペイン人の相場観には中国産絹は高品質にもかかわらず非常に安価と考えられ、他方メキシコでは数倍の高値がつくので、投資目的で中国産絹の購入に熱中した。
 銀と絹は互いに相手の後背地で高い需要をもち、双方が「お得」と感じるところに熱狂的な取引が成立した。この流れの定着には10年を要さず、「瞬く間」にマニラを挺子にして福建海澄県月港とアカプルコを接続、ゆるむことのない需要を基にモノの移動は拡大していった。ちなみに華人側はフィリピン諸島を「呂宋(ルソン)」と呼び、マニラを「互市」〔貿易場〕と認識する史資料がある。・・・・


  銀
     〔 マニラへの送金限度額を50万ペソ、アカプルコへは25万ペソ 〕

11> 銀を重量表記する研究は帳簿に残るペソ貨額から含有銀量を算出した値に基づくと考えられ、王権が貨幣鋳造税を徴収するために新大陸からの地金搬出を禁じていたので公式にはそれで良いはずだが、正規・非正規個人の送銀やペルーのカジャオやパナマ方面からマニラ・マカオヘ非正規ルートでの搬出というブラックボックスがある。
 1597年ペルーのカジャオ港からマカオ・マニラに向かった密輸銀(おそらく銀地金)を300トン超とする研究もあり、全量数値に関する議論はここでは棚上げした方がよさそうだ。参考までに数値をあげるなら、フォン・グラーンは新大陸から中国に流入した銀量を1565年以降30年間に58トン、17世紀前半までに1725トンと計算している。
テ・パスケはインディアス文書館史料に基づきアメリカ銀の産出と流れを追ったハミルトンの研究を基にメキシコ産出銀の4分の1がフィリピンに向かった可能性を指摘する。この背景として華人商人が銀でしか対価を受け取らないという証言を重視する。後述するように中国と関わる華人には銀をもつことが最も有利であったからだ。

12> 王権はこの「銀流出」を看過できなかったが、フィリピン植民地の自立には交易以外に方法が無いとヌエバ・エスパーニヤ側が主張、諸事情勘案の末 マニラへの送金限度額を50万ペソ、アカプルコへは25万ペソと1593年法制化した。当金額は当初総額だったが、縛りを少し緩和しながら1604年、1619年に反復公布されている。テ・パスケはフィリピンに送られた銀の半分は個人資産だと推定するが、後述するマニラからアカプルコに発送した絹の代金を翌年マニラに送金すると考えれば、個人資産がフィリピン総督領維持経費の王権送金分を相当凌駕する可能性は非常に高いと考えられる。
 フィリピンへの銀貨搬入量は1580年代半ばから急増、90年代前半から後半にかけて右肩上がりで山をつくり、さらに大きな山が1600年から20年代までにある。40年代後半には減少へ転じ、18世紀前夜までは概して低調で、中国側・スペイン側双方に低調の原因が考えられる。前者には明清交替期の混乱および清朝の遷海令(1661~83年〔沿海住民の海上貿易を禁止した,一種の海岸封鎖令。内地に強制移住させ、鄭氏の経済活動の弱体化を図ることを主目的とした。〕)
後者には新大陸鉱山の生産量低下などがまず考えられるが、佐久間重男は遷海令にあまり効き目はなかったという。ただし、マニラの膨大な会計文書から収税額や、マニラの外港カビーテ港に入港した外国船の記録を整理、再現したピエール・ショウニュの研究Les Philippines et Pacifique des Iberiques (『フィリピンとイベリア人の太平洋』)は清朝の政策を反映したデータを示す。メキシコ市を中心にした経済の浮沈とこのサイクルはおおむね符合するので、世界的な景気循環との関係も勘案を要するのだろう。



13> さて、個別史料に目を移すと、1586年聴訴官口ハス書簡は「華人は毎年チナヘ30万ペソを超えて持ち帰るが、今年は50万ペソ持ち帰った」と述べ、98年の総督テーリヨ書簡が「華人は毎年80万ペソ、ときに100万ペソ以上の商品を搬入して多大な利益をあげる」という。また88年には「ポルトガル人が30万ドゥカード(金貨。ペソ貨の約1.17倍)以上のモノを搬入と」記録され、マニラの大口支払いは2口あることがわかる。ショウニュの研究が明らかにする華人から徴収した物品搬入税額の1600年と12年の記録から算出したマニラの購入総額は各約130万及び約160万ペソである。
 他方、1600年には「毎年150万ペソ以上の銀貨が[アカプルコから]送られてくる」と聴訴官は記し、同年のオランダ人の報告書もマニラには「毎年150万ペソ以上の銀貨が送られる」という。02年のフランシスコ会宣教師の書簡が「毎年200万ペソが送られて来て、それらはすべて華人の手に帰す」と語るのは少し誇張とみえるがおおむね一致する。17世紀後半の交易低調からの回復期、「1701年には約200万ペソの絹、ほかに300~4万ペソの絹がマニラから送り出された年がある」とショウニュは述べる。・・・以下省略・・・・

14> 王朝が明から清に交替しても、福建や広東にとり交易からあがる利益は重要であった。遷海令発令中に広州から役人がきて密に交易の再開をスペイン側に求めた史料をフアン・ヒルがあげている。
 銀の移動は、変動があっても大量かつ長期的である。ペソ貨に対する信頼は交易を有利に導くのでポルトガルや政敵イギリス・オランダもこの入手に血眼になる一方で、漳州では当初純度を勘案した秤量制で、のちには貨幣としても流通したと百瀬弘はいう。長期という点では、世界の覇権国が交替した19世紀半ばでも銀純度の高さと恒常性が環太平洋域における基軸通貨の地位を守った。薩摩藩は薩英戦争の賠償金を香港で調達したペソで支払っている。(中略)
 最後に「銀の評価が高い」の意味を再確認しておきたい。しばしば金と銀の交換比率に言及されるが、中国に関していえば、希少性あるいは需要の高さから銀1グラムなりに非常に高い購買力があった点に重心がある。前者に関していえば、金銀の交換比率は新大陸で1対12程度であった1566~1604年に中国では1対6~7.5といわれ、18世紀前半のヨーロッパでは1対15だが、同時期の中国では約1対10であった。・・・以下省略・・・・



  
     〔 グラナダの財務官の長文の「意見書」
     核心テーマは「安価な」中国産絹製品

15>  ヨーロッパ大が中国から好んで仕入れたものとして陶磁器が有名だが、16、17世紀の太平洋交易に限れば最重要品は多種多様な絹である。インディアス法が繰り返し中国産絹に言及し、規制対象としていること、および以下の現象や史料から絹が常時、大量に新大陸に向かったことは明らかとなる。すなわち、
(1)アカプルコは、中国産絹陸揚げ時、税関がないマニラにかわって関税10%を徴収、そのうちからフィリピン諸島の運営費をシトゥアード(Situado)の名でマニラに還元した。関税額は通常マニラでの価格を基に算出されたので、新大陸での評価と比して過小にすぎるとの批判もあったが、マニラのアウディエンシア聴訴官モルガは16世紀末に、この収入は傭船料込みではあるが「相当な額」と述べる。実際フィリピンの運営費に大きな割合を占める。

(2)銀の項で既述のごとく、売り上げのほぼ全額を銀貨で持ち帰る華人の実態に適用された加増餉〔追加〕の税収は福建の海防を担える額に短期間で到達した。その銀貨の大半は絹の対価である。

(3)1620年インド枢機会議議長に提出されたグラナダの財務官の長文の「意見書」の存在である。同史料は本国・植民地諸地域間交易の利害得失を論じる。核心テーマは「安価な」中国産絹製品とスペイン国産絹製品競合の市場整理、銀貨の流出と利益を「貪る」メキシコ商人の抑制など、地球半分を覆う交易網の問題を王権・本国の利益第一のもと、絡み合う利害の溢路を縫う改善案を献策するものである。

 ところで、中国産絹をヨーロッパ人が終始品質に比して「安価」と評する理由はなんであろうか。第一は既述の銀評価の違いである。第二は、明朝下の中国、華東・華南部の余剰生産や輸送体制がスペイン人のフィリピン到来と啐啄〔またとない好機〕ともいえるタイミングで整っていた点である。生産体制では、岸本美緒によれば、広範な農民層に生糸や絹織物、棉布(綿布)製造に関して高い技術が蓄積され高品質品製造が可能になっていた、すなわち明朝の手がたい地域産業育成のなかで、家内生産という低資本から地道に高品質のモノを生産し、低価格販売の体制ができていたことだ。同時に江南での重税が家計補充的な副業の必要性を生み、銀納税に迫られると小農が窮迫販売をするところに高品質安価という国際競争力を有する商品が生まれたのである。価格と同時に、黄色味を帯びるグラナダやトレド産に比べて、中国産はより白く滑らかであること、また脂分が少なく染色で発色性の良いことが好感、需要を高めたと上記財務官は述べる。
 絹の価格は当然品質と需給関係で決まるので数字の羅列は無意味ながら、あえてあげると、1580年頃のマニラの記録では撚糸1ポンド14レアル、件の「意見書」は執筆年のマニラ価格は1ポンド7~8レアルだったが、メキシコでは品不足もあって70レアル以上で売れたと述べる。アカプルコで陸揚げされた絹のヌエバ・エスパーニヤ以外への移動をインディアス法は再三禁じたが、実際はペルー方面にも出回り、マニラの元値に対し約7~8倍の値がつくとショウニュはいう。当然経費や中間マージンが抜かれ、海難事故に遭遇すれば元も子もなくなる高リスクを負うが、絹を買いガレオン船に託したヒトに少なくとも元金が倍、ときに4倍ほどにもなるといわれるゆえんである。
 取引量は変動しながらも拡大基調。その理由は2点、いわば水平的販路拡大と垂直的需要拡大である。上記のごとくヌエバ・エスパーニャとペルーの交易を禁じる法令の反復公布は逆に交易継続を意味するが、それは販路拡大で、ペルーからさらなる販路が開けたからである。また「意見書」は中国産生糸の本国流入を証言、その供給がとまった年はトレドなどの絹織物産地で失業者が出たという。これも水平的販路拡大である。

 他方垂直的需要拡大は絹の大衆化、すなわち従来絹とは縁がなかった人々のあいだに需要を喚起したという意味だ。「意見書」は中国産絹の利用者を150万人とする一方で、「富者も貧者も自分に合わせて購入」と述べ「低品質品」の存在を示唆する。これらは需要に合わせた廉価絹の普及である。一点ものや限られた身分の用に具するモノではなく、今日の「大衆」を意味しないまでも「大勢」を対象にしたモノの動きである点はわれわれのテーマにとり極めて重要である。
 メキシコにはかつてコルテスが導入した養蚕・絹織物産業があったが、中国産生糸が前者を駆逐した。だが織物産業発展には裨益〔役立ち〕し、王の巡察官の1636年報告書は絹産業の被雇用者数を1万4000万人とする。これは多くの研究者に使い古された数字だが、メキシコ市が29年大洪水にみまわれ人口激減を経る直前の同市と周辺地域の総人口約15万人という数値からみても、その重要性は明白である。中国産生糸を素材にメキシコやプエブラで製造されたビロードやビロード紛い(まがい)の生地には南アメリ力大陸に向けて広大な市場が開けていたということだ。
 ・・・中略・・・

 インディアス法の絹関係の規制は、したがって絹織物(ダマスコ織・ビロードなど)と生糸綛〔かせ:一定の大きさの枠に糸を一定量巻いて束にし、1綛は綿糸768メートル、毛糸512メートルなど。〕など素材に分けて考える必要がある。中国産絹織物の品質・意匠・値段は極めて好評だが梱包の中身を偽ってアカプルコに搬入された規制品である。他方、中国産生糸は新大陸と本国の絹織物生産体制に組み込まれ、事実上規制対象外におかれたと考えられる。ここには厳しい現実もあった。とくに生糸の買い付けをマニラーアカプルコルートで制限しても、スペインの織物業者は品不足に陥るだけで、不足分を「敵方」オランダの業者から高値で仕入れることになる。オランダ人が売る商品は、元来スペイン船を襲撃して奪取したものであると「意見書」は述べる。
 マニラ・ガレオン就航40年前後でこの体制が形成されたというわけだ。少し後年の報告書は、本国の絹織工親方がメキシコに移住、染色工程をもつ小規模工場を展開した例を語る。正確な理由は不明ながら、メキシコでは生糸が本国より安価、銀評価の関係から高い加工賃がとれる点に注目した行動なのかもしれない。
 ブルックは、1620年の景徳鎮産の輸出用陶磁器に中国にはまだ存在しないチューリップの染め付けがあったと述べるが、絹製品の場合はマニラと中国大陸を往来する華人が需要家の嗜好を中国の生産者に直伝する体制が早期に出現した模様である。「意見書」によれば、中国の製造元は最終購入者の嗜好・評価・メキシコでの諸禁令に敏感に反応、さらに売れ残りに対する用心から前年に売れた商品供給に絞り、それ以外の商品納入は翌年まで待たせた。マニラ向け商品はスペイン人の嗜好に特化したので他方面に転売不可ともいうので、定番品と受注品生産で利益を確保したのだろう。絹貿易を牛耳ったのはメキシコ商人で、マニラの住民は利益の3分の1程度の手数料を得る存在になっていると「意見書」は語るが、それが他方で生産地と消費地の意思疎通を高める要因であったかもしれない。もっとも15世紀、中国から西アジア、イスラーム圏向け輸出品にクルアーンの一節を染め付けた皿やイスラーム美術を模した磁器があることを考えれば、需要家の好みにそう華人の企業家精神は必ずしもここに始まるわけではないかもしれないが。・・・中略・・・


16> ところで、1580年代後半から40年弱継続されたマニラの対日交易も絹と銀の交換を主体とした。それは華人やポルトガル人の対日市場に比して細やかな規模であったが、こちらは絹を売り、潤沢な日本銀を得るスペイン人が本望とする極めて魅力的な交易であった。メキシコ商人の支配を受ないと同時に、新大陸からマニラに搬入された銀を短距離・短期間で運用し、手持ちの銀を倍増させるシステムである。徳川幕府が1624年スペイン人来航を決定的に遮断した後も、交易再興を願う動きをマニラのスペイン人が示し続けたのはその魅力ゆえである。マニラ来航の華人商人の出身地が対日交易に携わる商人のそれと重複する傾向から、日本市場喪失後も華人をとおしておもに絹輸出に投資した可能性は十分考えられる。
 アカプルコ行き船舶の積載荷は、用船が小さい場合は利益率の高い絹が優先されたが、大船の際には木綿も積載された。木綿の通常積載量は絹の6分の1程度とする史料もある。木綿は新大陸市場で本国産麻市場とも競合しないので史料として表面化する機会は少ない。「意見書」は綿布4000包の舶載に言及している。8包1トンともいうので約500トンの荷である。絹との価格比はラフに150対1程度と計算できる場合もあり、小規模投資をした人たちの資金がこちらにまわった可能性もある。 ・・・以下省略・・・・

 ・・・1章 スペインのマニラ建設 終わり・・・
  → 第7巻 1683年 近世世界の変容
    
オランダ東インド会社の銀経済圏 ―ヨーロッパ・アジア間貿易


 第2部 大塚史学-『近世欧州経済・・・』と南米-欧州-東アジア・日本の経済連結環
第1章 大塚史学の源流としての『近世欧州経済・・・』
第2章 南米-欧州ルート
第3章 欧州-東アジア・日本ルート
第4章