1. HOME
  2. 【目次】江戸時代の資本論
  3. 巨大商人・商業資本との闘い(ek002-05-02)

巨大商人・商業資本との闘い(ek002-05-02)
大石慎三郎『大岡越前守忠相』

 巨大商人・商業資本との闘い (ek002-05-02)  作業中:2022.8.01


    大石慎三郎『大岡越前守忠相』 岩波書店1974年発行
  
    ー幕府と両替商の金高・銀安問題

    ◆徳川吉宗  第8代将軍(1716-1745) 貞享元年(1684)—寛延4年(1751)
    ◆大岡忠助  江戸町奉行(1717-1736) 延宝5年(1677)—宝暦元年(1752)


 大石慎三郎『大岡越前守忠相』(おおおか えちぜんのかみ ただすけ)
 歴史科学と経済分析


   物価問題への取組みと
 巨大商人・商業資本との闘い 
(ek002-05-02)


 目次
   物価問題への取組み

1. 日本最大の商品市場ー大阪
2.江戸経済は、上方・西国に依存-江戸の物価問題〕
3.石高制ー米価をめぐる幕府と商人
4. 〔年貢米-自然物自給経済から貨幣経済へ〕
5.〔物価問題:商人と職人-諸色販売し米を購入〕〕
6.〔大阪蔵屋敷ー日本最大の米穀市場 
    農民W―G―Wと米問屋G―W―G´〕
7.〔G―W―G´と米手形の売買(転売)G―G´〕
8. 新しい物価問題 〔米価安の諸色高〕
9. 物価引下げに関する意見書
 〔享保8年10月 大岡忠助の”物価引下げに関する意見書”〕
10.″超過利得″の摘発     
11.〔過料(罰金)没収対象〕
12. 仲間・組合の結成
〔大岡忠助の享保8年”物価引下げに関する意見書”の調査対象先〕

大石慎三郎『大岡越前守忠相』


   Ⅱ  巨大商人・商業資本との闘い

 目次
1.巨大商人との闘いー両替商の金安・銀高問題
    金銀相場の操作 〔荻原重秀と為替操作〕
2.〔新井白石の反撃〕
3. 〔大岡忠助の対応〕
4. 紀州家と上方商人
5.〔両替商〕
6.〔三井高利ー金経済圏と銀経済圏との流通〕
7. 金銀相場をめぐる闘い・・(略)・・・p.145
8.元文の貨幣改鋳・・・・・・・・・・・p.147


 参考資料
 1. 山田羽書 日本初の紙幣 ウィキペディア
 2. 山田奉行 伊勢神宮の門前町であった伊勢山田 コトバンク
 3. 石盛,石高,石高制は、用語解説参照 (編集作業中です)  
 4. 幕府と両替商の金高・銀安問題
大石慎三郎『大岡越前守忠相』(ek002-05-02)

 
 物価問題への取組み
         江戸経済と上方経済


1. 上方・西国 農業も手工業も最先端・先進地帯

 巨大都市江戸のもっていた問題は、防災や救貧だげではなかった。それらよりもっと切実なものとして、日々の生活のための物価問題があり、大岡忠相がもっとも力をいれたのが、これであった。
 今日でこそ関東地方は日本を代表する重工業地帯であるが、江戸時代、とくに江戸中期までのこの地方の生産力水準はさんたんたるものであった。それにたいして京・大坂をふくむ上方は、手工業生産でも農業生産でも、日本の最先進地帯を形づくっていた。まず京都であるが、ここは日本の高級手工業生産をほとんど独占するほどの工業地帯であり、奈良もそれにつぐ地位を占めていた。またこの地をふくむ畿内地方は、菜種(油の原料)・綿をはしめとする商品作物、さらに米作をもふくめた農業の先進地帯でもあった。そのうえ畿内につづく中国・九州・四国地方も、農業の生産力は関東・東国にくらべていちじるしく高かった。その中心地に日本最大の商品取扱い市場である大坂が生れたのは当然のことである。


2. 江戸・関東 低生産地帯の「巨大な消費都市江戸」
  ー江戸の物価問題は、上方・西国から有利に物資を移入できるか


 それにたいして関東は、幕府の公式見解によると、全耕地の16、7%から20%くらいしか田地がなく(享保20年の「知行割之儀御定書」)、しかもその田地の多くが天水田(用排水施設をもたず、天から降ってくる雨水に頼るもっとも低劣な田)にちかい一毛作の湿田であって、その生産力は非常に低かった。そのうえ全耕地の80%をうわまわる畑地も、関東ローム層に属する火山灰地で、地力がいちじるしく劣り、これといった商品作物ももっていなかった。また手工業についても、まだ手工業とよべるほどのものは育っておらず(桐生などの絹織物業は若干時代がおくれる)、総体的にいって関東は上方・西国にくらべていちじるしい低生産力地帯をなしていた。
 問題は、周辺からの物資補給を期待できない低生産地帯関東に、巨大な消費都市江戸をつくってしまったことである。そのためにどうしても生産力の高い上方から物資の補給をあおぐ必要があった。たとえば享保11年(1726)に江戸に入った生活必需品のうち、大坂をとおして上方・西国より送られた商品の比重は、酒で約28%、醤油で100%、油で69%、木綿で36%というように、江戸経済に占める上方経済の比重は非常に高かった。このような事情は、絹織物その他高級消費財になれば、なおいっそう強くなることは明らかである。のちにくわしく述べるように、江戸の物価問題は、一つには、上方・西国筋から、どれだけ有利に多くの物資を移入できるかという問題にかかっていた。


      米価をめぐる幕府と商人

3. 米価の石高制ー米の社会的等価物ー金銀銅貨幣経済へ

 江戸時代は石高制とよばれる一種独自な社会組織をもった封建社会である。石高制というのは、田畑でつくりだされる米麦等々、いっさいの社会的な生産力量を米の生産力量に換算して、それを石高で表現し、同時に、それを基準として米で貢租をとりたてる社会である。したがって、米はたんなる田畑で耕作される農作物であるだけでなく、もっとも一般的な社会的等価物(一般には貨幣がその役をはたすが)なのである。
 米を現物のままで社会的等価物とし、かつそれを貢租として取りたてることは、農民たちを自然物自給体制に固定しておくのにたいへん好都合であった。徳川幕府が、農民支配の基本として、主穀以外の農作物の作付けを制限したのは、このような体制を強化・維持することを目指していたからである。
 しかし、このような体制は領主経済の側からみると問題がなかったわけではない。というのは江戸時代という社会段階は、自然物自給体制が難なく成立するという段階ではなく、社会的総再生産からみると、米が唯一の普遍的な社会的等価物であるという段階はすでにすぎており、分業の深まりによって、米よりも金銀銅を主体とする貨幣のほうが、より有効な社会的等価物となりうる社会になっていたからである。


4. 〔自然物自給経済から貨幣経済へー米の価格問題〕

 具体的にいうと、領主たちは貢租として収納した米を、そのまま交換にだして諸色(江戸時代は米以外の諸商品を諸色という)を入手するのではなく、米をいったん市場に投下して、米よりさらに一般的な社会的等価物である貨幣にかえ、その貨幣で必要な諸色を入手するという仕組みになっていたのである。したがって、領主たちは米で貢租はとりたててはいるが、米そのものを必要としていたわけではない。領主たちにとっては、なによりもその米の価格が問題であったのである。
 このようなことは、若干事情は異なるが農民についてもいえることであった。江戸時代の農民は原則的には自給経済体制をとっており、しかもその剰余労働部分のほとんどが、領主に貢租として収奪されていたから、その再生産に交換をもちこむ条件はいちじるしく少なかった。しかし最初から生産要具としての鍬・鎌、食糧としての塩といったような自給できないものをもっていたので、全剰余労働部分を年貢にとられていた場合でも、その再生産にはやはり交換が前提とされていたのである。


5.  〔商人と職人-諸色販売し米を購入ー米価と諸色値段の釣りあい

 武士と農民とは、米を売って生活に必要な諸色を買って生活する存在〔W―G―W´〕であるが、逆に商人と職人などは、諸色を売って米を買う存在であった。したがって両者(武士・農民と商人・職人)の利害は対立するのであるが、米がいくら高くても、諸色がより高ければ武士・農民には不利であるし、また逆に諸色がいくら高くても、米がより高ければ商人・職人には不利である。つまり、物価問題とは米価の高い低い、また諸色の高低にあるのではなく、米価と諸色値段とが釣りあうかどうかということにあったのである。米で年貢をとる石高制のもとでは、米価と諸色値段が釣りあうこと、いいかえれば、米価の変動につれて諸色値段が追随することが前提となっていたのであり、事実、江戸時代の前半期はそうなっていたのである。
 江戸時代前半期の米価の動きをグラフにとってみると、いくつかの高低をえがきながら、大勢としては確実に上昇線をたどっている。これは、世の中が平和になったことからおこる人口の上昇、とくに江戸・大坂をはじめとする都市人口の急増によるものである。このような現象を利にさとい商人が見おとすはずがない。米は買っておいて一定期間ねかせれば、確実に値があがって利ざやがかせげるのである。


6.  〔 大阪ー日本最大の米穀市場 ー転売・利ざやかせぎ
      農民W―G―Wと米問屋G―W―G´ 〕


 当時大坂は日本最大の米穀市場だったので、多くの藩はここに蔵屋敷をおき、領地から年貢として取りたてた米を送りこんで換金していた。これを買いとる米問屋たちは、3分の1くらいの代銀を渡して買いとる約束をし、米はそのまま引きとらずにおいて、米価があがるとそれを転売して利ざやをかせぐという延べ売買をはじめた。消費するためではなく、空売りして利ざやをかせぐために米を買うのである。

   〔延べ売買: G―W―G´とG―G´〕

 幕府は、このような商人の行為が仮需要を引きたてて米価をますます高くするものだとして、万治3年(1660)には、買った日から30日以内に蔵出しする(引き取る)ようにと厳重に申しつけている。しかし商人たちはなかなか幕府のいうことを聞かず、また蔵出し日限も30日というのでは長すぎたので、寛文3年(1663)には、米手形の売買〔G―G´〕、米市の禁止を命ずるとともに、取引き蔵米の法定蔵出し日限をそれまでの30日から10日に切り下げた。そして米取引きについては、売主と買主の名、米の量、その値段、取引き月日をいちいち規定の帳面に記帳させることにした。また同時に、違反者はその状況によって死罪または牢舎、その五人組と年寄とは曲事に申しつけるという罰則を設けている。


7. 米の不実商(ふじつあきない)米価統制

 このような米商人を、幕府は米の不実商(ふじつあきない)とよんで、以後取締りの対象にするが、同時に米の実需要をおさえるという意味で、酒造制限にものりだしている。世の中が平和になり、また人口も急増するなかで、酒の需要は急速にたかまっていた。清酒は文禄・慶長のころ、摂津鴻池村に住んでいた山中勝庵という人がつくりだしたといわれるが、それが当時の人々の嗜好にあい、伊丹・池田を中心とする摂津北在郷(伊丹、池田、大鹿、小浜、清水、鴻池、山田、三田)に一大酒造地帯をうみだすなど、酒造量は急速にふえつづけた。幕府は、このような酒の需要の増加が、米の実需要をたかめ、米価引上げの重大な要因になっているとして、米価統制という観点から、諸産業にさきがけて明暦3年(1657)に酒造株を設け、全国の酒造量の掌握・統制にのりだした。そして寛文のころになると、不実商の取締りと並行して、酒造量を半減するようにとか、酒は寒造りに限るようにとかいって、酒造量と酒造時期の両面から酒造米抑制に力をいれている。実需要と仮需要との両面から米価をおさえこもうというのが、幕府当局の作戦であった。
 このような作戦はかなりの効果をあげ、一時的に米価を引き下げるのに役立った。しかし当時は都市が大発展をとげている時代で、構造的には米の供給が若干需要を下まわるという状況にあったので、米価は依然として上昇気味であった。こんなところから米の不実商もあとをたたず、幕府はおりにふれて、それを禁ずる触れをだすとともに、断固たる取締りにのりだしている。
 たとえば元禄9年(1696)には米の買占めをした大坂の網干屋善左衛門を闕所処分にし、買い占めていた米3万5000石を没収している。財産没収のうえ所払いというのだからたいへんきつい処罰である。また同13年には米価を冷やす目的で、幕府が大坂に囲っていた米1万石を市民に払いさげている。宝永2年(1705)におこなわれた豪商淀屋の闕所は、当主の放埓な生活が直接の口実になっているが、淀屋が大坂最大の米穀商で、その動向がたびたび幕府の米価政策とそわなかったのが真の原因だと考えられている。


8.   新しい物価問題 〔米価安の諸色高〕

 宝永3年(1706)5月、江戸市中の豆腐が馬鹿高値をつづけ、市民の問題となった。江戸町奉行所は市内の豆腐屋全員を呼びだして「ここ数年来米価が上昇をつづけ、それにつれて他の諸色慎段もあがった。幸いに昨今米価がだんだん下落しているのに、諸色値段のほうは高値のままで、いっこうに下がる気配をみせない。とくに豆腐にいたっては、原料である大豆が一昨年には1両で8斗5升しか買えなかったのが、今年は1石2斗も買えるというように大幅安となっているのに、いまもっていっこうに値下りしないのはどういうわけか」とその説明を求めたのである。しかし納得のゆく説明がなかったので、江戸町奉行は豆腐の大幅値下げを命じた。多くの豆腐屋はしぶしぶ値下げに応じたが、7軒の豆腐屋は、なおも原料の苦塩(にがり)や油糟の値段が高いなどの理由を申したてて、値下げに応じようとしなかった。怒った町奉行はこの7軒の豆腐屋に営業停止の処分を申しわたした。これで″豆腐高値一件″はどもかく落着するのだが、この事件はいままでにはみられなかった新しい物価問題が歴史に登場したことを示している。
 すでに述べたように、江戸時代の社会は、米価が他のいっさいの諸物価の中心となり、米の値段が上下すれば、それにつれて他の諸物価も上下する、ということを前提にしてはじめて成立する。そして事実、江戸時代の前半期においては物価の動きは完全にそうなっていた。元禄期までの物価問題は、上昇気味の米価をどのようにして引き下げるかという単純な形でしか存在しなかったのはこのためである。
 ところが、この″豆腐高値一件″を契機に、米と他の生活物資との値段が相互に連関せず、おのおの勝手に動くという新しい形の物価動向があらわれたのだから、ことは面倒である。こうなると幕府は、米価と他の生活物資とにたいして、おのおの別個の政策手段をうたねばならない。このような新しい形の物価問題は、この“豆腐高値一件”以来しばらく影をひそめるが、享保期になって、さらに拡大された形でふたたび顔をだすのである。


9.   深刻な財政の立て直し策 

 巨大商人など一部の者を除いて、享保7、8年という年は、武士にとっても庶民にとっても最悪の年であった。すでに4代将軍家綱の末年以来悪化をつづけていた幕府財政は、8代将軍吉宗の代〔1716ー1745年〕になってもいっこうに改まらなかった。享保6、7年段階(1722ー23)になると、幕府は非常用にたくわえていた御城米や御城金まで食いつぶし、もはや残された手段は、旗本・御家人のうちから数百人を人員整理して人件費を軽減するのみ、というところまでおいこまれていた。そのためいきおい旗本・御家人への蔵米の支給もおくれ気味になり、とくに下級旗本たちを困らせていた。(中略)

 もはやこれ以上放置することはできないと考えた将軍吉宗は、・・・・・享保7年5月、水野忠之を勝手掛老中(幕府の財政と民政事項を専管する老中)に任じ、抜本的な幕府財政建直し策を研究させた。その結果、大名たちから石高1万石に100石ずつの献米を求めて急場をしのぎ(上げ米)、その間に年貢増徴と新田開発とを推進して幕府財政の収入増をはかる、という策がうちだされた。将軍吉宗は大名たちを江戸城にあつめ、幕府の財政事情とその再建案を説明したうえ、みずから「御恥辱をかえりみず」協力を頼んだのである。
 その効果は着実にあがり、財政再建のめどがつくのであるが、ちょうどそのようなときに、さきの″豆腐高値一件″で姿をあらわした、米価の動きに諸色値段が追随しないという新しい形の物価問題が、それも″米価安の諸色高″という最悪の形でふきだしたのである。これをそのまま放置すれば、せっかくの年貢増徴による財政建直し策がだいなしになる。のみならず、石高制という社会体制そのものにもひびがはいるので、吉宗はその解決に狂奔した。

 
10.  〔 享保8年10月 大岡忠助の”物価引下げに関する意見書”

 吉宗はこの問題について意見具申を江戸および京・大坂の町奉行たちに求めた。これにたいして大岡忠相は、相役の諏訪頼篤と連名で、享保8年10月、″物価引下げに関する意見書″を提出している。この″意見書″は7ヵ条からなっている。
 まず第1条は、炭、薪、酒、油、醤油、塩など、「人々が朝夕つかわなくては叶わないような」生活必需品を扱う商人には、問屋・仲買・小売の者まで仲間をつくらせ、さらにその仲間をいくつかの組に分け、そのおのおのに月行司(世話役)をたてる。そして仲間・組合ごとに取扱い商品の相場書を提出させ、万一不時に相場が高くなったときは、仲間ごとに吟味させて、高値になった理由を書きださせる。江戸の商人仲間で理由がわからないときは、京・大坂へいってやって、その理由を調べさせる。つまり生活必需品を扱う商人は、商品ごとに、それも問屋・仲買・小売といった流通段階ごとに仲間・組合をつくらせ、その組織を利用して商人が不当利潤をえたり、商品が不時に高くなるのを防ごうというのである。
 第2・第3・第4条は、第1条で目指したことを、より確実にするための補助的なものといえる。すなわち第2条では、江戸に入ってくる船舶を一手に掌握できる立場にある浦賀奉行に、湾口をとおって江戸に入ってくる荷物を監督・掌握させ、その品と員数とを書きださせようというのである。それは、浦賀を通過した船が、神奈川・鈴ヶ森沖あたりに船をとめておいて、江戸の相場を問いあわせて状況によっては相場待ちをするのを、地元の代官に監視させる第4条と組みあわせて、江戸の商人たちが数量を偽わって買占め(〆買)や売借み(〆売)をするのを防げるわけである。

 第3条は、当時日本の商品流通に大きな役割をはたしていた大坂に手をのばし、(イ)大坂から積みだす諸商品を問屋方で改めさせ、何国誰廻船で何国誰方まで、荷物どれほどを積みだしたかを問屋から大坂町奉行に提出させる。(ロ)また江戸に積み送った品は、とくに1ヵ月ごとに荷物の品名と数量とか大坂町奉行より江戸町奉行までつけださせる。そうすれば買置きや売借みなどがすぐにわかり、諸色高値のときも吟味しやすいというのである。
 第5条と第6条とは、商人たちの商品買漁り競争による、仕入れ値の高騰を防ごうというものである。すなわち、近頃すべての商品は関係問屋を通さず、金儲けになりそうだと思うと自分の店の取扱い商品でなくても直接買い漁る風習がある。そのため買手が大勢になって、思いのほか高値になることがある。また資金ぐりのよい者は、前金をはらって国々の商品を買い漁ったり、手代を派遣して買占めさせておいて相場が上ったとき売りはらうなどして、商品値段をますます高くしている。だから今後は、炭、薪、酒、油、醤油、塩など、生活必需品は、取扱い商人をきめ、その組合以外へはいっさい売らせないようにすればよい。そうすれば買漁り競争による仕入れ値の上昇もなく、物価も安定するはずだ、というのである。

 大岡たちの”物価引下げに関する意見書”の主なところは以上のとおりである。それは方法論としては、
(イ)商人たちの買占めや売惜みを防ぐことによって、商人の過分な利得をなくし、物価を引き下げる。
 (ロ) 買漁り競争を防ぐことで、仕入れ値の高騰をとどめ、物価を引き下げる。
という二つの方法を組みあわせているが、それを実現する手段として、商人たちに取扱い商品ごとの仲間・組合をつくらせ、その機能を通してそれをおこなおうというものである。さらにその効果をより高める手段として、
 (イ) 浦賀奉行所での江戸への商品流入量の掌握
 (ロ) 大坂の問屋よりの江戸へ移送する主要商品の掌握         
 (ハ) 大坂から諸国への商品移動の実態掌握
など、幕府の手による商品流通の実態掌握を用意するという周到なものであった。
 物価問題とは要するに流通問題であるから、そのような手段をうてばよいというのであるが、大岡忠相らの、このような意見書を受けとった幕府首脳部(将軍吉宗と有馬・加納の両御用取次)は、その内容があまりにも思いきった、いわば″流通革命″ともいうべきものであることにおどろいたのか、ただ大坂と浦賀での流通調査を、年2、3回実施することを許可したのみで、その肝心のところは実行不可能と却下してしまった。彼らとしてはあまり商人たちを刺激したくないという配慮がはたらいたのであろう。
 しかし当時の物価動向は、江戸市民にとっても、武士階級にとっても放置できる状態でなく、そのうえ大岡忠相たちの主張する政策手段以外に、これといった有効な方法もみつがらなかったので、結局この″意見書″の内容が全面的に受けいれられた形で、翌享保9年、″物価引下げ令″に姿を加えて発布されるのである。


11.    ″超過利得″の摘発     

 享保9年2月15日、幕府はつぎのような″物価引下げ令″を江戸、京都、大坂、奈良、堺をはじめとする各町奉行にだして物価の引下げを命ずるとともに、代官・領主にも諸国で製造している品々の元値段を安くするよう命している。
 「米価は去年よりだんだん安くなっているのに、そのほかの諸色値段は高いので、人々は難儀をしている。酒、酢、醤油、味噌のたぐいは、米穀を原料にしてつくるものであるから、米の値段に準じて値動きすべきは当然である。また、竹、木、炭、薪、塩、油、織物、そのほかいっさいの商品などは、米穀を原料としてつくるものではないが、それらをつくる工人・職人の賃銀は飯米をもとにして割りだすものであるから、それらの値段も米価に追随して当然である。それを去年米価が下落してもそのまま値下げせずに売っているのは、過分の利得をねらってのことと判断せざるをえない。したがってここに値下げを命ずるわけであるが、それでも値下げをしない場洽は、3月1日を期して詮議をとげ、違反者は処罰するであろう」(中略)
 〔過料(罰金)没収対象〕
 「油問屋、仕入れ問屋グループ(10人、7人、16人、8人グループ)総合計
  人数       41人
  扱い油高     1842樽
  この代金     5734両3分、 銀17匁9分
  没収超過利得分  1035両2部、 銀20匁6分
            (扱い代金の18%強相当)」

12.   仲間・組合の結成
    〔大岡忠助の享保8年”物価引下げに関する意見書”の調査対象先〕
  「米、味噌、炭、薪、酒、醤油、水油、魚油、塩、木綿、ほうれい綿などの生活必需品11品目」
    〔同享保9年対象・問屋登録先〕
  「水油、魚油、繰綿、真綿、酒、薪、木綿、醤油、塩、米、味噌、生蠟、下蠟燭(ろうそく)、  
   紙、炭 ー15品目の問屋、直荷請業者の登録で、その後の株仲間」

  日本の流通組織の根幹になっている問屋・仲買・小売というわが国固有の商品流通組織が、
  大岡忠助らの指導により確立した。


大石慎三郎『大岡越前守忠相』


    巨大商人との闘い
        金銀相場を操作 〔荻原重秀と為替操作〕


1. 巨大商人との闘いー幕府と両替商の金高・銀安問題
    金銀相場の操作 〔荻原重秀と為替操作〕


 すでに述べたように、江戸の物価問題は、上方・西国経済圏から、どれだけ有利に多くの物資が移入できるかという問題にかかっていた。
 江戸時代の通貨は三貨体制といって、金・銀・銭の三つからなりたっていた。金は俗に小判とよばれるもので、金を主体とした鋳造貨幣であり、一両は四分、一分は四朱という四進法の貨幣であった。銀は金とはちがって、一定純度の銀塊そのものが何匁何分(十進法)と秤で計って使われる秤量貨幣であった。金と銀とが高額貨幣であるのにたいして、銭は銅(のちには鉄の場合もある)を主材とする小額貨幣で、貫・文(一貫は1000文)という単位でかぞえられた。いわゆる″寛永通宝″というのがそれである。


2. 江戸住民ー上方・銀を基本通貨とする経済圏から物資を買う
   荻原重秀 対策ー通貨金の銀にたいするレート(交換比率)を切り上げ

 ところで、銭はほぼ全国的に通用したが、金と銀とはそうではなかった。金は江戸を中心とする関東・東国経済圏で、銀は京・大坂を中心とする上方・西国経済圏で通用したのである。したがって江戸の消費者物資を上方・西国から買うということは、金を基本通貨とする経済圏が、銀を基本通貨とする経済圏から物資を買うことである。この場合、他の諸条件を一定とすれば、通貨銀にたいして金が強くなればなるほど、江戸には多くの物資が流入してくることになる。このようなわけで、江戸により多くの消費者物資をあつめて、市民生活を安定させようと思えば、通貨金の銀にたいするレート(交換比率)を切り上げればよいのである。それは今日の国際貿易における為替レートの原理と同じである。

 このような観点から最初に物価問題にとりくんだのは、元禄時代後半期の政治の実権を握っていた勘定奉行荻原重秀である。
 金・銀・銭は、本来独立した別個の通貨であって、その相互のあいだには日々の相場がたってたえず変動していた。その相場がだいたいこの程度で安定してほしいという公定相場を、幕府が最初にきめたのは慶長14年(1609)7月のことである。それによると、金一両は銭(京銭)4貫、銀にして50匁となっている。以後しばらくは実勢相場もこれに近い動きをしていたようだが、農民的剰余が成立して庶民生活が豊かになる寛文・延宝(1661ー80)ころには、金一両が銀60匁というのが安定相場になっていたようである。


3. 荻原重秀 元禄大改鋳-----出目獲得と名目貨幣化への道

 元禄8年(1695)、荻原重秀は、それまで通用していた慶長金銀を改鋳して、品位の一段おとる元禄金銀を発行する。この改鋳は、金銀の品位(含有貴金属量)をおとして出目(改鋳差益金)を稼ぐためであったと評価されて、これまですこぶる評判が悪いが、その真のねらいは、寛文期以来拡大しつづけてきた経済の規模に通貨量をあわせようとしたもので、理に叶うものであった。通貨の品位をおとしたため、諸物価が一時的に高騰したのも事実であるが、じつはこの改鋳には江戸の物価を高くするもう一つの要因があった。それは改鋳にあたっての、金と銀との品位の改めかたである。すなわち慶長金銀の品位を100とすると、元禄の改鋳では金は67、銀は80で、金のほうが品位のさがる度合がはるかに強かった。このために金にたいする銀の力が一段と強くなり(銀高相場)、江戸への物資移入はそれ以前にくらべていちじるしく困難となったのである。
 荻原重秀がこのような金銀比価の物価に及ぼす影響を最初から知っていたかどうかわからない。むしろのちにおこなわれる一連の修正(銀の品位の引下げ)の動きをみると、最初はそのようなことに気づいていなかったように思われる。しかしすぐに問題の所在に気づいたようで、なりふりかまわず、その是正にとりかかっている。




4. 元禄13-14年 上方商人へ銀高相場の引き下げ・・・・・銀20%の切下げの攻防

 荻原重秀は元禄13年11月、幕府の支払いにあたっては、金一両を従来のように銀50匁の公定相場ではなく、60匁の計算にするので、世間もそれに習うようにと触れている。それによって銀高相場を引き下げようとしたのである。銀の20%の切下げである。しかしそうなると、当時の日本の経済を握っている上方商人にとってはゆゆしい大事になるので、彼らは銀を市場からひきあげるなど激しい抵抗をしめした。荻原重秀は銀を退蔵したり、規定の相場で取引しない者があれば訴えでることをすすめ、「万一同類であっても、訴えでた者はその罪を許し、そのうえ褒美をとらせ、かつ仕返しをしないよう保護をする」とまでいって、これに対抗しようとしたが、なかなか思うようにゆかなかったようである。翌14年12月にいたって、「上方・西国などは、商取引に銀をつかって金をつかわない商慣習であるが、今後金をつかうように」として、上方・西国でも金を一元的につかうよう指示するが、もちろんその背後に金で代表される関東・東国経済圏、銀で代表される上方・西国経済圏という経済の実体がひかえているので、一片の法令でそれが解消するほど簡単なものではなかった。このあたり荻原重秀の現実認識は甘く、また権力を過信しすぎたきらいがあるが、ともあれこれは幕府が政策をもって経済社会に対決しようとした最初の経験であった。


5. 宝永3年(1706)銀の改鋳 (←ウィキペディア参照)

  宝永ニツ宝銀、さらに宝永永字銀(宝永7年)、宝永三ツ宝銀(同年)、正徳四ツ宝銀(正徳元年)というように、  銀の含有量を 50%、40%、32%と切り下げ、ついには20%に

 しかしこれ以降の荻原重秀の政策手段は、銀を執拗に改鋳してその品位を引き下げることによって、所期の金にたいする銀のレートを引き下げようとする理に叶ったものになる。すなわち、宝永3年(1706)には、宝永ニツ宝銀をだし、さらに宝永永字銀(宝永7年)、宝永三ツ宝銀(同年)、正徳四ツ宝銀(正徳元年)というように、銀をやつぎばやに改鋳し、そのたびに銀の含有量を50%、40%、32%と切り下げ、ついには20%にまでおよんでいる。このことは当然、金銀相場にも反映するわけで、江戸にあっては、宝永6、7年に金一両につき銀が58匁ないし60匁であったのが、正徳元年には64ー65匁、同2年には76匁ないし81匁にまで低落した。大坂の場合もまた同じで、正徳2年には金一両に銀80匁余となっている。従来の公定相場より60%も銀を切り下げたのだから、上方・西国経済圏が大打撃をうけたのは当然である。


6.  〔 新井白石の反撃 ・・・荻原重秀ーの解任

 このような荻原重秀の行為にたいする反撃は、新井白石の手をとおしておこなわれた。白石は重秀を「天地開闢以来の姦邪の小人」ときめつけ、6代将軍家宣に重秀の罷免要求をだすこと三度、「もしこの要求がいれられない場合は、自分は重秀を殿中で刺し殺すであろう」とまでつめよって、ついに正徳2年(1712)9月11日、そのことに成功するのである。
 そして正徳4年5月に念願の正徳の改鋳にこぎつけるのであるが、新井白石のこの改鋳の特徴は、
 (イ)荻原重秀の通貨政策は巨大都市化した江戸の物価を安定させようという観点にたっていたのにたいして、
    新井白石のものにはそれがなく、純貨幣論的発想にのみもとづいている。
 (ロ)新井白石の通貨政策を客観的に考察した場合に、上方・西国の巨大商人の利益を擁護するという役割を
    果している。
ということである。
 はたして新井白石と上方・西国の巨大商人とのあいだに関係があったのかどうか、あったとすれば具体的にどのようなものであったのか、という問題は今後の研究課題だが、辻達也氏も新井白石の正徳の改鋳には「谷長右衛門によって代表される上方商人の利害が大きく反映していると思われる」(『享保改革の研究』)と指摘している。ともあれこの改鋳が、荻原重秀によって窮地においこまれていた上方巨大資本を助け、その利益を擁護したことは明らかな事実である。

 新井白石の手によって世に送りだされた正徳金銀は、ほぼ慶長金銀にひとしいものであった。しかし彼の期待に反して世間の評判は悪く、その通用ははかばかしいものではなかった。新井白石は「万一この命令にしたがわない者は厳罰にする」という強圧的な新金銀通用令をだしたり、また江戸の両替商に仲間・組合をつくらせて、その通用を促進させようとするが、その効果もあがらないうちに7代将軍家継が死亡し、新しく将軍になった吉宗のために罷免されてしまった。


7. 吉宗は新井白石の政策のほとんどすべてを破棄してしまったが、通貨については正徳金銀をそのままうげつぎ、その通用に力をいれたので、停滞していたその通用も享保3年ごろから急速にすすみはじめた。と同時に、このころから通貨金にたいして銀の比重を高くするという正徳金銀の性格が具体的な姿をみせはじめた。
 正徳4年(1714)5月15日は正徳金銀改鋳の触書の日付の日であるが(発布は翌日の16日)、この日の江戸における金一両にたいする銀の実勢相場は82ー83匁であった。そして、享保2年(1717)には春夏の平均相場が69.75匁、秋冬のものが64.20匁とかなりの上昇をみせるが、まだ金一両・銀60匁という公定相場よりは銀は下値にある。それが正徳金銀の通用に幕府が本腰をいれる享保3年になると、春夏の平均相場が58.76匁であったのが、秋冬の平均相場では52.10匁というように急速に銀が強くなってゆく。それでも7月まではまだ50匁代であったが、8月になると40匁代にまで高騰するのである。



8.  両替商との攻防ー大岡忠助の完敗 〕

 このようなことは当然のことながら、江戸の物資不足、価格高騰となってあらわれるので、市民生活にとってはゆゆしい大事であった。このような事態にとくに関心をもったのが、江戸町奉行になって間もない大岡忠相であった。彼はさっそく関係者を呼びだして調査にのりだした。彼は享保3年閏10月、正徳金銀の通用を促進するために新井白石が仲間・組合をつくらせておいた江戸の両替商の数を600人に限定し、その組織の統制力を利用して金銀相場の調節をするという方法で、同年11月には金一両・銀60匁の相場にもちこもうとした。しかし当時の通貨金と銀の実勢相場は、金一両に銀43ー44匁といったところであったので、この命令を不服とした両替商たちは同月中旬から、のれんをおろして休店をはじめた。これは現在の銀行が政府の政策を不服として休業するようなものだから、経済界の混乱はたいへんなものであった。そのため一歩ゆずった大岡忠相は、同月25日に、金一両に銀54ー55匁という新しい公定相場をだし、これを守るようにと両替商に申しわたした。大岡とすればこちらも泣いたのだから、両替商側も泣くようにということであったようだが、この案は両替商からまったく見向きもされず、休店はつづいたままであった。

 このような状況のなかで、年明けた正月4日、大岡忠相は銀3枚を両替してほしいと両替商に頼んでいる。実際に銀がほしかったのか、ただ両替商の反応をためしてみるつもりだったのかわからないが、大岡の頼みは、あっさりと両替商に断られている。その後も大岡はいろいろ手をつくしたようであるが、両替商を説得することができず、万策つきて同4年3月20日、「御定どおりの相場を強行しようとすると、世間がかえって迷惑をするので」という理由で、金銀相場は、両替商のいうとおり相対相場とする、と申しわたした(『両替年代記』)。自分たちのいいぶんをおしとおした両替商は、4ヵ月ぶりに翌21日から店をひらいている。
 こうして、日本経済の大元を支配する巨大商人・両替商たちと大岡忠相との闘いの第一ラウンドは、文句なしの大岡忠相の完敗で終るのである。


9.  紀州家と上方商人 ・・・・両替商

 大岡忠相と両替商たちの、この闘いをみると、両替商たちは着任早々の江戸町奉行など、まったく眼中にないといったかたちである。江戸町奉行といえば、江戸幕府の幕閣のなかで、もっとも大きな実務権限をもった有力者であるだけに、両替商たちのこの態度は異様なものにみえる。ではなぜ彼らはこのような傍若無人な態度をとりえたのであろうか。江戸時代の商人たちの流れをみると、はじめは封建権力と密着した初期特権商人と総称される御用商人たちが、その主流であった。(中略)


10.  〔 江戸期の両替商 ー金と銀との決済〕(←ウィキペディア参照)
 
 ところで、これらの商品を取り扱う商人のうえにたって、日本経済の実権を握っていたのが両替商である。すでに述べたように、当時は上方・西国の生産力は農・工業ともに関東より圧倒的に高かった。そのうえ海上交通の技術的な理由から、山陰地方はもちろんのこと、秋田・山形から新潟・富山・石川・福井にいたる裏日本一帯の諸物産は、西廻りで下関をとおって瀬戸内海にはいってきていたので、その中心地である大坂に問屋が蝦集し、ここを通して多くの商品が江戸に送りこまれていた。
 このことは当時の通貨体制からみると、銀経済圏の商品が金経済圏である江戸に送りこまれることになるので、本来別個の通貨である金と銀との決済が必要であった。この決済を担当したのが、上方を本拠とする両替商である。したがって両替商の支援なしでは、問屋たちも商業活動ができなかったのである。
 このように両替商は、有利な立場にあったうえ、資本そのものも抜群に大きかったので、彼らのなかには、たんに金銀の両替をするだけでなく、積極的に相場そのものを操作して巨利を握るものもでてきた。さらに商品相場のみならず、通貨政策そのものにまで力を及ぼすものさえあった。新井白石は「天下の利権は両替の者共の掌の中に落候」(『改貨建議』)といっているが、それはあながち誇張ともいえないのである。


11.  〔 三井高利ー金経済圏と銀経済圏との流通
   
 (江戸で)商品を売って得た通貨金を、銀に両替して(上方へ)仕入れの支払い

 江戸時代後半期において、日本最大の巨大商人資本の一つとして活躍した三井家は、伊勢松坂の出身である三井高利が、ほとんど一代で基礎をきずいた元禄期の新興商人であった。三井高利は伊勢松坂で、紀州徳川家をはじめとする大名貸、武家にたいする小口貸付、農村にたいする郷貸、米の売買などで資本をつくり、その資金をもって延宝元年(1673)江戸に進出し、本町一丁目に越後屋という屋号の間口9尺、店員10人ほどの呉服店(絹の衣類、または高級衣料店)をひらいた。
 この店は当時本町一帯に軒をならべていた呉服屋にくらべると、規模ははなはだ小さいものであった。しかしちょうどこの時期が農民的剰余にもとづく新しい商品流通の波が全国をおおいはじめていたときなので、三井高利はこの時流をつかんだ新しい商法を工夫して商売をひろげ、たかだが十数年のあいだに日本有数の巨大商人にのしあがったのである。
 ところで、この三井高利の大成功の原因として、「現金安売掛値なし」という引札(ちらし)をつかって不特定多数の顧客をつかむといったような、時流にのった卓抜な商法を採用したことなど、数えあげられる要因は多いが、江戸に間口9尺の小さな売店をひらくのにも、呉服物の産地である京都に仕入れ店を設けてかかったという、彼の周到さも見落すことができない。仕入れを他人にまかせていたとしたら、どれほどすぐれた商法を工夫したとしても、あれだけの大成功は望めなかったであろう。

 このように上方で仕入れて江戸で売るということは、銀で仕入れて金で売るということであり、逆にいえば商品を売って得た通貨金を、銀に両替して仕入れの支払いをするということになる。みずから両替部門をもつともたないとで、商業上の便益のみならず、利益そのものにも大きなちがいが生ずる。利にさとい三井高利がこの点を見落すはずがない。彼は延宝8年ころ江戸駿河町で両替業務をはじめ、天和3年(1683)に呉服店を本町から駿河町に移すと同時に、店の一部に江戸両替店を併設している。

 三井家の営業はまだこの段階には呉服商が中心だが、元禄時代にはいると急速に両替のほうに営業の比重を移してゆく。すなわち元禄2年(1689)には江戸両替店本両替仲間に加入し、江戸での両替商としての地位を確立するとともに、同4年には金銀御為替御用達といって、幕府の公金を扱う金融業者になり、大坂に両替店を開設している。このように三井家は呉服店で大をなすと、だんだん両替商に比重をうつし、利潤抽出の場を金経済圏と銀経済圏とのあいだの流通に求めるようになるのだが、このようなパターンは他の巨大商人の場合もほぼ同様であった。そして彼らのほとんどはその本拠を日本経済の中心地、とくに金融の中心地である京都においた。・・・以下省略・・・・

  金銀相場をめぐる闘い・・・(略)p.145



12. 大岡忠助 元文の貨幣改鋳   (←ウィキペディア参照) 元文元年(1736)5月 p.147

 大岡忠相が、物価問題解決のためにはどうしても貨幣改鋳が必要だ、と考えはじめたのはいつごろのことなのかわからない。しかし享保10年(1725)前後のころから、それを強く感しはじめていたのは事実であろう。
 貨幣を改鋳したいという大岡忠相ら評定所一座の申し出にたいして、吉宗は改鋳はしたくないと頑強に抵抗したが、当時吉宗がもっとも力をいれていた米価引上げのためには、貨幣改鋳がどうしても必要だと、大岡忠相らが執拗に主張してゆずらなかったので、とうとうおしきられて元文元年(1736)5月、貨幣改鋳は実施されることになった。大岡忠相は、「(吉宗は)御好は遊ばされず候へども、御吹替仰付られ候」と二度も日記に書いているが、結局は大岡のためにおしきられてしまった将軍吉宗の、若干おこったような、うんざりしたような顔が目に浮かぶようである。この改鋳は江戸町奉行の大岡忠相と勘定奉行の細田時以とが担当奉行で実施されるが、それはたぶん、「そんなにいうのなら、お前が責任者になってやってみろ」ということだったのであろう。


  銀安金高へ誘導
 この改鋳は、荻原重秀の実施した元禄の改鋳とほぼ同様のものであるが、ただ一つ異なる点は、慶長金銀の質を100とした場合、元禄の改鋳は金は67、銀は80となっているが、元文の改鋳は金は60、銀は58となっていることである。銀の質の下げかたが、金の質の下げかたにたいして、いちじるしく大きくなっているのが特徴である。そうすると、他の諸条件がかわらないとすれば、通貨金の銀にたいする比重(レート)は、自然と高くなるのが理の当然である。つまり通貨銀のレートを引き下げる起爆剤が、元文の改鋳のなかに仕込まれていたのである。これは江戸町奉行就任以来、銀の引下げに執念をもやしつづけていた大岡忠相としては当然の処置であろう。
 ところが実際にはそううまくはゆかなかった。というのは、享保の末年ころ、金一両にたいして、ほぼ銀60匁近くという好ましい線で安定していた金銀レートが、銀がより安くなると思いきや、逆に改鋳直後の元文元年六月には、元文金一両に元文銀が49匁余という、いちじるしい銀高相場になったのである。貨幣改鋳直後というような通貨の混乱期によくあることであるが、この機会にボロもうけをしようとたくらむ両替商をはじめとする巨大商人が暗躍したからであろう。
    〔 注:元文の貨幣改鋳ウィキペディア「貨幣改鋳他より〕


13. 大岡忠相の転出ー失敗ーと両替商たちの釈放

 これを両替商たちの操作のためとにらんだ大岡忠相は、同年6月25日、「なぜこのような銀高相場になったのか説明するように」と両替商たちに申しつげた。これにたいして両替商たちは適当な理由をならべたてた説明書を提出したが、もちろん納得のゆくものでなかったので、26日昼ころになって、大岡忠相は両替商たちにただちに出頭して説明するようにと命じた。ところがでてきたのは全部代理人だけで店主はI人もいなかった。なぜ店主みずからこないのかと質したところ、病気だとか、他出中だとか、旅行中だとかとのことであった。怒った大岡忠相は、「銀高相場なので説明を求めたのに、いっこうにまともな返事をせず、いいかげんなことをならべたてるのはけしがらぬ、代理人全員に入牢申しつける」と申しわたした。
 思いのほかの強硬措置におどろいた両替商たちは、さっそく貰受けの者をさしむけたが、ちょうど伝馬町の牢に送られる一行と途中ですれちがってしまい、成功しなかった。
 このとき大岡忠相のために伝馬町の牢にほうりこまれたのは、海保半兵衛代理人・平兵衛、伊豆甚代理人・徳右衛門、江島代理人・権七、三喜代理人・六右衛門、三勘代理人・儀兵衛、綿作代理人・藤蔵、三三代理人・権七、三忠代理人・庄七、三井代理人・助市、三源代理人・茂右衛門の10名であった。なお当日両替店中川も呼ばれていたが、店に不幸があったため、人をださなかったので、この店だけは入牢者をださずにすんでいる。
 翌27日、関係店はさっそく入牢者のために、規定によって着替の木綿袷・同単物・鼻紙二帖・銭200文の差入れをするとともに、全店のれんをおろして店を休み、同業店61名をつかって「両町両替屋たちが、手代を牢に入れられたので休店している。それでは自分たちの家業にまでさしつかえて困るので、入牢者を釈放してほしい」と大岡忠相に交渉させた。享保3年に休店して大岡をへこませた経験があるので、たぶんこれで成功するだろうとの計算だったのだろう。ところが「手代どもを調べているのに、店を閉めて金融をとどこおらすとは、不届き千万、そのような要求は聞けない」との強い返事であった。おどろいた両替商たちは、閉店していた店をその日のうちにまた開いている。
 ともあれ関係者たちは入牢者に見舞いの差入れをすること三、四度、その釈放を願いでること数十度、あらゆる努力を重ねたが、いっこうにききめがなかった。ところが、幸いなことに元文元年8月21日、大岡忠相が役替えになり、事件担当役が北町奉行稲生正武になった。稲生正武はさっそく両替商たちを呼びだし、「今度は許してやるから、これからは慎むように」と注意をあたえて、同月19日、53日ぶりに全員を釈放した。
 このときの状況を両替商の記録には、「無難に帰宅し、哀歓こもごも落涙におよぶ」と記している。このとき両替商たちがどれだけの裏面工作をしたかわからないが、即日、勘定奉行の松波正春(大岡忠相のあとをうけて江戸町奉行となり、のち大目付になっている)のところに御礼に参上しているところをみると、この松波と事件担当の稲生の両人に手をまわし、また彼らも両替商たちに好意的に動いたとみてよいであろう。
 また、まえまえから銀とならんで銭相場が高いことが問題になっていたが、同年9月1日になって銭相場がまたまた高くなったので、稲生正武掛りで取り調べたところ、銭屋(銭両替ともいい、銭の交換をして手数料をとる小資本の両替屋)たちが、銭を買い占めるなど不正を働いたためとわかったので、殿村佐五平、朝田久三郎、大和屋弥兵衛、村林善太郎、伊勢屋佐兵衛、越後屋五平次、油屋利兵衛、山崎屋助左衛門、山城屋平五郎、江島屋八郎兵衛、伊勢屋清五郎、伊勢屋仁兵衛、川喜田新七の13名に入牢を申しつけ、その罪状に応じて家財没収のうえ、遠島や江戸10里四方追放を申しつけている。このなかの大和屋弥兵衛というのは、銭屋と油屋を兼ねていたのだが、銭相場の高値をよいことに、油樽のなかに銭をつめて隠していたのがばれて、この処分にあったのである。


14.   寺社奉行に転出

 大岡忠助は享保2年(1717)から勤めていた江戸寺社奉行の職を、元文元年(1736)に退き、寺社奉行に転出する。19年6ヵ月、41歳から60歳までの、もっとも油ののりきった年齢を、江戸町奉行という激務についやしたわけである。(中略)
 彼が寺社奉行に転出したのは、全在職期間を通じて、しかも職をかけてまでがんばった、金銀相場是正のための両替商との闘いの最中であった。その結果、彼のために捕らえられていた両替店の手代たちは、事件の真相が解明されないまま、事件をひきついだ稲生正武の手によって無罪放免になっている。のみならず大岡忠助が転出したあとの江戸町奉行には、両替商や巨大商人のために奔走したとみられる勘定奉行松波正春がなっているので、大岡忠助の寺社奉行転出は両替商たちにとっては、万々歳というべきことであったろう。
 ・・・以下省略・・・・

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   徳川吉宗 寛延4年(1751)6月20日逝去。
      6ヵ月後、大岡忠助 宝暦元年(1751)12月19日逝去。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 三貨制度と江戸時代の両替商 
    (注:三貨制度の解説で誤りのものが見受けられるので、要注意。
       「両替商」の出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 1. 金・銀・銅(銭)の三貨制度
    「銭は補助貨幣としているHPがあるが、誤り。3つそれぞれが本位貨幣」

 2. 江戸期の両替商

 このように国内に三種類の通貨が同時に流通することとなり、これらの取引を円滑に行うためには通貨間の両替が必要となる。そこで1 - 2%程度の手数料を徴収して両替を行う商売が成立することになる。小判を一分判に、あるいは小玉銀を銭に換えるなど、使い勝手のよい小額の貨幣に両替する場合は切賃(きりちん)と呼ばれる手数料が発生し、少額貨幣から高額貨幣への両替手数料より割増されるのが普通であった。一方、少額貨幣を高額貨幣に両替する手数料が高額貨幣からの手数料より高くなる場合は逆打(ぎゃくうち)と呼ばれ、南鐐二朱判および一分銀を小判へ両替する場合などに逆打が見られた。
 
 銀座の所在地はしばしば両替町と呼ばれるようになる。また金座および銀座周辺では両替屋が集中し、金銀の売買が行われた。さらに貨幣改鋳の際には、金座および銀座に代わり旧貨幣の回収、交換の業務に関わった。このように同一国内で金貨、銀貨、および銅貨がすべて無制限通用を認められた。当時、本位貨幣という概念はなかったものの、金銀銅の三貨もいずれもが事実上の本位貨幣としての価値をもって流通し、それぞれが変動相場で取引された。

 〔 銀経済圏ー巨大資本の上方・関西財閥の影響力は江戸期を通じて抜群でした。これに対抗して、江戸中後期の荻原重秀や田沼意次などが幕府財政の立て直しに奮闘した歴史です。
 一方、三井高利など両替商と上方-江戸間流通の実体分析も急務です。『三井高利』や林玲子著『江戸と上方』(吉川弘文館)の編集準備中です。〕


 3. 資本論ワールド:大石慎三郎『大岡越前守忠相』のお勧め

  歴史科学と経済分析 ー類書との差別化は重要ですー
 近頃の 一般的な江戸時代の歴史書では、「江戸期の経済が封建制の分業ー士農工商ーという名のもとに、徳川幕府と商人・商業資本の立ち位置・経済ポジションを同列視に記述が”はやり病”となっています。」
 日本銀行と黒田日銀総裁の挙動ーー江戸時代の貨幣改鋳と出目政策の教訓ーーに注目しながら、大石慎三郎の歴史感覚は絶品です。

 4. 大石慎三郎による「江戸期歴史科学と経済分析」を踏まえて、三上隆三の「徳川幕府貨幣-価値形態論」の研究 へと進展されることを期待しています。




 ◆江戸期の両替商・商業資本 (参照データ)
  1. 鴻池善右衛門  慶長13年(1608)ー 元禄6年(1693)
  2. 三井高利    元和8年(1622) ー 元禄7年(1694)
    住友鉱山    元禄4年(1691)別子銅山の採掘開始
  3. 河村瑞賢    元和4年 (1618) ー元禄12年(1699) ー西廻り航路・東廻り航路開発ー
  4. 大坂堂島米市場  1697年頃に成立
  5. 『江戸と上方』(林玲子著 吉川弘文館2001年発行)

大岡越前守忠相2022.07.28
大石慎三郎『大岡越前守忠相』
巨大商人・商業資本との闘い(yk001-15)

江戸期年表
住友友以(二代目1607-1662)慶長12年(1607)—寛文2年(1662)
鴻池善右衛門 慶長13年(1608)— 元禄6年(1693)
三井高利 元和8年(1622)— 元禄7年(1694)

寛永14 1637 島原の乱(~38)
寛永16 1639 鎖国の完成。ポルトガル人が出島から追放される。
寛永18 1641 平戸オランダ商館を長崎出島に移す。

河村瑞軒 元和4年—元祿12年(1618-1699)

元禄3 1690 商館医ケンペル来日(~1692)

徳川綱吉 正保3年(1646)—宝永6年(1709)
柳沢吉保 万治元年(1659)—正徳4年(1714
荻原重秀 万治元年(1658)—正徳3年(1713年)

元禄11 1698 長崎会所設立

エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer, 1651-1716)

徳川吉宗 貞享元年(1684)—寛延4年(1751)
大岡忠助 延宝5年(1677)—宝暦元年(1752)

田沼意次 享保5年(1720)—天明8年(1788)
川井久敬 享保10年(1725)— 安永4年(1775)

杉田玄白(1733-1817)
安永3 1774 『解体新書』翻訳刊行

志筑忠雄 宝暦10年 (1760)—文化3年 (1806)
享和3 1803 ドゥーフ商館長となる。(~1817)


文政4 1821 伊能忠敬『大日本沿海輿地全図』完成
文政6 1823 ドイツ人医師シーボルト来日。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796-1866)
1840 アヘン戦争勃発