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第2部第3篇 大石慎三郎
『徳川吉宗とその時代』荻原重秀  

第2部第3篇 大石慎三郎『徳川吉宗とその時代』ー荻原重秀ー
   元禄大改鋳ー

 資本論ワールド編集部  2022.03.26

  *秤量貨幣(しょうりょうかへい)
   銀塊、金塊を使用にあたりその都度量目・重量をはかりにかけて確認する貨幣。
  *計数貨幣
   一定の形状・量目・品位(貨幣に含まれる金属成分など素材の割合)を持ち、貨幣   表面にその価値を示す刻印・数字があり、貨幣価値が保証されている貨幣。
  *名目貨幣
   貨幣の素材価値と無関係に、法令などにより表示された金額で通用する貨幣。

 徳川幕府は、財政再建を目的に貨幣改鋳(貨幣の品位・量目を劣悪化し、新しい貨幣を鋳造)を行ない”出目”(改鋳差益金)稼いだ。荻原重秀による1695年元禄改鋳では、5年半分の年貢量、金貨・銀貨の出目総額が906万両と伝わっている。
 田沼時代(1767-1786年頃)では、金銀の貨幣材料を輸入し、江戸時代の貨幣制度に根本的な変革―― 三貨制度の改革を行なった。江戸の金経済圏を基軸とした金貨と上方の銀経済圏を「金本位制」にリンクさせて一本化を押し進めた。以後、貨幣の大幅な品位低下が進み、名目貨幣化が定着した。
 これにより、三貨制度のもとでの金・銀・銅の「貨幣価値」と徳川幕府が発行する「金属貨幣価値」とが、大幅に乖離することになり、貨幣制度の名目化が定着した。。
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   .『資本論』第2章 交換過程
         第3章 貨幣または商品流通 c 鋳貨 価値標章.
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江戸時代の資本論

 元禄貨幣改鋳 荻原重秀

 大石慎三郎著『徳川吉宗とその時代』 江戸転換期の群像

 中央公論社1989年発行
    (1982年東京新聞出版局『江戸転換期の群像』を改題)

 ーー資本論ワールド編集部ーー
 
 *秤量貨幣(しょうりょうかへい)
  銀塊、金塊を使用にあたりその都度量目・重量をはかりにかけて確認する貨幣。
 *係数貨幣
  一定の形状・量目・品位(貨幣に含まれる金属成分など素材の割合)を持ち、
  貨幣表面にその価値を示す刻印・数字があり、貨幣価値が保証されている貨幣。
 *名目貨幣
  貨幣の素材価値と無関係に、法令などにより表示された金額で通用する貨幣。


 徳川幕府は、財政再建を目的に貨幣改鋳(貨幣の品位・量目を劣悪化し、新しい貨幣を鋳造)を行ない”出目”(改鋳差益金)稼いだ。荻原重秀による1695年元禄改鋳では、5年半分の年貢量、金貨・銀貨の出目総額が906万両と伝わっている。

 田沼時代(1767-1786年頃)では、金銀の貨幣材料を輸入し、江戸時代の貨幣制度に根本的な変革―― 三貨制度の改革を行なった。江戸の金経済圏を基軸とした金貨と上方の銀経済圏を「金本位制」にリンクさせて一本化を押し進めた。以後、貨幣の大幅な品位低下が進み、名目貨幣化が定着した。
 これにより、三貨制度のもとでの金・銀・銅の「貨幣価値」と徳川幕府が発行する「金属貨幣価値」とが、大幅に乖離することになり、貨幣制度の名目化が定着した。
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    →『資本論』第2章 交換過程
          第3章 貨幣または商品流通 c 鋳貨 価値標章.
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 大石慎三郎著『徳川吉宗とその時代』 江戸転換期の群像

  第3部 荻原重秀と松波勘十郎
  
  *荻原重秀 1658-1713 元禄9年(1696)徳川幕府 勘定奉行.
        元禄8年 元禄金・銀を改鋳. 正徳2年(1712)新井白石により失脚


 7. 日本最初の政策官僚 荻原重秀

 将軍綱吉前期の主宰者を堀田正俊とすれば、後期の政治を主宰したのは柳沢吉保と荻原重秀である。正俊が譜代名門の出自とすれば、吉保と重秀とに共通していることは、出自は卑しいが二人とも大変な才人ということである。とくに荻原重秀は非常な経済通であって、おそらく日本で最初の、政策をもって政治に立ち向かった人物(政策官僚)といえよう。
 重秀は幕府の勘定方に属する家に生まれた。それもせいぜい百石くらいの小身の家である。当時の幕府の行政組織では、下級の役人は家職の制といって、町方は町方、勘定方は勘定方というように、世襲のような形でおのおののセクションに属していた。町奉行所・勘定奉行所といった各セクションの長官には、これら下僚とは異なって、より高い家格に生まれた人がなることが、最初から決まっていたのである。
 綱吉は前述のように堀田正俊に勝手掛老中というポストを新設して経済問題を専管させた。このことでわかるように、極めて経済問題を重視した将軍であった。この点、世俗的通念とは大分異なっている。

さて勘定所とは、天領約四百万石を支配するとともに、そこからの年貢収納事務を行い、また幕府の財政を司り、その収支いっさいの業務を行う役所である。そしてその長官である勘定奉行は、寺社・町・勘定というように三奉行の末席につらなるが、実質上の職務内容は三奉行のなかで最大といえるものを持っていた。
 綱吉はこのポストについても、経済問題を家職とした生粋の経済通が勘定奉行になれないのはおかしい、というので勘定方の中でも有能者は勘定奉行になれる道を開いた。この制度改正がなかったら、さすがの荻原重秀も元禄時代を代表する政治家として歴史に登場することはできなかったろう。この点、側用人制度が新設されたおかげで、日本歴史に登場しえた柳沢吉保とよく似ている。荻原重秀は荻原十助種重の二男で、父ももちろん勘定所の下役であった。重秀は延宝二年(1674)に勘定所に出仕するようになり、150俵の給米をもらっている。延宝五年、幕府は畿内一円の大検地を行うが(これを“延宝検”という)、重秀はこの検地に派遣されて参加、また天和元年(1681)“磔茂左衛門事件”と関連して失政を問われて改易された、沼田城主真田信利の領地請取役として現地に出張している。
堀田正俊が幕府財政立て直しのため、総代官の年貢収納事務を監査したことは先述したが、それについては「荻原重秀があるとき、ただ一人将軍に召し出されて、諸代官の帳簿検査をはじめ、勘定方にかんするすべての検査を、お前一人の分別と才覚でもって遠慮なく思う存分にやるように命ぜられてやったのだ」(『御当代記』)という説もあり、勘定方に荻原重秀ありという声は、早くから高かったようである。
 しかし、日本最初の政策官僚としての重秀の活躍は、綱吉後期に行われた通貨改革からである。
 元禄八年(1695)、幕府はそれまで通用していた“慶長金銀”を改鋳し、それにくらべて金で約33パーセント、銀で約20パーセント品位の劣る“元禄金銀”を発行した。これは荻原重秀の発議と責任とで行われたものであるが、この改鋳がのちに重秀悪評の原因となっている。すなわちこの改鋳は荻原重秀が銀座商人たちから賄賂をもらって行ったものであり、幕府自身は出目(改鋳差益金)を稼いで一時的に財政難をしのぐことができたが、民はそのために引き起こされた物価高に苦しんだ、というのである。


 8. 江戸時代の通貨制度

 元禄八年(1695)の改鋳をもって不正不善の行為とし、綱吉政治の失点として数え立てる説は改鋳直後から今日まで続いてきている。いわば歴史学の定説のようなものであるが(とくに新井白石がもっともそのことを強調している)、どれも歴史にたいする理解不足か、ためにする論議といわざるをえない。以下そのあたりの事情について述べてみよう。

 まず荻原重秀が銀座商人から賄賂をとって改鋳に踏み切ったとする非難の検討に入る前に、江戸時代の通貨制度を簡単に説明しておこう。三貨体制といって金・銀・銭の三つが、江戸時代の基本通貨であった。金は貴金属である金を主成分とした鋳造貨幣で、両・分・朱による四進法で計算されていた。銀は秤量(ひょうりょう)貨幣で、幕府の認可を得て銀座でつくった銀の塊を、秤で計ってそれを貨幣として使っていた。したがって重さの単位の貫・匁が、貨幣としての銀の呼称単位に使われていた。銭はふつう「寛永通宝」という名で知られている鋳造貨幣で、銅を主成分としており(鉄の場合もある)、貫文単位で計算されていた。
 三貨のうち金は主として関東を中心として東国圏で使われ、銀は京・大坂など上方を中心とした西国・裏日本で使われていた。銭は、金・銀が大きな商取引などに使われる高額貨幣であるのにたいして、庶民が日常の買い物などに使う小額貨幣であった。この金・銀・銭はおのおの独立した通貨であって、明治以降の日本の通貨である円・銭のように、同一体系に組み込まれた通貨ではなかった。したがって三者の交換を円滑にするために毎日相場が立ち、その比率は絶えず変動していた。幕府は慶長十四年(1609)に金一両=銀50匁=銭4貫文という公定相場を決め、三貨がそのような相場で通用することが好ましいとしている。ただしこの公定相場は荻原重秀の手によって元禄十三年(1700)に金一両=銀60匁と改訂されている。なお諸藩のなかには幕府の許可を得て、領内に限り通用する紙幣、藩札を発行するものもあった。

さてこれら江戸時代の通貨は、今日のそれのように政府機関が直接、鋳造発行するのではなかった。金は金座、銀は銀座、銭は銭座というように、特定の商人たちにその発行を請け負わせるのである(ただし銭座は金・銀座がこれを代行したことが多かった)。彼ら鋳造請負人は分一(ぶいち)といって、鋳造高の何分の1といったように、一定の比率で手数料を取り、それが彼らの主たる収入になっていた(銀座の場合は3パーセントであった)。したがって江戸時代初期の大量鋳造期が終わると、金・銀座の収入はだんだんと減少し、なかには生活に困窮するものも出るありさまであったので、彼らが当時、賄賂を贈ってでも改鋳を実現したい、と考えていたのは事実であろう。しかし、そのことと重秀の収賄とは直ちには結びつかない。
そもそもこの説は正徳四年(1714)、新井白石によって行われた″銀座手入れ″のときに逮捕された銀座商人の自白から暴露されたとされている。しかしこの事件は、たとえば銀座年寄深江庄左衛門・中村四郎右衛門・関善左衛門・細谷太郎左衛門が家財没収のうえ流罪、中村内蔵助(尾形光琳のパトロン)が家財没収のうえ追放……といったように、銀座始まって以来の大事件でありながら、召捕り、家宅捜索と判決の申し渡しが、その日のうちになされているなど、不審な点の多い事件である。むしろこの事件は諸般の事情から、事件後二日目に出された新井白石の“正徳の改鋳”の触れのために仕組まれたデモンストレーション(疑獄事件)のにおいが消し難いのである。今後に残された問題である。


 9. 5年半の年貢量を一気に稼ぐ
 
 元禄の改鋳にたいするいま一つの非難は、この改鋳は幕府が自己の財政難を改鋳差益金(出目)によって補填するため、民の苦痛に目をつぶって強行したものだ、ということである。
 江戸時代中期の幕政の裏話を書いた『三王外記』という本は、元禄の改鋳の事情を次のように説明している。将軍が初めて職につくと、まず日光東照宮に参詣するのがこれまでの慣例であった。綱吉も将軍になり、それを期待していたが、いつまでたってもその話がないので、老中にそのわけを聞くと、目下幕府はたいへんな財政難で、日光社参に必要な10万両の金の調達ができない、ということであった。綱吉は非常に残念に思って、何とか方法はないものか、とたえず財政当局に催促していた。そこへたまたま荻原重秀が貨幣改鋳案を持ち出し、慶長金銀を鋳直し、それに銅・鉛などを加えれば、通貨量も増し、幕府にも出目(改鋳差益金)が入ってたいへん得だと勧めたので、それは良い案だと実施に踏み切ったというのである。
 真偽のほどを確認する手だてを持たないが、元禄の改鋳を、出目をねらってのものである、とする説は、元禄の次の政治を担当した新井白石も唱えている。すなわち彼は、6代将軍家宣に元禄金銀を改鋳してもとの慶長金銀に返すべきだと建言するが、そのなかで「(元禄金銀は)通貨量を増すためだなどといっているが、真実は出目を稼ぐためである……」と書いている。

 ではこの改鋳で幕府はどれくらい出目を得たのであろうか。新井白石は『白石建議』のなかで、それは金の方で約450万両くらいだろうと計算している。では銀の方はどうであろうか。元禄の改鋳というのは、銀についていえば“元禄銀” “宝永二ツ宝銀” “宝永永字銀” “宝永三ツ宝銀” “正徳四ツ宝銀”と連続する5回の改鋳があり、それらを合わせての出目総額が『銀座書留』によると27万3598貫目となっている。いま仮に金一両を銀六十匁として計算すると、銀による出目は約456万両となる。これに金の出目約450万両を足すと、出目の総額は約906万両ということになる。
 さて天領400万石からの年貢を四公六民で計算すると160万石、それをさらに一石=一両と計算すると160万両となるので、この出目は幕府の年貢総収入の約5.65倍ということになる。約5年半分の年貢量を一挙に稼いだのだから、この改鋳による出目はたいしたものである〔編集部注〕。

 若干くどいようだが、これを幕府が一番豊かであったと考えられている明暦大火(明暦3年1657年3日月2日~4日の大火)前の段階にくらべてみよう。先に述べたように、明暦大火段階に幕府が持っていた金銀通貨は金に直して約386万両余ということになる(ただし非常用の別途分銅金銀は除く)。とすると幕府が一番豊かだとされている時の保有金銀通貨の約2.3倍ものものを改鋳で稼ぎ出したことになる。
 これらのことから推して、幕府が改鋳によって莫大な改鋳差益金を得たということは、まぎれもない事実である。そして将軍はじめ幕府首脳部が大変喜び、荻原重秀を頼りがいのある男と見たのも疑いないだろう。重秀はたかだか百石ほどの下級旗本の出でありながら、改鋳の翌年3千石クラスの上級旗本の職とされる勘定奉行に出世している。
 しかし出目を得ること、すなわち貨幣の質を悪くしてその量をふやすことが、果たして悪いことであるかどうか、またそれが庶民の利益を無視したものであったかどうかというと、それはまた別の問題である。


 10. 改鋳不当論の誤り

 元禄八年(1695)8月、幕府は金銀改鋳にあたって、その理由として二つのねらいをあげている。その第一は「金銀通貨に押している極印が古くなったので」新しくつくり変える必要がある、ということである。慶長金銀は金の方が純度84.29パーセント、銀が80パーセントというように高純度だったので、流通しているうちにだんだん摩滅して欠損通貨になったり(こんな金貨を“切れ金”“軽目金(かるめきん)”という)、また幕府の正貨であるしるしとして打たれている極印が、すり減って判別しかねるものが少なくなかった。〔編集部注〕

 この時代は最初の慶長金銀が鋳造されてからすでに百年近くたっているうえに、経済規模が拡大し貨幣の流通速度が速くなっているので、欠損通貨が多くなっていたのは当然のことであるが、またそのことが同時に円滑な経済の発展を妨げるようにもなっていたのである。当時の社会は欠陥のない、信頼できる通貨を待ち望んでいたのであるから、このねらいは理に叶っている。
 第二のねらいは「世間の通貨を多くする」ことにあり、そのため「金銀の品位をなおす」というのである。そもそもその社会の経済の規模が大きくなれば、それに見合うように、その社会の通貨量を多くする必要がある、というのは経済の常識というものである。封建領主をはじめとする武家階層を軸とする領主的商品流通のうえに、年貢率の配分関係の変化にともなう農民を軸に展開した農民的商品流通がプラスされた経済体制下の元禄という時代は、当然のことであるがそれまでより多くの通貨量を必要とした。

 このような経済の変化を洞察して、それに見合う通貨を発行し、経済を円滑に運営することこそ為政者の責務というものである。したがって元禄の改鋳で幕府が通貨量を増やしたことは、ほめられてしかるべきであって、けっして非難さるべきことではないのである。ではこのとき重秀はどれくらいの割合で通貨量を増やそうとしたのであろうか。田谷博吉氏の『近世銀座の研究』(昭和38年刊)によると、それは金で50パーセント増、銀で25パーセント増ということになっている。ただしこの数字の適正度についての検討は、現時点では史料その他の関係からいって不可能に近いので、論評することはできない。
 さて以上のような理由から、重秀は元禄の改鋳で通貨量の増加を果たしたのだが、その実現手段として、通貨の品位をなおすという方法をとった。すなわち品位=貴金属の含有量をなおす=変化させる、つまり品位を落としたわけである。
 このことをとらえて良貨を悪貨に置き換えたとして、日本の歴史学者は新井白石以来ずっと、この元禄の改鋳を非難し続けてきているのだが、当時の日本の状況からいえば、それはやむを得ないのである。というのは通貨の地金になる金銀は、金銀鉱山がすでにほとんど枯渇しているのでそこからの期待は持てず、また既産出の金銀ストックも当時はほとんど完全片貿易のような貿易をしていたため、大量に海外に流出してしまっていたから、元禄という時点で通貨量を増やそうとすれば、どうしても従来の通貨の質を落とす以外に方法がなかったのである。

 いま一つ問題がある。それは新井白石をはじめ多くの学者が非難するように、そもそも通貨の質(品位)を落とすことがほんとうに悪いことであろうか、ということである。彼らは現在のような、紙に一万円と印刷するだけの通貨をどう見ようというのであろうか。
 そもそも経済学的にみて、通貨とはそれを通貨として見なそうという社会的通念(許容)と、その通貨の発行者にたいする信頼があれば成立するもので、その質(品位)は、その量やら発行主体の信頼度ほど重要ではないのである。そして歴史的に見ても、通貨はそれ自体、価値ある物から象徴へと移行するものである。したがって荻原重秀のこのときの策は、結果的に幕府に大きな出目をもたらしたにせよ、それ自体決して間違っていない。というよりむしろ当を得たもの、ということになるのである。〔編集部注〕


 11. 楽でなかった武士の台所

 次に、元禄の改鋳は物価騰貴をひき起こして庶民を苦しめた、という非難を検討してみよう。
 そもそも通貨とは、それ自体の持っている価値と等価のものを交換するというところから出発しているので、その中に含んでいる価値物(ここでは金銀など貴金属)の品位が落ちれば、その比率だけ物価が上がるのは理の当然というべきである。しかし元禄の物価上昇は貨幣改鋳のためではなく、もっと構造的なものに由来しているのである。
江戸時代の初頭ごろには前述したように、幕府の年貢収納率は六公四民を少し上回っていた、と考えられるが、4代将軍家綱の中ごろには約四公六民に逆転していた。そのことは農民側からみれば、年貢納入後の剰余が増えることで、それが満ちてくる潮のように、少しずつだが力強く庶民経済を向上させて行ったのである。
 拡大されていく消費は商品の増産意欲をそそるのはもちろんだが、当時は需要が増えたからといって、すぐその品を増産できるような社会体制ではなかったので、物価はこの時代にあっては消費の増加につられてどうしても上がり気味であった。しかし、この時代の物価上昇の一番大きな原因は労賃の上昇によるものであった。私は元禄時代は経済史的に見れば“賃銀革命の時代”とも名付けられると考えているが、その理由は次のようである。
 江戸時代のはじめ約50年くらい(4代将軍家綱のはじめごろまで)の、六公四民という幕府の年貢徴収率の基本的な考え方は、農民からほぼ″生かさぬよう・殺さぬよう”全剰余労働部分を取り尽くすものであった。したがって年貢を納めたあとには何も余分に残っていないから、農民は年貢納入などに困れば(田畑には質入れ価値がない)、まず子供を質に入れ、それが質流れになるとこんどは女房を、それも質流れになると、今度は自分自身を質入れして、ついに自分も流れてしまうというありさまであった。このようにして当時は、社会の底辺に一段と低廉な労働力が多量に滞留していたわけである。しかし、年貢徴収率が四公六民と逆転して、農民に余裕が出てくると、今までのように困ったからといって、すぐ妻子を質入れするようなことが少なくなる。その結果として低廉労働力の供給が減るため、労賃は当然上昇してくるわけである。
 そのことは当然、職人の場合は製品値段に上乗せされ、商人の場合は取り扱い商品の値段に上乗せされて物価上昇となるわけである。しかし物価が上昇するといっても、この場合は収入もまたそれにつれてよくなるという性格のものだから、実際には我慢できるものであったが、一つだけ、このような物価上昇が我慢ならない社会階層があった。それが武士である。

 武士は収入が固定して増えないうえに、幕府の定めた規定(軍役規定)に従って、たとえば百石の旗本は五人、百五十石は六人といったように、その家禄に応じた数の家来を私費で養い、また下男・下女を一定数かかえて、家格相応の生活を保っておく義務があった。下男・下女だけではない。武家の使用人の中の足軽・仲間(ちゅうげん)など下級者も農民から雇うのが一般であった。だから先記のような理由で農村からの労働力の供給が減少すると、彼らの労賃も上昇し、これが武家経済を強く圧迫したのは当然のなりゆきである。しかもこの場合は、商人・職人のようにそれを他に転嫁するところがなかったので、その被害をもろに受けたのである。
 こんなわけで、元禄の物価高の波を最も深刻に受けたのは武士階層であり、そのやりどころのない不満の矛先が、これは柳沢吉保や荻原重秀ら小身の成り上がり者のせいであるというように、あらぬところへそれて行ったのである。


 12. 荻原、破格の栄進

 元禄の改鋳を終えた荻原重秀は、その功績もあって同八年(1695)十二月に千石の加増、同九年四月には勘定奉行に栄進したうえ、さらに250石の加増を受けて二千石となり、十二月には従五位下近江守に叙せられた。側用人柳沢吉保の陰にかくれて目立たなかったが、たかだか150俵の給米取りの勘定方の下僚から出発した者としては、破格の出世であった。このあと彼は名実ともに幕閣の中心人物となり、幕府の実務をとりしきるとともに、自ら長崎(2度)、上方にも出向するなど縦横無尽に活躍している。
 宝永六年(1709)、将軍綱吉が死亡、6代家宣の代となる。このとき側用人柳沢吉保は隠居して政治の表面から姿を消す。しかし荻原重秀の方は「不念の事ありて拝謁をとどめらる」こともあったが、そのまま勘定奉行の要職にとどまり、宝永七年十二月にはまたまた500石加増されて、都合3700石の上級旗本になっている。彼の経済運営能力が抜群で、他人が代行できなかったからだが、この少し前から新井白石の執拗な重秀罷免運動が続いていた。
 新井白石は将軍家宣に重秀のことを「天地開けてから此かた、このような姦邪の小人はいまだ聞いたことがない。このことは三十余年の間、六十余州の中、知らぬ人もないほどである」とまで極言してその罷免を要求したが、家宣は「彼(重秀)は徳はないが才のある人物である。才徳ともに備わった人物などはそうあるものではない」といって白石の要求をとりあげようとしなかった。しかし白石は手をゆるめず、将軍家宣に重秀の罷免を要求すること三度、「もしこの要求がいれられない場合は、自分は重秀を殿中で刺し殺すであろう」とまでいって将軍を脅迫、ついに正徳二年(1712)九月十一日にその追い落としに成功している。なお将軍家宣はその直後に病に伏し、やがて死去するが、重秀も一年後の同三年九月二十六日に死亡している。獄中で自殺したとも、殺されたとも、諸説あって定かでないが、ともかく普通の死でなかったことは確かである。
 ではなぜ新井白石は荻原重秀にこれほど執拗に敵対したのであろうか。この問題は普通、白石の剛直狷介(けんかい:頑固で他人と妥協しない・・・)で正義感の強い性格から説明されている。しかし、白石といえども一個の政治家である。単なる感情や正義感のみで動くはずがない。こう考えてくると一つ思いあたることがある。それは政策基盤というか、その代弁する社会階層のちがいである。

 荻原重秀の通貨政策には、これまで説明してきたほかにいま一つねらいがあった。それは江戸市民のための物価安定策であった。当時の日本では関東・東国は著しく生産力が低く、したがって江戸が百万都市になった元禄時代には、上方・西国筋(銀経済圏)からの物資輸送が順調に行かないと、江戸の物価は安定しない仕組みになっていた。当時、幕府は前述したように金と銀との公定換算率を金一両にたいし銀50匁としていたのを、荻原重秀は金一両に銀60匁として、それまでより20パーセントだけ有利に江戸に物資が入るようにしようとしたのである。それについて重秀は、幕府の支払いを金一両に銀60匁の換算率で行う一方、民間もこれに習わせるとともに、銀の品位切り下げによって実現しようとした。すなわち68パーセントの銀の含有率を持つ元禄銀を、50、40、32と次第に切り下げて、最後に20パーセントにまでしている(四ッ宝銀)。
 しかしこのような銀の一方的な品位の切り下げは、上方に本拠をおく日本の巨大資本には我慢ならないことであった。そしてその意向(利害)を代弁したのが新井白石であった。彼は重秀を追放すると、通貨をさっそく元禄の改鋳以前のところに返している。
これが正徳金銀である。
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