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  3. 田沼意次の時代と新貨幣(ek002-06)

第2部第3篇 田沼意次の時代と新貨幣  (ek002-06)

第2部第3篇 田沼意次の時代と新貨幣
   銀貨幣ー秤量貨幣から係数貨幣化

 資本論ワールド編集部  2022.03.26

  *秤量貨幣(しょうりょうかへい)
   銀塊、金塊を使用にあたりその都度量目・重量をはかりにかけて確認する貨幣。
  *計数貨幣
   一定の形状・量目・品位(貨幣に含まれる金属成分など素材の割合)を持ち、貨幣   表面にその価値を示す刻印・数字があり、貨幣価値が保証されている貨幣。
  *名目貨幣
   貨幣の素材価値と無関係に、法令などにより表示された金額で通用する貨幣。

 徳川幕府は、財政再建を目的に貨幣改鋳(貨幣の品位・量目を劣悪化し、新しい貨幣を鋳造)を行ない”出目”(改鋳差益金)稼いだ。荻原重秀による1695年元禄改鋳では、5年半分の年貢量、金貨・銀貨の出目総額が906万両と伝わっている。
 田沼時代(1767-1786年頃)では、金銀の貨幣材料を輸入し、江戸時代の貨幣制度に根本的な変革―― 三貨制度の改革を行なった。江戸の金経済圏を基軸とした金貨と上方の銀経済圏を「金本位制」にリンクさせて一本化を押し進めた。以後、貨幣の大幅な品位低下が進み、名目貨幣化が定着した。
 これにより、三貨制度のもとでの金・銀・銅の「貨幣価値」と徳川幕府が発行する「金属貨幣価値」とが、大幅に乖離することになり、貨幣制度の名目化が定着した。。
  ..................................................................
   .『資本論』第2章 交換過程
         第3章 貨幣または商品流通 c 鋳貨 価値標章.
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 1. 大石慎三郎『田沼意次の時代』
 
 第3章 田沼意次の政策
   3 通貨の一元化政策 〔金・銀貨幣制度の一元化〕
    ・・・材質は銀で造った金貨ー明和五匁銀と南鐐二朱判・・・
〔目次〕
〔1.江戸時代の金・銀・銅の三貨制度〕
〔2.金一両=銀50匁(=銭4貫文)から金一両=銀60匁へ〕
〔3.「明和五匁銀」銀貨幣の定量化〕
〔4.江戸時代の銀行業務ー両替商〕
〔5.以南鐐八片換小判一両・・・南鐐銀=小判一両の定量・計数貨幣化〕
 〔編集部注1〕
〔6.著しい金銀銭相場の変動〕


 2. 東野治之『貨幣の日本史』 朝日新聞出版1997発行

   田沼意次の新貨幣
   詳細目次
 1. 田沼の改革
 2. 田沼の金銀輸入策
 3. 名目貨幣の定着
 4. 銅銭も名目貨幣に
 5. 大型銅銭、天保通宝

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 明和二(1765)年九月に発行された「明和五匁銀」と、安永元(1772)年九月に発行された 「南鐐二朱判」とは、江戸時代通貨史のなかで、特異な位置を占める通貨である。それは江戸時代の封建的通貨体制から、明治四(1871)年五月の「新貨条例」によって成立をみた、近代的通貨体制への接点をなすもの、という位置づけをすることができよう。
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  〔資本論ワールド編集部注1〕
 「江戸時代通貨史のなかで、特異な位置を占める通貨」である「明和五匁銀」と「南鐐二朱判」を「貨幣の価値形態」の研究材料と考察を行なってゆきます。「江戸時代の資本論」の最大のテーマです。『資本論』第1章第3節価値形態または交換価値の具体的検証作業の格好の題材となっています。すなわち「価値の形態化」として「「価値の形式Wertform」を把握してゆきます。

      『資本論』第2章 交換過程
            第3章 貨幣または商品流通 c 鋳貨 価値標章
      → [第3部 貨幣改鋳と価値形式Wertformの変容]。
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 大石慎三郎
『田沼意次の時代』    2021.12.20

  岩波書店 1991年発行

   第3章 田沼意次の政策
   ー〔江戸時代の金経済圏と銀経済圏〕-
 3 通貨の一元化政策 〔金・銀貨幣制度の一元化〕
    銀貨幣ー秤量貨幣から係数貨幣化
   ・・・材質は銀で造った金貨ー明和五匁銀と南鐐二朱判・・・
 
〔目次〕
 第3章 田沼意次の政策
〔1.江戸時代の金・銀・銅の三貨制度〕
〔2.金一両=銀50匁(=銭4貫文)から金一両=銀60匁へ〕
〔3.「明和五匁銀」銀貨幣の定量化〕
〔4.江戸時代の銀行業務ー両替商〕
〔5.以南鐐八片換小判一両・・・南鐐銀=小判一両の定量・計数貨幣化〕
 〔編集部注1〕
〔6.著しい金銀銭相場の変動〕


  『田沼意次の時代』第3章 田沼意次の政策

 〔1.江戸時代の金・銀・銅の三貨制度〕

 そもそも江戸時代の通貨制度は、三貨体制といって、金・銀・銭といったおのおの独立した貨幣よりなりたっていた。金は両・分・朱の四進法による鋳造定量・計数貨幣で、その主成分は金であった。銀は銀の塊そのものを重量の単位である貫匁ではかられる秤量貨幣で、その主成分は銀であった。銭は貫・文という十進法単位でよばれる鋳造定量の計数貨幣で銅が主成分であった(ただし鉄を主成分とした鉄銭も一時期であるが鋳造されている)。
 ところでこの三貨のうち金と銀とは、日本経済の基幹活動に利用される高額貨幣であり、両者の間にはおおまかではあるが、金は江戸を中心とする関東、および東国・中部地方、銀は京・大坂を中心とする畿内、および西国(中国・四国・九州)・日本海地域で通用するといった、通用区域にちがいがあった。銭は小額貨幣で、金・銀のように通用区間に別なく、全国共通に使用された。
 通貨としての金と銀とが通用区域を異にすることの理由は、同じ日本であっても、金が通用する関東・東国・中部地区と、銀が通貨として通用する畿内・西国・裏日本地域とでは、経済圏が異なるからで、前者を私は金経済圏、後者を銀経済圏と名付けている。


 〔2.金一両=銀50匁(=銭4貫文)から金一両=銀60匁へ〕

 ところで、このように金と銀とでそれが代表する経済圏を異にするということは、通貨金と同銀との力は、各々それが代表する経済圏の経済実勢を反映するということで、したがって両者の比価はその実勢を反映して、時々刻々変動しており、またそれにつれて銭の相場も変動していた。つまり江戸時代に通用していた金・銀・銭の三貨は単位の異なる同一通貨ではなく、全く別個の独立した通貨だったのである。
 しかし金・銀・銭がおのおの別個の通貨であるとはいえ、その相互比価がたえず変動するのは、日本経済のために好ましくないので、幕府は出来うればこうあってほしいという、希望公定価格を設定した。それは金一両=銀50匁=銭4貫文ということであった。しかし寛文期ころ(寛文元年は1661年)から、金一両にたいして銀が次第に低落気味であったのと、江戸市中の物価安定には、金に対して銀が安値でおちつくのが好ましいという、幕府当局の意向も加わって、元禄十三(1700)年には、幕府の支払いは金一両にたいして、従来のように銀50匁の公定相場ではなくて、60匁とするので、世間もそれに習うようにと触れている。そして金・銀・銭の希望公定相場も、金一両に銀60匁、銭4貫文と改訂した。ただしこれはあくまで幕府の希望する公定相場であって、実勢相場はそれと大きく乖離することが多く、現実に何とかこの相場近くに安定させることができたのは、それより40年近くののち、江戸町奉行大岡忠相が実施した元文元(1736)年の「元文の改鋳」によってであった。
 さて通貨金と銀との比価は、幕府の定めた新しい希望公定相場である金一両に銀60匁を軸としてほぼ安定するが、しかし両者はあくまで別個の通貨であるという体制のままだから、両者間の実勢相場は時々刻々と変動していたことは以前の通りである。一方、時代はこのような通貨制度が創出された江戸時代前期より前進し、元禄・享保時代を経て田沼意次が政治に発言権をもつような時代になると、封建社会本来の自給自足経済というより交換経済社会に、また米遣い経済社会というより、銭(貨幣)遣い経済社会に移行していた。したがって米はどこの地域の米も、あくまで米という同一物であるように、通貨はあくまで通貨として一本化されるほうが、経済の実態により則しているという事態になっていた。


 〔3.「明和五匁銀」銀貨幣の定量化〕

 このような時代の要求に答えるものとしてうち出されたのが、通貨銀を通貨金に直接的に連動させた「明和五匁銀」であった。「明和五匁銀」は、明和二(1765)年九月に発行された徳川時代最初の定量・計数銀貨幣である。量目は五匁(18.75グラム)、品位は元文銀と同じ1000分の460で、表面には「文字銀五匁」、裏面には「常是」の文字が、また側面には小花形印が打たれた鋳物製の銀貨であった。文字銀というのは元文元年に鋳造された銀の意で、五匁銀の名のごとく、幕府が定めた金銀の公定相場、金一両に銀60匁にしたがって、その12枚をもって金一両として授受するように指示されていた。

 この通り実行されると、金と銀というように材質は異なっていても、両通貨は一本化されそれは田沼時代という高度に経済発展をとげた社会に適合的な通貨であった。しかし理にかない時代に適したものだからといって、すんなりと社会に受け入れられないのが、また歴史的現実というものであった。まず人々は150年余もなじんできた従来の通貨体制を直ちには捨てようとしなかった。のみならず、それに大きく利害のからんでいる両替商たちは猛然と反対した。


 〔4.江戸時代の銀行業務ー両替商〕

 両替とは金・銀・銭など種類を異にする通貨を交換することであるが、江戸時代には金融機関実務を兼ねた両替商が、江戸・大坂・京都の三都をはじめ、城下町をはじめとする主要地方都市にも発達、わが国経済の中枢機能をはたすようになっていた。なかんずく大坂および江戸には両替商がもっとも発達、三貨の両替のほか幕藩領主の公金取扱い、為替・預金・貸付け・手形の振出しなど、今日の銀行類似業務を営んでいた。大坂には本両替(その取締り役として十人両替がある)・南両替・銭両替(三郷銭屋仲間)があり、江戸には本両替のほかに脇両替とよばれる銭両替商があった。
 彼らは本来前記のような業務を行なっていたが、元禄八年の貨幣改鋳以降は、それによって相場が騰落するのを利用して金もうけをするのが一般化していた。
 こんなわけで、「明和五匁銀」の発行を契機に、金と銀とがこれまでのように異なる通貨ではなくて、連動する一つの通貨となることは、彼らの生死にもかかわるものであった。ために幕府の令に反して商人たちは五匁銀にも、丁銀・豆板銀同様の相場をたてたので、幕府の意図どおり五匁銀12枚=金一両といった通用のしかたをせず、安永元(1772)年までの8年間に1800貫目の鋳造をしたのみで、その生命は終った。


 〔5.以南鐐八片換小判一両・・・南鐐銀8個で小判1両と交換〕
 
 ・・・南鐐銀=小判一両の定量・計数貨幣化
    すなわち材質は銀で造った金貨(編集部注1参照)〕

 つぎの「南鐐二朱判」であるが、これは「明和五匁銀」の失敗にもめげず、幕府が再度発行した定量・計数銀貨幣金貨のように鋳造して単位価値を明記した銀の貨幣)で、発行は安永元(1772)年九月である。この貨幣は寛政十二(1800)年に量目をわずかにへらしたものが発行されるので、それと区別するために「明和南鐐」とよぶことがある。安永元年の発行であるのに何故「明和」を冠するかということであるが、それはこの貨幣が発行されたときは、まだ安永と改元されておらず、厳密にいえば明和九年を称していたからである。

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 表面に「以南鐐八片換小判一両」の文字を二行に打刻しており、裏面にはこれも二行に「銀座常是」の文字をいれ、その上に子持分銅を、さらにその左横に「定」という字の極印をきざんでいる。そして側面には「明和五匁銀」に用いた小花形印がうたれている。表面の文字は、南鐐二朱判八片で金一両に交換する、という意味で、これは銀で出来ているが、金で鋳造されている二朱金と同一通貨であるわけで、実態は「明和五匁銀」の理念をさらに進めて、これは材質は銀で造った金貨なのである。
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 なお、「南鐐」というのは良質という意味で、当時世間で主として通用していた元文銀が品位1000分の460(0.46)であるのにたいして、こちらは1000分の978(0.978)で、ほとんど純銀に近いものであった。「南鐐二朱判」1個の量目は2.75匁(10.31グラム)であるが、寛政十五(1803)年に2.7匁とわずかに減量されている。
 さて「明和五匁銀」も「南鐐二朱判」も、ともに銀でつくった定量・計数貨幣であるが、前者は通貨銀の秤量値である匁で表現しているのに、後者は銀を素材にしながら、通貨金の計算値である「朱」で表示していることである。これは銀でつくった通貨金であって、通貨の一本化をさらに一歩前進させたものである。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(編集部注1参照)。

 したがって「明和五匁銀」の時同様、両替商たちから猛烈な抵抗をうけ、南鐐100両にたいし金125両の相場がたてられた。幕府はこれにたいし表示どおりの通用を命じたが容れられず、田沼意次の失脚、松平定信の将軍輔佐就任とともに、その鋳造は停止〔天明八(1788)年4月〕された(ただしそれまで通用のものは時相場をもって使用することが許された)。しかし「二朱判」は時代の要求にあうものだったので、松平定信が解任されたあとの寛政十二(1800)年に鋳造が再開された。

 田沼政権は巨大商人資本と結託しているということがよくいわれるが、通貨政策で見るかぎり、巨大商人の利益を擁護し、それと結託しているのは松平定信ということになる。
 三井高維編述『両替年代記関鍵』巻二考証篇、とくに第九鍵「江戸を中心としたる三都の金銀銭相場の研究図表」など信頼できる統計的史料が残っている範囲でいえば、宝暦-天明期は、天明の飢饉以降を除けば、江戸時代でもっとも物価の安定した時期をなしている。したがって、この時期は庶民生活も安定した時期ということになるが、ただ一つ気になることがある。それは金銀銭三貨のなかで、庶民大衆の通貨ともいうべき、銭の相場が下るということである。


 〔6.著しい金銀銭相場の変動〕

 元禄以来、金銀銭相場は、相互にかなり大幅な変動を示し、なかんずく銭相場は金銀とくに金相場にたいし、かなりはげしい上下運動をくりかえしている。しかし元文元(1736)年の改鋳直後の一時的な銭高相場のあと、改鋳効果があらわれて、三貨相場の安定期をむかえる。
 しかし明和五(1768)年から銭相場が下落をはじめ、同六年には金一両に銭5貫文の大台を割りこみ、以降その線でしばらく安定をつづけていたが、安永七(1778)年には一段安を演じて6貫文の大台を割込み、天明元(1781)年には高安ともに6貫目台におちこんだところで安定してしまう。
 では何故このようなことになったのであろうか。寛文(寛文元年は1661年)から元禄(元禄元年は1688年)にかけて、庶民経済が大きく拡大することは先述のところである。そのため銭の需要がとみに増し、元禄以降銭は不足気味となり、金一両に銭4貫文という幕府希望公定相場にたいし、銭高が目立つことが多かった。そこで幕府は明和二(1765)年ころから、江戸の亀戸、武蔵の川口、京都の伏見、肥前の長崎など広い範囲で鋳銭をつづけ、また川井次郎兵衛の進言を容れて、明和五年には1文で並銭4文に通用する「真鍮4文銭」をだしたりなどした。また明和の銭の増鋳は、従来のように銅が主材ではなくて、鉄銭であったことも相場を下落させる要因であった。

 また水戸藩が、うち続く凶作・火災などで困窮した農民を扶助するためという名目で、明和五年、水戸藩太田でおこなった「太田鋳銭」(鉄銭)も事態を悪化させるのに一役買った。そのことは、銭安相場の開始が、この太田鋳銭の開始と歩調をあわせていたことでも知られよう。
 このことを一番敏感に受け取ったのは水戸藩領内の農民で、祭礼のため神社に集まった群衆が、一転して一揆に転じ、神輿(みこし)を先頭にして鋳銭工場になだれこみ、これに火をつけて焼き払ってしまった。藩は領内貧民に5000貫文の銭を配るなどして、不満をなだめ鋳銭を再開するが、水戸鋳銭は江戸の銭安につながるという判断に到達した幕府は、明和九年十月、水戸藩にたいして鋳銭停止令をだし、藩はそれにしたがって施設を取りはらった。

 安永三(1774)年、田沼意次は老中と側用人を兼ねるが、この年幕府は銭相場下落による庶民の難儀を救うため、幕府が行なっていた鋳銭を中止するとともに、真鍮銭の鋳造量を半減するなど、銭安相場をなおすために、あれこれ努力するが成功せず、銭の異常安のもと庶民の怨嵯の声につつまれて田沼政権は崩壊している。しかしその後にでてくる松平定信時代にも一時若干改善されるが、それも再度おそってくる銭安相場のなかで退陣している。銭安相場はいわば江戸時代後半期の宿痾であった。

・・・・・・・・以下、省略・・・・

 第2部 江戸時代の資本論-貨幣制度と”出目”

  東野治之『貨幣の日本史』 朝日新聞出版1997発行

 13  田沼意次の新貨幣
  
 詳細目次
  銀貨幣ー秤量貨幣から係数貨幣化
 1. 田沼の改革
 2. 田沼の金銀輸入策  メキシコ産・ドル銀貨の輸入
 3. 名目貨幣の定着
 4. 銅銭も名目貨幣に
 5. 大型銅銭、天保通宝

 論点ー『資本論』価値形態論と「価値標章」
  資本論ワールド編集部
 
  銀貨幣の係数貨幣化
 


東野啓之『貨幣の日本史』新貨幣2022.03.26

 13 田沼意次の新貨幣

 田沼の改革

 江戸時代は、鎖国の下、200年余りも続いたということで、どうしても変化のない時代と受け取られやすい。しかし貨幣に限っても、けっして単調な千篇一律の時代ではなかった。なかでも注目されるのが、18世紀後半に行われた、いくつかの改制である。それらはいずれも時の権力者田沼意次によって企てられたところに共通点がある。田沼意次(1719~88)といえば有名な“賄賂の殿様”、再評価の試みは昔からあるが、どうしても悪役のイメージが抜けない人物である。しかし彼の改革には、非凡な着想がある。意次の改革は大きく二つにわけられよう。一つは銀貨に関するもの、もう一つは銅銭に関するものである。
 意次は、明和二年(1765)、勘定吟味役の川井久敬(のち勘定奉行)を使い、それまで丁銀と豆板銀に限られていた銀貨に加えて、まったく別の新しい銀貨を発行させた。明和五匁銀と呼ばれる貨幣である(図67)。この銀貨は日本の貨幣史上、画期的な意味をもっている。ここに初めて額面を明示した計数貨幣としての銀貨が生まれたのである。この銀貨は、表面に「銀五匁」とあるように、秤で計ることなく通用させることを目指したものだった。これまで銀貨は日々相場で値動きし、金貨との対応関係は不定である。東と西の経済が比較的独立して機能しているうちは、江戸が金づかい、大坂が銀づかいであってもさほど支障はなかったが、時代が下るにつれて全国が一つの市場となる傾向を見せ、東西の経済交流が深まってくると、そのままでは不便である。銀貨を計数貨幣化して、金銀貨をスム-ズにリンクさせようというのが、五匁銀発行の狙いだったと思われる。田沼は、大きな富を蓄積しつつあった大都市の商人たちに注目し、彼らの独占的利益を保護するかわりに、その利益の一部を幕府に上納させる形で、幕府財政の建て直しを計ろうとした人物だが、商品流通に明るい彼ならばこその新貨幣構想だったといえよう。
 しかし五匁銀の流通は、当初から滞った。なぜなら、五匁銀は金銀相場の実勢とくい違ったからである。五匁銀の表面をよく見ると、「五匁銀」という額面の右上に、「文字」という二字が打たれているのに気づかれるだろう。この「文字」は、「文」の字を打った銀貨、つまり当時通用していた元文丁銀や豆板銀を意味する。「五匁」とは、単に銀地金五匁というのではなく、元文銀にして五匁分の銀という意味なのである。ちなみに元文丁銀の銀品位は、前にも書いたが46パーセントだった。五匁というのは、金一両=銀60匁という基準に照らし、12分の1両となるよう定めた数値である。田沼としては、当時行われていた銀貨を、そのまま計数化するほうが、抵抗が少ないと踏んだのだろう。しかし流通が低調だった原因はここにあった。こうした新貨はまず両替商を通じて流通過程に投ぜられたが、両替商たちはこの五匁銀と金貨の引き替えに消極的だった。というのは、この当時、金銀相場の実勢は一両=62~63匁であり、一両=60匁のレートに固定された五匁銀と引き替えては、損を生ずるからである。こうして五匁銀は、不評のうちに明和九年(1772)、流通を停止されてしまった。
 〔編集部注**:上方・大阪などの両替商では、「銀づかい:「江戸づかいで得た金貨」を銀に両替する場合、金一両=銀60匁の公定相場では損をする。〕
 しかし田沼は、これであきらめたわけではない。新たにその年、二朱銀というやはり方形の新貨を発行させたのである(図68)。この銀貨には、表面に「以南鐐八片、換小判一両」(南鐐八片を以て小判一両に換(か)う)という交換の文言が打たれ、裏には五匁銀にもあった銀座大黒家の常是の名がある。これが一両の8分の1、つまり二朱にあたる計数貨幣であることを明示しているのである。側面には磨り減らされるのを防ぐため、桜花の刻印があるが、これは五匁銀から継承されたアイディアである。明和南鐐二朱銀と呼ばれるこの新貨は、同じ銀の計数貨とはいえ、五匁銀と根本的に違う。五匁銀が元文丁銀と同品位だったのに対し、それとはまったく別の純銀に近い質をもっていたからである。南鐐とは、中世以来、良質の銀、純銀を意味した言葉だった。この新貨では、むしろ「南鐐」を唱うことにより、意識して元文丁銀との関係を絶ち切ろうとする意図がうかがえる。この工夫が成功した。二朱銀は実際には二朱に相当する銀を含んでいない。一両=銀60匁を基準に二朱相当の銀量を出せば、約3.5匁になるが、この二朱銀は、純度は98パーセントほどあるものの、重さは2.7匁(約10グラム)しかない。けれども一般の心理とは不思議なもので、当時としては純銀といってよい良質さと、便利さから、最初は敬遠されたものの、次第に生活のなかに浸透していったのである。ちょうど隆盛に向かいつつあった川柳に、盛んに二朱銀が登場していることからもそれがわかる(阿達義雄『川柳江戸貨幣文化』)。銀貨の計数化には、それなりの潜在的要望があったとみていいだろう。



   田沼の金銀輸入策

 田沼の判断が、この点で優れていたことは確かだが、銀の調達の点でも、田沼は思い切った転換を試みた。そもそも新貨を鋳造するといっても、金銀の減少傾向が続いていることは、これまでの章でも見てきたとおりである。これまで、貨幣の新鋳というと、旧貨を回収し質を落とした新貨を出すやり方が常套化していた。しかし今回はまったく新規の発行である。今さら新貨を鋳造する材料が、どこから出てきたのかということになろう。田沼はそれを、長崎を通じて輸入させたのだった(内田銀蔵『日本経済史の研究』上、辻善之助『田沼時代』)。この輸入は、新銀貨の企画より前、宝暦十三年(1763)から始まっている。けじめ中国商人に持ち渡らせたが、明和二年(1765)以降、オランダ人にも命じて輸入させた。このような輸入には、見返りに銅の輸出が避けられないという面はあったが、貿易の縮小ばかりを考えていたそれまでのやり方とは異なる、大きな発想転換だったといえよう。

  〔 スペイン・ドル銀貨の輸入

 この金銀の輸入は、主として貨幣の輸入という形をとった。中国から入ったのは、当時中国国内で貨幣として流通していた馬蹄銀(ばていぎん)、印子金(いんすきん)などの金銀地金、それに同じく地金価値で流通していたスペインのドル銀貨(中南米製、メキシコ産の銀)である。スペインドルは、側面に花の文様があることから「花辺銀銭(かへんぎんせん)」と呼ばれたり、カルロス三世の肖像入りのものは「人頭銭(じんとうせん)」と呼ばれた(図69・70)。そのほかチベットや安南の金、銀も輸入されている。オランダ人は、自国の金銀貨のほか、広い交易圏を利用して、インド、ジャワの銀貨ももたらした。オランダの貨幣は、トカアト、テカトン、ハロフテカトンなどと当時の記録にあるが、これらは、それぞれデュカット金貨(図71)、デュカトン銀貨(図72)、2分の1デュカトン銀貨のことである。インドの「ロヘイ」もある。これはムガール帝国治下のルピー銀貨である。ほかに「カラバロヘイ」、ジャワのルピー銀貨もあった。これらの貨幣には金貨も含まれているし、全部が南鐐二朱銀の鋳造に回されたわけでもないが、貨幣用に外国の金銀を用いることが、田沼の時代に始められたわけである。

 こうして続鋳されていった二朱銀は、江戸時代の貨幣に根本的な変革をもたらした。まず第一は、すでに少しふれたとおり、金貨と銀貨をリンクさせたという点である。小判と丁銀の間に相場が成り立つという関係は、一方でそのまま持続されるのだが、日常的なレベルでは、銀貨はすっかり計数化し、小判や一分金の下位貨幣に組み込まれたのであった。金貨の体系と銀貨の体系が、一本化する方向に進み出したといっていいだろう。
 第二に、本位貨幣でない銀貨が生み出されたことがあげられる。すでに数字をあげたとおり、二朱銀は、二朱に価する銀量を含んではいない。江戸時代の貨幣体系は、近代的ないい方をすると、金銀貨どちらもが本位貨幣であるところの、金銀複本位制ということができる。二朱銀は、その本位貨幣である丁銀の正確な分身ではない。幕府が二朱通用を保証することで初めて値打ちを発揮する。本来それだけの値打ちがなく、政府の権威で価値が生じるということでは、たとえ銀貨でも、一種の名目貨幣〔実用的な価値は存在せず、法律等により価値を付与されている貨幣〕といえよう。少ない銀の量で、本位貨幣同様に通用する貨幣を作りだしたのだから、幕府にとっては財政的にもうまみが大きい。あえて評判の悪い改鋳などをやらなくても、それと同じように、出目に当たる利益を得ることができる。良質の銀で作られていたため、二朱銀が、本当はそれだけの値打ちのない貨幣だという点が隠されているが、これは明らかに悪貨だった。



 名目貨幣の定着

 それにもかかわらず、こういう悪貨が定着していったのはなぜだろうか。実は名目貨幣を作る発想は、田沼より前にも実行に移されようとしたことがある。あの元禄・宝永の改鋳にすご腕をふるった荻原重秀の施策が、まさにそれだった。彼は大幅な品位低下を行っているが、重秀にいわせれば、貨幣に実質の価値など必要はなく、お上の権威さえあれば通用すると考えていた。荻原重秀も、勃興してきた都市の商人層に注目し、そこに営業税をかけることで、幕府財政の好転をはかろうとするなど、目の着けどころは田沼と似ている。しかし彼のやり方はあまりに急激で反発を招いた。田沼の方法は、それに比べるとはるかに優れていたといえよう。それと同時に、荻原と田沼の活躍した時代が違っていた点も、政策の成否を左右した。荻原重秀が出た17世紀末に比べれば、田沼時代は貨幣経済もはるかに進展しており、名目貨幣であっても、それが生活を便利にする意味をもっていた。以前は高額の取引専用の観があった銀貨も、商品流通が盛んになるなかで、一般生活に身近な貨幣となりつつあったのである。荻原重秀の政策が失敗し、田沼の改制が軌道に乗ったについては、やはり時代の流れというものがあったといえよう。逆にいえば、田沼はその流れを読み、時代の先を見通す先見性をもった人物だった。
 田沼のこの先見性は、彼の創始した二朱銀が、その失脚後も続鋳ざれていったことで証明されよう。田沼は、その父が紀州藩の足軽という卑賤の出だが、吉宗の子家重付きの小姓から身を起こし、宝暦八年(1758)には大名に取り立てられた。明和四年(1767)には、家重の子家治の側用人となり、さらに安永元年(1772)には老中に昇って、18世紀後半の政治を切り回すことになる。最後は遠州相良に5万3千石を領するまでになっていたが、天明七年(1787)、松平定信の登場によって失脚、翌年失意のうちに世を去った。
 田沼の政策には、保守層からの反発が強く、その失脚後は多くの政策がくつがえされる。しかし二朱銀の鋳造は、一時銀価格の上昇で中断したことがあったものの、田沼政治の刷新を標榜した松平定信の政権下でも継続された。その後も文政の二朱銀、天保の一分銀とアイディアは受けつがれてゆく。この種の計数貨幣化した銀貨の便利さは、一般生活になくてはならないものになっていたし、おまけに幕府財政にも都合のよい貨幣だったからである。文政七年(1824)発行の二朱銀は、明和二朱銀の約7割ほどの重さしかなく、天保八年(1837)に出た一分銀に至っては、明和二朱銀の9割程度の重さで、額面は2倍になっている。しかしこの一分銀は、むしろ金貨のほうの一分を影の薄いものにさせ、もはや本位貨幣のように流通していったのである。



 銅銭も名目貨幣に

 田沼が行った貨幣改革として、もう一つ見すごせないのが、寛永通宝四文銭の発行である。これまで寛永通宝は、各地の事業者の請負により、一文銭だけが鋳造されてきた(図73)。田沼はこれに加え、銀座の直営で、一枚が四文に通用する寛永銭を発行させたのである(図74)。明和五年(1768)のことであった。この銅銭にも、田沼一流のみごとな着想が表れている。この銅銭もまた、一種の名目貨幣にほかならなかった。本来の寛永通宝1枚は、ほぼ1匁(3.75グラム)だが、この新しい銅銭は、四文通用にもかかわらず、1枚1.3匁(4.9グラム)しかない。しかも初鋳の銅銭が良質の銅貨だったのに対し、この四文銭は亜鉛24パーセント、錫8パーセントほどをまぜた真鍮銭になっている。使用する銅の量を減らしながら、発行利益は多くなるという仕掛けである。銀座直営という形態は、その利益を直接把握しようとしたものだった。この四文銭は、やはり最初嫌われたものの、だんだんと普及、定着していった。前章でも述べたように、銅輸出や銅銭密輸の余波で、民間には鉄銭が幅をきかすようになっており、庶民はその鉄銭の質の悪さにいや気がさしている。そこへ登場した黄金色の真鍮銭は、まだしも良貨と映った。また銀貨の場合と同様、従来にくらべて高額の通貨が便利という事情もあっただろう。かくてこの四文銭は、日本で最初の流通した大銭となったのである。
大銭の起源は、もちろん中国にある(第5章参照)。かつて日本は盛んに中国銭を輸入して使いながら、大銭は排除してきた。例の元禄の改鋳期、やはり荻原重秀が大銭の発行を考え、試みたことがある。宝永五年(1708)に、京都で鋳造された宝永通宝である(図75)。この銭は、薄っぺらいものの、直径が四センチメートル近くもある大きなもので、中国の宋~明間の大銭に近いイメージである。価値も一文銭の10倍、10文通用ということであった。しかしこれはまったくの不評で、ほとんど流通せずに廃止となった経緯がある。十文銭でありながら、重さがわずか2.5匁(9.4グラム)しかないのが決定的だった。したがって明和の四文銭にも抵抗があったのは当然だが、やはりここでも時代が幸いしたというべきだろう。
 田沼のアイディアは、この四文銭の材料調達法にも表れている。二朱銀の場合と同様、四文銭に使う亜鉛、当時の言葉で「釷たん(とたん)」を長崎を通じて輸入したのである。これもいかにも彼らしい積極的な施策である。真鍮銭を作るという着想は、もちろん銅の消費をおさえることから来ているだろうが、直接には、同時代の清朝の銭に学んだのではないだろうか。中国の銭は、銅不足が進むにつれ、明の後期から真鍮銭にかわっていった(第8章参照)。清朝では、銭といえばすべて真鍮ばかりである。それがモデルになっていることは、図76にあげた乾隆通宝(清の乾隆元年、1736年発行)と、四文銭を比べてもらえば、一目瞭然と思う。四文銭は、いままでの寛永銭と比較して、縁の幅がかなり広くなっている。宝永通宝も同じような特徴をもっているが、四文銭の姿は宝永通宝を縮小したというのではなく、おそらく清朝銭の形をまねたものだろう。中国の銭は、明の末期から縁の幅を著しく広くとるようになってきており、むしろ宝永通宝にも、材質は別にして、すでにその影響が現れていたのではないかと思う。なお清の銭は、明代までと違い、日本に入ってきていないかのように誤解されている向きもあるが、たてまえとは別に長崎を通じて流入しており、形が基本的に同じであることから、寛永銭などとともに混用されることも少なくなかった。



 大型銅銭、天保通宝

 こうしてみてくると、四文銭と二朱銀の間には、よく似た情況のあることがわかるが、四文銭の発行もまた、田沼の政策のなかで、後代に受けつがれたものの一つである。それどころか、天保時代になると、銀貨の場合と同じく、もう一段の展開があった。すなわち四文銭のアイディアをさらに増幅する形で、天保六年(1835)、天保通宝という百文銭が発行されている(図77)。
 この小判形をした大型の銅銭は、今日のわれわれにも、寛永通宝とならんで馴染み深いものだが、百文銭というのに、重さは5.5匁(20.6グラム)しかない。こういう極端な大銭は、中国の例をみても通用が捗らないことが多く、流通が滞っても不思議はない。それを心配したのであろう、この銭には、信用をつけるためのいろいろな工夫がこらされている。まず小判形という形である。天保銭の鋳造が金座直営でやられたということにもよるが、やはり小判のイメージをこの新銭と二重写しにして、信用を高めようとしたものだろう。金座の仕事だから当然とはいえ、天保銭の裏側には、「当百(とうひゃく)」という額面のほかに、小判にあるのと同じ花押が入っている。材質の面でも、天保銭には良質の銅が使われた。
 こういう配慮もあってか、天保通宝は、たいへんな悪貨であるにもかかわらず、流通した。一文銭はもちろん、四文銭も払底して鉄銭化する世情では、見かけは立派な天保銭が喜ばれるのもうなずけないことはない。ただ天保銭には、偽造貨の多発という弱味があった。偽造は、かけた手間に比べ利益が高いものほど、多く発生する。一文銭を偽造してもしかたがないが、百文銭なら見返りがあるというわけである。とくに幕末、諸藩が独立した動きを強めてくるなかで、藩ぐるみ天保銭の偽造を行うところが現れた。薩摩藩、博多藩、盛岡藩などは、なかでも大きな利益を上げたといわれる。天保銭は、あらかじめ側面にも刻印を打つなど、偽造対策もとられてはいたが、あまり効果がなかった。
 このような経過をふりかえると、田沼の改革は、経済活動の障害となる不便さを解消し、幕府の財政を支える上で、大きな役割を果たしたことが知られよう。とくに田沼が、金貨に連動して使える銀貨を創出したことは、近代の貨幣制度にも通ずる着想として、その新しさを評価してよいと思う。銀を使っている点で、純粋なものとはいえないが、一応素材価値に束縛されない名目貨幣を考案したことも、独自の点といってよい。ただ田沼の改革は、江戸幕府の貨幣制度を根底から改めたものではなかった。一方で小判、丁銀という二本立ての制度も持続はしており、これと新しく出た名目貨幣が並用される形になったわけである。このようなことは、日本の経済が国内で完結しているからこそ可能だったので、もし海外と直接の経済関係があれば、成り立つことではない。この事情が、のちに大きな混乱をひき起こすことになるが、それについては第15章でふれることとしよう。

・・・第15章以下、省略・・・・


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 目次一覧
第1部第2篇 東アジアと江戸時代の制度的枠組み
総論1 世界史を動かした日本銀
   東野治之『貨幣の日本史』 朝日新聞出版1997発行
  目次
  世界史を動かした日本銀
1. 生糸と日本銀と倭寇
2. 〔生糸〕
3. 〔明の海禁ー倭寇と密貿易と琉球〕
4. 〔銀表示の生糸値段〕
5. ポルトガル人の参入
  ・〔香料-生糸の密貿易・・・1543年・種子島に〕
  ・五峰(倭寇の頭目)=王直が、本拠地五島列島で名乗った
6. 〔中国船で漂着したポルトガル人〕
7. 〔生糸:マラッカ-マカオ-日本の三角貿易と香料の貿易資金〕
8 東西貿易資金として〔ポルトガルからオランダへ〕
9. 〔日本銀の海外への輸出ー世界最大級〕
10 布教活動の経済的背景〔イエズス会の国際網-生糸と銀の貿易〕
11 イエズス会神父の役割 日本の銀は世界の歴史を動かしていた