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  3. 三上隆三「金本位制の成立」(rt011)

三上隆三「金本位制の成立」 (rt011)


 三上隆三『江戸幕府・破産への道』  日本放送出版協会1991年発行
 
  第4章「金本位制の出現」 2022.04.26作業中
                第3章出目を生み出す幕府の赤字財政

 資本論ワールド編集部 はじめに
  論点0
 1.江戸時代に金本位制の出現ー計数貨幣の銀貨鋳造
 2.田沼時代の時代ー徳川幕府の財政危機と出目政策
 3.田沼政権ー商業資本とくみ重商主義政策を実施


   金本位制度出現の前段階
  第3章 出目を生み出す幕府の赤字財政 概要

 資本論ワールド編集部
 はじめに
 
 1. 財政赤字の諸対策 p.91
  支出増にともなう財政難=赤字の対策として考えられ実行された主要なものには次のものがある。
 (1)備蓄のとりつぶし―新井白石によれば、家康が残した金の大分銅は30個あったという。その表面にある「征伐軍旅金」(慶長度)「行軍守城用 勿作尋常費」(万治度)「蔵充軍資 泰平宝伝」(天保度)という鋳銘が示しているように、これらは軍事用であって日常用のものではない。にもかかわらず延宝四年(1676)に7個、天和元年(1681)に10個、元禄年間には後述の元禄金鋳造用に残りのすべてを使い果たしてしまったという。また、『金銀座書留』によれば、家光は206個の銀大分銅を残したが、延宝五年に40個、天和元・二年に66個、宝永六年(1709)に95個がつぶされたという。

 (2)〔■田沼時代の施策〕p.92
 積極的経済政策―この代表例として明和六年(1769)に老中格、明和九年に老中になり、天明六年(1786)に老中罷免までの間、幕政の中心となった田沼意次のとった積極的経済政策をみてみよう。
 商品作物の栽培奨励、北海道開発計画、商人や手工業者の株仲間承認による流通機構の再編成と冥加金徴収、御用金を原資とする公金貸付制、銀銅鉄真鍮人参の専売制の確立、池沼干拓、等。この池沼干拓で手がけた印旛沼・手賀沼の場合、長雨により干拓に失敗し、これが彼の政治生命を絶つことになるが、他方では長崎での輸出振興をはかり、俵物(海参(いりこ)・鮑(あわび)・鱶(ふか)のひれ・昆布等の乾燥させた海産物)等の積極的売り込みにより、これまでの貿易赤字を一転し、逆に中国・オランダからの金銀流入に成功し、これを後述の文字銀や明和南鐐貨の素材にしたという幕府最有能の経済官僚の一人であった。
 田沼政策の特徴を一般的にいえば、商業資本とくんで重商主義政策をとり、運上金の増収によって経常税収の増大をはかるものである。強力な将軍・吉宗の権勢をもってしても米の増徴による増収策に限界のあるをみた彼は、いわばこの直接税に対し、商業的農業や非農業部門における成果の吸収をねらう、いわば間接税による収入の道を拓こうとしたわけである。

 (3)宝永七年(1710)に新鋳されたものが宝永金p.102
 金銀比価におけるこの公定と市場との乖離を解決させるべく、宝永七年(1710)に新鋳されたものが宝永金である。この宝永金にはもう一つの新鋳理由があった。半分近くもの銀と合金されている元禄金は裂け折れやすく、この欠点を是正する必要がとなえられた。これにこたえ、金銀比を慶長金なみに回復することにした。幕府の財政状態からいって慶長金そのものに完全復帰するに必要な金量を調達するのは絶望であり、ために、元禄金の金量をそのままにして、銀量のみを慶長金の品位になるまで削減するという方法が採用された。そして諸国から金が増産されれば古制つまり慶長金そのものにもどすという約束も忘れることなくつけ加えた。
 宝永金はこのようにして生まれてきたのであるが、それでも実際は、量目2.49匁、品位834で、純金量は2.077匁となり、元禄金の2.68匁よりも0.6匁軽い。もとより銀量も1.658匁軽い。品位を慶長金にもどすといいながら、その863にははるかに及ばない。いわばドサクサにまぎれて、純金量も元禄金以下にし雑分としての銀量も大幅に減少させたので、幕府はこの改鋳によっても出目を入手したのである。

 (4)両替商・商人の反応
 出目目的の改鋳に対し、その作用・結果はどのようなものであったのか。
 一回目の改悪改鋳・元禄金の出現においては、幕府によせた絶対的信頼が仇になり、そして最初の事件ということもあって、庶民は全く不意をつかれ、その反応には相当の時間を必要とした。しかし二回目の改鋳以降には庶民、特に両替商・商人の反応はスピード化し、強制交換にも応じず良貨を隠匿することになる。厳禁を犯してまでも両替商は、自身のためはもちろんのこと、依頼に応じて貨幣を鑑定し、三井両替店の場合には、その証明に「イ」のような自店特有の小極印を打つなどして自衛手段を講じた。

 (5)もう一つの反応は商人等によるもので、販売商品の価格を貨幣の低質率に応じて引き上げ、被害軽減をはかることであった。これによってインフレーション(原始的インフレ現象)が進行し、結果としての物価水準の上昇は出目収益を実質的に相殺することになる。これが幕府の泣きどころとなる。

 (6)1710年発行の宝永銀は、発行時の流通金貨である元禄金に対する関係でほぼ公定相場の一両=六〇匁となり、低質にもかかわらず人気もよくて支障なく流通していた。これを奇貨として更なる出目・リベートをねらって、既述の宝永金とともに宝永七年三月に、より悪質の永字銀を、同年四月には三ツ宝銀を、正徳元年(1711)八月に四ツ宝銀をと、わずか17か月の短期間に順次悪質化していく三種もの銀貨をめまぐるしく鋳造した。

 (7)荻原重秀の貨幣改鋳時代

  (8) 田沼政権についてーウィキペディア>
 〔田沼時代(たぬまじだい)は、日本の歴史(江戸時代中後期)において、老中・田沼意次が幕政に参与していた時期を中心とした時代区分。史学上は宝暦・天明期(ほうりゃく・てんめいき)として、宝暦・明和・安永・天明期(1751年-1789年)、すなわち享保の改革と寛政の改革の間の約半世紀の時代を指す。意次が権勢を誇った期間を基準とする場合には、定義がいくつかあるが、概ね意次が側用人職に昇格した1767年(明和4年)から意次が失脚する1786年(天明6年)までと説明することが多い。〕

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■三上隆三著『江戸幕府・破産への道』 日本放送出版協会 1991年発行
  第4章「金本位制の出現

 論点0

  五匁銀の構想
 江戸期の正統銀貨である丁銀は、その取扱者に重量測定を強制する貨幣流通様式のものであり、金貨にみられる個数確認だけで取り引きがすむ流通様式に比して古いものである。つまり銀貨における秤量貨幣から計数貨幣への移行は貨幣近代化への自然法則である。江戸期貨幣経済の発展は銀貨にこの改変を迫る気運をもたらした。

  銀貨におけるこの進化を示す最初のものは、明和二年(一七六五)に鋳造された五匁銀であり、有能なアイディアマンの川井久敬の発案によるものである。五匁銀は五匁という量目で統一された長四角のコインである。「文字銀五匁」との鋳銘から、元文丁銀を素材にして鋳造されたといわれているが、品位は五匁銀の四六〇に対し元文銀の四五一と差異もあり、素材を元文銀に限る必要はなさそうである。元文丁銀を素材にしたといわんばかりの表示は五匁銀の流通促進、使用上の抵抗を緩和させるためのものであろう。
 そもそも五匁銀は、これまでの丁銀の流通促進のための一変種として、秤量の労を省き個片枚数の算定だけで取り引きを終わらせる貨幣として登場した。七の限りにおいては、枚数を目安としつつも、あくまでもその重量が決定的意義をもつものであった。代価の支払いが丁銀でなされようと五匁銀であろうと全く同じということである。

・p125
 ところが馬脚があらわれたとでもいうのか、明和四年に幕府は唐突に、金相場にかかわらず五匁銀は三枚にて金一分、一二枚にて金一両、すなわち一両=銀六〇匁の公定レートで通用する計数貨幣であると一方的宣言をした。このような五匁銀の通用は、当時の一両=銀62~65匁という金相場を無視するものであり、また当初の秤量銀貨の一変種という規定を計数銀貨であるといい直すといった、銀貨の二重規定は庶民の忌避をつのらせ、ついに五匁銀は自然消滅という結末を迎えることになる。ちなみに掲載写真からも納得できるように、五匁銀の通称は硯であった。
 五匁銀にみられる、計数貨幣としての銀貨という着想は五匁銀では失敗したものの、同じ川井久敬の工夫と努力とによって、ついに流通する計数銀貨を出現させるだけではなく、これは常鋳貨幣としての丁銀とならぶのみならず、やがてはこれを抑え銀貨の代表にへと発展・結実をみるのである。


〔 明和南鐐二朱判 明和九年(1772)発行 〕p.125

 計数銀貨の第一号は明和九年(1772)発行の明和南鐐二朱判である。五匁銀〔明和二年(1765)鋳造〕も同様であるが、これは経済閣僚、特に「明和六年より田沼侯執政ノ列ニテ威光強ク」(『三貨図彙』)という政治力によって出現したものである。その関係から私怨をも含む田沼批判として強行された寛政改革期に、松平定信によって鋳造停止にされたものの、文字通りの中断に終わり、それは続鋳され、ついで文政七年(1824)の文政南燎二朱判、文政一二年の文政南鐐一朱判、天保八年(1837)の天保一分銀、嘉永七年(1854)の嘉永一朱銀、安政六年(1859)の安政一分銀へと引き継がれ、この計数銀貨は不断に鋳造されることになる。


 計数銀貨鋳造のねらい

 ではどうして計数銀貨が鋳造されるようになったのか。前記の、貨幣における秤量から計数への進化自然法則はその理由の一つであるにすぎない。民間でも丁銀秤量の不便軽減のため、両替商の祖といわれる天王寺屋五兵衛創案という銀目手形による相殺メカニズムの形成や、幕府による常是包(じょうぜづつみ)(大黒常是の保証書きを帯びる和紙で銀43匁=一枚をパックした枚包、銀500匁をパックした500目包等)や民間業者の手による同種のもの(鴻池の鴻善包、三井の次郎右衛門包等)の工夫がこらされた。これを一歩前進させたものが計数銀貨である。だがこれは幕府にとっての本来の目的ではなくて手段にすぎなかった。
 ちなみに銀貨における枚包・目包のあり方が金貨にも作用し、金貨を紙パックした後藤包も出現し、包まれた小判の形態から切餅という愛称も生まれた。これは歌舞伎『恋飛脚大和往来』の梅川忠兵衛の名とともに「封印切」の場に登場することで知られているが、この芝居が示しているように封印の上書きは絶対信用をもち、包金銀(つつみきんぎん)は開封されることもなく江戸期社会を流通した。これは世界貨幣史上でも稀有の事例に属す。
 包金銀にはいろいろの理由が考えられる。大判金の起源とされる、奉書包という形式による砂金使用慣行がそもそもの由来とも考えられるが、より直接的なものとして、金銀座から幕府へ納入の包金銀がそのまま幕府からの支払いとして民間に手渡されたのだが、これを開封しない限り、幕府への敬意とともにその権威が以降の支出においても持続するものと考えられたことによる。また風呂敷に象徴される日本特有の包みの文化も考えられる。だが、なにはともあれその中身の点検の労が省けることが最大の理由であろう。

 計数銀貨鋳造について考えられる次の理由は銀事情である。関西での幕府米穀の売却や運上等の幕府の収入金銀は、元禄四年(1691)以降、御用商人・御為替組の手によって江戸へ送金されていた。この場合、銀貨は金貨に両替して江戸の金蔵に納入ということになる。その際に、金銀相場の変動によってしばしば不測の損害をこうむることがあった。また大坂で入手の金銀量が大坂御金蔵収容力に対し急に過大化したことも考えられる。これらのことをさけるため、享保改革以降に為替による送金をやめて直送=現送に改める意見が出、寛保二年(1742)に現送が試みられ宝暦一二年(1762)にその決定をみる。当然の結果として、これまでになかった巨額の銀が幕府の手もとに堆積することになる。そのうえに田沼意次の輸出努力による海外からの流入銀がこれに加わる。この銀に有効な活用法の練られるのも当然であろう。
 更に考えられる理由は、幕府の威信・主体性の確保ということである。幕府はその威信を示すものとして小判一両=銀五〇匁(後に六〇匁)という公定レートを定めはしたものの、実際には商人によって貨幣に市場相場がたてられて公定相場は無視されがちであった。これでは単なる通貨の鋳造職人というのが幕府の立場となる。したがって幕府の威信を回復し主体性を確立するためにも、通用銀を公定レートで流通させることが必要である。それを更に前進させ、そもそも金銀相場そのものを否定するにしくはないという思考が出てくるわけである。その意味における完成具体物は天保一分銀である(これについては後述)。だがこれも副次目的であって、そのものではない。

 計数銀貨鋳造の目的そのもの、最大の理由は銀の有効な使用と、それを通じての経済政策としての有効需要の創出にある。ここにいう効率的な銀の活用とは出目の入手と、物価上昇によって相殺されない確実にして安泰な有効需要の剔出ということである。ではどのようにして、物価上昇によって相殺されない出目が幕府に入ったかを述べてみよう。

 南鐐銀貨のからくり

 五匁銀は計数銀貨の先達であり、既述のように流通に失敗してその意図は不発のままになったが、量目五匁で品位460であるから、一枚の純銀は2.3匁、一両分=12枚で純銀27.6匁となる。市場相場の一両=63匁での丁銀の純銀量28.4匁よりは0.8匁少ないことになる。軽量とはいえ出目があるということである。

  南鐐二朱銀 : 1/8両、 1/2分
 
 この出目入手に力点をおく出直し計数銀貨の第一号として登場したのが、明和九年(1772)発行の明和南鐐二朱判である。南鐐とは銀の別称で上銀をさす。本来、上銀とは「一割入」以上の品位のものをいう。それ以下のものは歩入・釣替・歩引とつづく。一割入とは灰吹銀一貫を慶長銀1貫100匁、つまり10パーセント増しで買い上げることをいう。第一章で述べた輸出禁止にした石見銀・長門銀・佐渡銀などがこれである。歩人は割増率10パーセント未満のもので、例えばその9パーセントのものを九歩入という。釣替は同品位のゆえの単なる坊主替、つまり等量で交換するものをいう。歩引は灰吹銀の量目よりも軽量の慶長銀と交換するもので、品位が慶長銀よりも悪いということである。

 計数銀貨の正称を単に明和二朱銀といわずに、明和南鐐二朱判と、わざわざ本質的には同じ銀を意味する南鐐を使用したのも、その先達の五匁銀が文字銀=元文銀であっだのに対し、こちらははるかに上質の銀であることを強調せんがためである。明和南鐐二朱判は、田沼政権の努力による俵物などの輸出増大によって貿易収支が黒字化し、中国・安南・オランダから入手した銀を素材にして鋳造された。ために、幕府はこの計数銀貨については別扱いにし、内部用資料にも素材を上銀と記すのみで、その正確な品位は一切示していない。つまり純銀と考えていたわけである。しかし現実の品位は978である。一枚の量目2.7匁のゆえ、必要純銀は2.64匁、一両分で21.1匁となる。これを上述の五匁銀や文字銀のそれと比較されたい。その差が出目となる。
〔必要純銀:2.7匁×0.978=2.6406 ≒ 2.64匁。1両相当分:1/8両で、≒2.64 ×8=21.12 〕

 幕府の意図に従って上銀を純銀としよう。当時の銀相場は純銀10匁が通用銀(元文銀)で25匁であったことから、上銀系数は2.5となる。そこで南鐐二朱判の一両分=八枚の量目21.6匁〔1枚の量目:21.6÷8=2.7〕に係数2.5をかけると文字銀54匁相当〔21.6×2.5=54〕となる。鋳造による目減りを考慮したのか、幕府の公表では南鐐二朱判一枚の量目は2.75匁とされている。それでも上銀係数をかけた結果は55匁〔2.75×8枚=22匁×上銀係数2.5=55匁〕にすぎない。いずれもが公定レートの一両=銀60匁にとどかない。幕府はこれをいかに正当化したのか。

 これよりさかのぼること五十余年、享保三年(1718)に旧貨の通用停止、享保貨の通用令が出されたが、新銀貨供給量の絶対的不足の結果、銀相場は一両=銀43匁にと上昇した。江戸両替商は、御定相場の一両=銀60匁との差が過大であり商売不能と訴えた。町奉行・大岡忠相はこれと妥協して、同年末に54匁または55匁を御定相場とみなすと緩和した。ただしこの妥協案も実効なく、翌三月には相対相場に復帰することになる。これによって大岡忠相は、この根本的解決には貨幣改鋳にまで手をのばす必要を知り、それが元禄改鋳時とは逆の金以上に銀の品位を下げることに特徴をみる元文改鋳となったわけである。実は、なんの効果もなしに廃棄ないし古証文同様になったこの大岡裁定案が、南鐐貨の銀55匁相当=一両を正当化して救った。というよりは50年以上も昔の大岡案の数値を思い出し、これを前提に明和南鐐二朱判の量目を決定し、出目入手に走ったという方が正確であろうか。

 南鐐=上銀=純銀という意識と上銀係数とをかくれみのとして、以降の計数銀貨における所要銀量の減少がはかられた。すなわち明和南鐐二朱判につづく文政南鐐二朱判は量目2匁、品位979であるから、一両分所要純銀量は15.7匁〔量目2匁×(1両=文政南鐐二朱判8)×0.979=15.664≒15.7匁〕、文政南鐐一朱判は量目0.7匁、品位989で一両分は11.1匁〔量目0.7匁×文政南鐐一朱判16×0.989=11.0768≒11.1匁〕、天保一分銀は量目2.3匁、品位989で一両分は9.1匁〔量目2.3匁×(1両=天保一分銀4)×0.989=9.0988≒9.1匁〕となる。

  天保一分銀一両分の純銀量の9.1匁は明和南鐐の21.1匁に比し、いかにも軽少である。これを正当化するために、幕府は南鐐よりも更に上銀の花降銀を素材にしていることを強調し、コインの鋳銘を「花降一分銀」にすることまで考えたほどである。ただしコインの表面積が狭いので鋳銘は「一分銀」とのみし、その代りとして枠デザインに桜花を採用することにした。桜一分の別称の由来である。
〔*花降銀:純良な銀のことをいう。精錬過程で純良なものは熱を奪われる瞬間、表面が盛りあがり、花が開いたような特殊現象を呈するところからいう。『精選版 日本国語大辞典』より〕

 その花降銀とは「上品の銀に日の光を映ずれば花の降るが如し」(『三貨図彙』)ということによるのであるが、実際には南鐐と区別することは不可能とか。とすれば、要するところ出目追求への庶民の目を花降銀という名目でそらせるということである。
 公定相場よりも少ない銀量を正当化するもう一つの理由に、後述の予定だが双替(そうがえ)相場の場建値を金一匁に対して銀は10匁とするのが原則であるので、このことから金対銀=1対10という思考が成立することになる。しかしこれによっても、元文小判=2.3匁に対する明和南鐐二朱判=21.1匁が辛うじて合格線にとどまるだけで、文政南鐐のいずれも文政小判の1.9匁にはとどかず、天保一分銀にいたっては天保小判の1.7匁にはるかに及ばない。

 出目は計数銀貨相互の差だけではなく、同時点で鋳造される丁銀との差にも見出せる。しかも後述のように本来的には計数銀貨のもたらす出目は安定したものであるので、幕府の銀貨鋳造はそのウェイトが丁銀から計数銀貨へと移ることになる。鋳造量で元文丁銀に対し最後の安政丁銀は五分の一に減少しだのに、逆に明和南錬に比し天保一分銀は四倍と増大一途である。

  計数銀貨普及の意義

 銀貨世界における計数銀貨の出現・流通はどのような意義をもつのか。このことを考察してみよう。

 まず考えられることぱくり返しになるが、秤量から計数へと銀貨の近代化がはかられたことである。しかし計数銀貨の普及は、その通貨としての利便さによるものではなかった。このことは五匁銀の失敗の事実によっても明白である。明和南鐐二朱判も同様であって、「銀(この場合は丁銀)は商人のカネ」との意識をもつ商人の住む京大坂では全く流通しなかった。将軍の膝もとの江戸でも同状態。特に金と銀とが連動するものであったから、計数銀貨の出現は両替商にとって死活問題であった。このため五匁銀に丁銀同様の相場をたてて、ついにこれを撤廃に追い込むことに成功した。明和南鐐にも相場をたてて抵抗を試みた。田沼失脚をうけて老中になった松平定信が天明八年(一七八八)に南鐐貨の鋳造停止・丁銀増鋳を行ったような背景があってのことである。
 だが財政難の幕府にとって出目獲得は至上命令。ために実に気長に、流通をはかるための飴まで用意して普及にっとめた。
 飴の一つに大坂の商人・エリート町人・両替商に対し、初鋳の明和九年(一七七二) 一〇月から翌年を通じ、五万両を限度に三年年賦で返済・無利子無担保で貸付を行った。いわば試用してみよということである。この無利子無担保という条件はいかにも寛大無欲に思えるが、実は年賦返済にあたっては貨幣なら金銀貨のいずれは問わないという条件がついていた。つまり南鐐貨以外のものなら、それらはすべて出目をもたらす良貨だからである。先細り傾向にある旧金銀貨回収に活を入れようとの意図によるものであることを知れば、幕府の与える無欲寛大感も消失しよう。

 別の飴としては、年貢金・上納金等は金貨がのぞましいが、南鐐貨ばかりでもよいとして公収条件を緩和した。あるいは売上四分買上八分、つまり両替商が南鐐二朱判を一両分売る時は買手に○・四匁の銀を余分に与え、逆の場合は両替商が売手から銀〇・八匁を余分にとるという方法で南鐐二朱判使用の優遇・奨励をした。これに付随して両替商も南鐐二朱判一〇〇両を小判一〇〇両と両替するにあたり、出し手から手数料として銀二四~二五匁を徴収したり、一〇〇両のうち二五両分は南鐐二朱判をまぜるといった行動をとるようになった。

 幕府の気長の努力もあって、この南鐐二朱判は初鋳以来ほぼ十数年経過して上方にも普及するようになる。実は元禄一四年(一七〇一)という昔に、幕府は西国・中国筋に金貨の流通を企図したもののなんの手ごたえもなく退散したことがあるが、このもくろみが南鐐貨という形態で実ることになったわけである。
 要するに原理としていえば、市場・変動相場によって評価される秤量銀貨世界にあって、金一両=銀六〇匁の公定固定相場で通用するという五匁銀のもつ矛盾がその存在を否定してしまっだのに対し、南鐐二朱判は、変動相場という引力の働く銀貨圈から離脱するために、当初から金貨圏に所属する貨幣であると規定されたことによって存在が可能になったのだが、それでもこのことが社会的承認をうるのに十数年の時間が必要であったということである。(中略)

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 「カネは丁銀」という根強い商人意識と、丁銀に比しての純銀量軽少とによって、南鐐二朱判は忌避され撰銭の対象として取り扱われたため、南鐐二朱判の普及は極めて緩慢なものとならざるをえなかった。だが幕府の忍耐強い対応もあり、権力との長期抗争が無駄と判断した商人は、南鐐二朱判を使用しだすや、通貨的便利さはもとよりのこと、その使用が促進されるどころか、「従来京都より西国は銀を尚ひ東国は金を尚ひ候風俗なるに、今西国筋二通用銀〔丁銀〕乏敷一分銀の悪幣と入代り」(海舟全集刊行会編『海舟全集 第三巻』)というように、それのみを用いて良質の丁銀と金貨を退蔵するグレシャム法則の行動をとることになる。その程度はといえば、南鐐二朱判の鋳造停止、丁銀の増鋳令の公布、丁銀・金貨の使用促進と隠匿の処罰を幕府に命じさせるほどであった。
 これが
   龍蔵が 出てきて桐 しまいやがれ
の川柳になる。龍蔵とは役者・嵐龍蔵のことで、彼の家紋の分銅から文政南鐐二朱判をさす。桐とは役者・桐島右衛門のことで金貨をさす。分銅・桐のいずれもそれぞれのコイン上の図柄である。
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  金貨世界にのみこまれた計数銀貨

 江戸期幣制の確立以来、両分朱の四進法体系をもつ計数金貨世界に対し、秤量貨幣として貫匁の十進法体系をもつ独自の銀貨世界が保持されていた。この世界の担当者である丁銀は江戸時代を通じて鋳造されていたとはいうものの、その絶対量は減少していき、またそれが流通界に顔を出すや、計数銀貨に比して良貨であったので、たちまちにして隠匿されるという現実であった。辛うじて手形上のみに銀X匁と記される(銀目手形という)だけで、その現物としての丁銀が皆無であったところから、これを銀目の空位化と称した。ことほどさように流通している銀貨は計数銀貨だけといっても大過はないようになった。
 それだけではない。計数銀貨はその名儀を金貨世界に吸収・統合されてしまった。以下の通りである。

 ㋑計数銀貨の前触れとしての五匁銀は、測量の労を省く便利な一種の丁銀として使用されるもので、終始重量によってのみ通用する秤量貨幣の色彩濃厚なものであった。

 ㋺つづく本格的計数銀貨も、二朱判は「以南鐐八片換小判一両」、一朱判は「以十六換一両」(狭小面積のための簡略文で、本来は以南鐐十六片換小判一両)の鋳銘をもっている。この場合の小判一両とは金貨のことである。銀小判が幕府から鋳造された事例はない。したがって南鐐二朱判の名称・金額は、鋳銘の示す対小判の量的関係から、計算を媒介にして間接的に金二朱の価値相当のものと認知・判定され、その価値物として強制通用力をもつものとなる。南鐐一朱判も同じ。そして幕府公文書が「此度通用之ため吹抜候上銀南鐐と唱候銀を以、二朱之歩判」と命名しているように、正式名称を南鐐「二朱判」とわざわざ金貨の名称をもってよぶものであった。判とは金貨特有の美称である。また換という文字そのものは交換を意味するものではあるが、幕府は交換することはもとより、その意思すらなく、「右判銀ハッヲ以テ金一両ノ積」つまり金貨そのものと心得、そのように使用せよとの意である。このように計数銀貨は実質的には金貨世界にのみこまれており、ただ銀貨自体に金貨の呼称の文字を直接にはもっていないということによって、辛うじて銀貨世界にも片足を入れているにすぎない。例えば南鐐二朱判は一両の八分の一にあたるわけで、公定レート・金一両=銀六〇匁を前提とすれば、銀六〇匁の八分の一である銀七・五匁相当の計数銀貨といえなくもない。

 ㋩ところが{}分銀」の銘をもつ天保一分銀にいたっては、このようないい逃れはできず、完全に金貨世界に所属してしまっている。一分銀はズバリ一分そのもの、すなわち一両銀小判はないのだから、金貨一分相当の銀貨という以外にはいかなる解釈も成立しない。より正確にいえば、一分銀は完全に金貨の価値によってのみ基礎づけられ、それを代理するものとなる。貫匁という銀貨特有の体系からの完全離脱である。また上銀係数を使ってまでの一両=銀六〇匁への配慮も全く無用

となる。ちなみにいえばこのT分銀出現の結果、これと区別のため、一分判などの小判以外のいわゆる小粒金貨群は例えば一分判を一分金とよぶようになる。
 重商主義政策を推進した田沼政権にとっては、金銀の二元的通貨制度が商業・経済の発展の桂枯となり、一元化の必要性を痛感させられるのだが、これを背景に右に展開した⑦○○の次第をふんでの計数銀貨の出現・流通により、商品価格が金貨表示価格へ統一の道をたどることになる。

 このことは時の経過とともに成熟していくのであって、慶応三年(一八六七)に幕府もついに三種の紙幣発行に追いつめられるのだが、そのいずれも金札であり、特に銀貨圈の牙城である大坂で兵庫開港金札を発行したことによってそれをうかがいしることができる。なお、大坂・兵庫のいずれもが摂津の国の都市であることをいいそえておきたい。
 あるいは明治新政府の丁銀・銀目手形の通用停止・表示禁止という慶応四年の一片の命令によって、加島屋作兵衛・天王寺屋五兵衛・平野屋五兵衛・炭屋安兵衛らの両替商への取付、その倒産が発生したものの、それはあくまでも局部現象であって、全体としての物価体系に大きな混乱を生じることも社会不安を惹起することもなく、法令の主旨は貫徹された。これが強行されえたのも、漸進的にして着実な丁銀の形骸化・空位化=金貨価格表示統一を果たしていたからである。換言すれ
ば計数銀貨の登場は、明治以降の円銭厘価格体系への序論としての、両分朱文価格体系への統合・統一を可能にしたということである。

 江戸期社会に実質的金本位制

 計数銀貨の意義の四つ目にあたるのだが、第二と第三で述べたものは形式・名目にポイントをおく考察であり、これを内容・実質から考察すれば以下のようになる。
 銀貨はその独自性を実体においても失い、素材価値ではなくてそれが帯びる極印での金額によって通用する。しかもこの通用の根源は丁銀に対するもので臆なくて金貨に対しての関係、つまり「金代り通用の銀」(『御用留便覧』)として、しかも金貨を価値の最終よりどころとして通用するものである。当局者も「金(原の貨にて、銀貨是に代りて、只極印而已に力あり。仮令に云(二紙或「革を以って造りたる極印の札に等し」と述べてこれを認めている。この発言は、荻原重秀の言
葉にある、国家が鋳造するものは瓦であっても行使しなければならないから、銅銭が薄くても紙よりましだから、これを忌避してはならない、との思想を発展させるのみならず、実に計数銀貨がもはや本位貨幣ではなくて、銀そのものの価値ではなく、法律によって規定される価値にて通用する定位貨幣であり、金貨に対する補助貨幣であることを述べるものである。

 明和南鐐二朱判について、松平定信派の意向にそうべく「田沼主殿頭へ仰度さるるの趣」との題で、彼の犯罪の一つに数えあげた文書がっくり出された。それがあげる罪状二六ヶ条の第一五は「南鐐銀の儀、表は八片を以て小判一両に換うと申す名目これ有り候得ども、全体姦揖の者の巧故、性方宜しからず、唯今にてはいよいよ怪しく相成り、中々八片にて小判一両に換え候儀、後々成るまじく候。これまた上より下を御欺き遊ばされ候に相当り候」という。これは補助貨幣としての合理性を理解しえず、一面のみを強引に誇張するものである。松平定信による南鐐貨鋳造の一時的中断はあったものの、再鋳開始、そして天保一分銀へとつづいたのはこの合理性あったればこそである。

 出目追求を原動力として出現した計数銀貨の登場は、それの金貨に対する補助貨幣としての機能から、ここに江戸期幣制は金本位制、より正確にいえば金塊本位制や金為替本位制に対する金貨本位制が確立されたことになる。明和九年こと一七七二年である。幣制の近代化がはかられたわけで、近代的通貨制度への展開がはじまる。ただし江戸幕府は、銀貨の補助貨幣化=金本位制を法制化することも公表することも一切せず、形式的にはこれまでと同じ金銀銅の三貨制度を建前としているので、ここにいう金本位制は正しくは、実質的あるいは事実上の、という言句を必ずつけなければならない性格のものである。
 ヨーロッパの事情を背景に形成された理論概念・カテゴリーを無条件にそのまま日本に適用する場合、それが科学の一部としてきたえあげられたものであるだけに経済の理解・認識に極めて有用であるものの、他方ではヨーロッパの風土が生んだ概念・カテゴリーから逸脱ないしそれに入りこまない江戸期幣制部分はこれを無視する危険がある。これをさけるためにも上記の金本位制とはあくまでも実質的金本位制であり、したがって以下で金本位・補助貨幣という場合にはそれが実質的金本位制・実質的補助貨幣の意であることに留意ねがいたい。ちなみにいえば新井白石が元禄金銀を改め慶長金銀の質量にもどすに際し、幕府財力からする急場をしのぐ方策として『改貨議』に兌換紙幣としての銀抄案を述べたのであるが、それが形を変えてここに実現されたともいえよう。

 補助貨幣というものは、本位貨幣さえ安定不動であれば、その素材内容の低下とは矛盾するものではないという特性をもつ。したがって幕府にとって南鐐貨は極めて安定した出目源になるものである。だが、この補助貨幣と規定する法律はおろか公表もない弱体銀貨が、その実力以上の価値物として流通しえたのはなぜなのか。いいがかりのような発言なのだが、実質的補助貨幣なるがゆえに、逆に南鐐貨はスムーズに流通しえたのであるが、その根拠・理由はなんだったのであろうか。

 大坂と江戸を結ぶ経済大動脈

 文政南鐐貨が文政七年(一八二四)に発行された時も、「明和南鐐が古くなって極印も擦りへり消え、また目方も重くて日常の持ち運びに不便であり、ましてや遠国へ送る場合はなおさらのことである(庶民にとっては全くいらぬお世話M)。したがって一枚につき〇・七匁減量で改鋳した」という綺麗ごとを述べたて実体をかくす奇妙な理由づけで、二・七匁から二・〇匁へと二五八-セントも軽くした。にもかかわらず文政南鐐が支障なく流通したのには、幕府の努力や計数銀貨の便利さもさることながら、なんといっても商品流通・貨幣経済の発展による通貨需要の増大によるところ大である。

・・・以下省略・・2022.04.26・・