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価値形態論-貨幣改鋳と日銀システム


 江戸時代の資本論
  徳川幕府の貨幣改鋳と出目政策
  —三上隆三「価値形態論」の形成過程(1)—

2022.08.15
       資本論ワールド編集部 はじめに

   貨幣改鋳ー江戸期貨幣制度の変容と
   
貨幣「価値形態」の混迷と日銀システム


  資本論ワールド編集部では、三上隆三の研究に学んで、『資本論』「価値形態論」の豊富化が必要である―との結論に到達しました。
 これまでわが国では「価値形態Wertformー貨幣形態」の実体分析と論理展開において、『資本論』日本語訳の「翻訳問題」とも絡んで、錯綜した研究者間の混迷が継続されています。「価値形態Wertform」は、「商品価値」の形式Form と形態(形態化)Gestalt が未分化のまま、渾然一体のまま日本語化されています。今日まで翻訳者と翻訳業界任せで、この100年以上も放置された結果、—— あるいはヘーゲル論理学の軽視/無理解の結果 —— 収拾不可能な事態に立ち至っています。

 翻訳の混乱と混迷の始まりは、明治~昭和期において、ヘーゲルとマルクスの日本語訳に端を発しています。
 ヘーゲルなどドイツ哲学で「形式」はForm、「形態(姿、目に見える形)」はGestaltです。またFormは、古代ギリシャ以来の永い伝統を有する「形相 エイドスeidos」に語源(注1)を有しています。これらの伝統を踏まえて「実体」概念を統合したヘーゲルは、古代ギリシャのアリストテレスに並び立つ歴史上の思想家として西洋社会で語り継がれています。
 一方、『資本論』などマルクス関連の用語で、Formは「形態」(「価値形態 Wertform」の「形態」)と翻訳され、戦前から定着しています。

 事態をさらに複雑化させたのは、マルクスが、ヘーゲルの哲学や学問上の後継者を任じていることから端を発しています。非常に難解なヘーゲルにあって、それに輪をかけて『資本論』の重厚な文脈が重なり、それぞれを読み通すだけでも一大事で、本音を言えば「お手上げ状態」です。
 このように「形式」や「形態」は、西洋古代社会を通じて宗教や科学思考を根底から支えるイデオロギーであり、諸科学言語の源泉の役割をになっています。


 江戸時代の資本論ー三上隆三「価値形態論」の形成

 さて、江戸期の金属貨幣ー金・銀・銅(銭貨せんか)は、徳川幕府の「三貨制度」が100年有余を経て、金属貨幣の「貨幣価値」実体が、ー金・銀・銅の実体—変容してゆきます。品質(品位)と重量(量目)との間で貨幣の額面表示する金額や内容が乖離し始める時代に突入します。いわゆる「名目貨幣」の登場です。
 幕府は財政危機への対応策として、品位と量目を貶質させた貨幣改鋳を行います。こうしたなか、銀貨は、秤量貨幣から計数貨幣へと変貌を遂げてゆきます。すなわち、名目貨幣化の浸透と銀貨を統合した金貨幣の金本位制度へとすすみます。
(以上、三上隆三「江戸の貨幣物語」から「価値形態論」の形成)


 ◆徳川幕府の出目政策と
   日銀・黒田総裁・政府の三位一体財政運営


 150年以上にわたり常態化された貨幣貶質(へんしつ)にあって、商品流通の銀遣いの上方や金遣いの江戸では、各階層の利害関係ー将軍家、大名、武士、商人、農漁民ーが複雑に絡み合った時代絵巻となっています。
 やがて貶質された貨幣改鋳の貨幣価値は、現代日本と同様に、物価問題として徳川政治の根幹を揺るがし始めます。貨幣制度の動揺は、社会システムの「価値法則」を阻害し、勤労国民の生存に多大な影響を及ぼします。現在繰り広げられている日本銀行システムによるー黒田日銀総裁と政府による現代版”出目”(紙幣発行の差益金)の財政運営は、元禄時代を暗転させた大地震と富士山噴火を思い起こさせることでしょう。
 2022.08.15 敗戦記念日



  付属資料
  貨幣改鋳と価値形式Wertform の変容  作業中です・・・・

              三上隆三「価値形態論」の形成前夜(新しいウィンドウで開く)

  Ⅰ 貨幣改鋳 ―― ヘーゲルにおける「形態化」と「過程」
  Ⅱ 江戸時代の資本論-銀貨幣と金貨幣の一元化
  Ⅲ 価値形態 Wertform と形式 Form の二重性(1)~(4) →HP2016.
  Ⅳ 価値表現の形式 ー 価値方程式 
  Ⅴ 鋳貨 価値標章(ek002-04-03)新しいウィンドウで開く
  
  資本論ワールド編集部
   

Ⅰ 貨幣改鋳ー社会の貨幣循環

   ―― ヘーゲルにおける「形態化」と「生命過程」

 1. ヘーゲルにおける「形態化」と「生命過程」
エンチクロペディ自然哲学
第3部 有機的な自然学

§337
 物体の実在的な統合が無限な過程として成り立つ場合には、個体性は、自分を特殊性すなわち有限性へと自分を規定しはする。同時にまたこの有限性を否定して自分自身のうちに帰り、過程の終わりで自分をふたたび始めの状態へと復活させる。したがって、このような統合は、自然が示す最初の観念性への高揚である。しかしこの統合はすでに、満たされた統合であり、本質的に、自分自身へと関係する否定的な統一として、自己としての主体的な統合である。したがって理念は、すでに現存へと到達している。まず差し当っては直接的な現存に到達している。すなわち、生命に到達している。
 A 生命は、形態すなわち生命の普遍的な形姿としては、地質学的な有機体である。
 B 生命は、特殊な形式的な主体性としては、植物的な有機体である。
 C 生命は、個別的な具体的な主体性としては、動物的な有機体である。

 動物的な有機体がはじめて、形態化の区別の中で展開される。これらの区別
されたものは、本質的にただその有機体の肢体としてだけ現存する。またこの
ことによって有機体は、主体として存在する。生命力は、自然の生命力として
は、不特定の多数の生きたものへ分裂している。これらの生きたものは、それ
自身の側で主体的な有機体である。これら生きたものが一つの生命、一つの有
機的な生命体系であるのは、ただ理念のうちでのみである。

  A 地質的な自然

§338
 最初の有機体は、それが差し当って、直接的な有機体、すなわち、自体的に存在する有機体として規定されている以上は、生命あるものとして現存するのではない。生命は、主体であり過程であるから、本質上、自己を自己自身と媒介する活動なのである。主体的な生命から見れば、特殊化の最初の契機は、自己を自己自身の前提とすることであり、こうした自己自身への直接性という様態を与え、この様態のなかで、自己にとっての条件たるものを、外面的な存在として自己に対抗させることである。・・・これが、個体的な物体の普遍的な体系としての地球という物体である。


 B 植物的な自然

§343
  有機体をして個別的なものたらしめる主体性は、客観的な有機体へと、す
なわち、形態へと発展する。形態とは、相互に区別されている部分へ分節する肉体である。植物においては、すなわち、ようやく直接的な主体性であるにすぎない生命力においては、客観的な有機体とその主体性とは、まだ直接的に同一であって、そのため、植物的な主体が行なう分肢の形成と自己保存は、自己の外へ出ることによって様々な個体へ分裂することであり、これらの個体を総合する単一な個体は、これらの個体にたいしてはむしろ、分肢の主体的な統一としての基礎にすぎない。・・・・

§345
 しかし植物は、有機的なものである以上はやはり、抽象的な形成物(細胞、繊維等々)と具体的な形成物とに分かれ、これらは互いに区別されるのであるが、しかしこれらの根源的な同質性は、依然としてそのままである。植物はまだ個体性から主体性へと解放せられていないために、その形態はやはり、幾何学的な形式と結晶的な規則性とに近い段階にとどまっており、その過程の所産となると、これは、化学的な所産にいっそう近づいている。
 ゲーテの説く植物のメタモルフォーゼ変態は、植物の本性に関する理性的な思想の端緒をなすものであった。

§346
 生命力である過程は、単一な過程でありながら、同時に、3種の過程へ分離する。
 (a)形成〔形態化〕過程、すなわち、植物が自己自身へ関係する内面的な過程は、植物的なものはその本性が単純であるために、それ自身ただちに、外部へ関係することと外化とである。この過程は、一方では、実体的な過程、すなわち、直接的な転化であって、この転化は、まず、補給された栄養を、植物という種類に特有の本性に転化することであり、つぎに、内部で同化された液(乳液)を様々な形成物へ転化することである。


 C 動物的な有機体 〔『資本論』社会的生産有機体〕

§350
 有機的な個体性は、主体性として現存する。ただしそれは、形態の固有の外面性が分肢へと観念化せられ、有機体が、外へ向かうその過程において、自己的な統一を自己のうちに獲得するかぎりにおいてである。これが、動物の本性であって、動物の本性は、直接的な個別性の現実性と外面性のなかにありながら、同時にこれに対抗して、個別性の自己が自己のうちへ反照したもの、すなわち、自己のうちに存在する主体的な普遍性なのである。

§352
  動物的な有機体は、いける普遍性であるから、概念である。概念は、推論として、概念の三つの規定を経過するのであるが、これらの推論は、いずれもそれ自体、実体的な統一性を持った同一の統体性であり、同時にまた、形式規定のうえから見れば、他の推論への移行である。したがって、現存するものとしての統体性は、この過程の成果として生ずるのであって、生命あるものは、このように自己を再生産するものとしてのみ、存在し、自己を保持するのであって、存在するものとしてではない。生命あるものは、自己を自己が現在あるところのものたらしめることによってのみ、存在するものである。

 有機体を考察する場合は、
(a) 個体的な理念として、すなわち、その過程において自己自身との関わり、自己自身の内部において自己を自己と連結する個体的な理念として― これが形態である ― つぎに
(b) 己の他者と、すなわち、己れの非有機的な自然と、関わり、この自然を観念的に自己自身のうちへ措定する理念として ― これが同化である。― 考察しなければならない。
(c) 有機体はまた、理念、ただしそれ自身生ける個体である他者と関わり、したがって、他者において自己自身と関わる理念、である。― 
これが類の過程である。
  
  a  形態

§353
 形態とは、単に自己自身にのみ関係する総体としての動物的な主体である。このような主体は、概念とその発展した、したがって、いまやその主体のなかに現存している規定とを、主体そのものに即してあらわしている。

§356
 形態は、生命あるものとしては、本質的に過程であるが、ただしそれは、かかるものとしては、抽象的な過程、すなわち、自己自身の内部における形成〔形態化〕過程であって、有機体は、この過程のなかで、己れ自身の分肢を非有機的な自然、すなわち、手段と化し、自分自身を糧とすることによって、自己を、すなわち、分節するこの統体性そのものを生み出すのである。


Ⅱ 江戸時代の資本論-銀貨幣と金貨幣の一元化
Ⅲ 価値形態 Wertform と形式 Form の二重性
Ⅳ 価値表現の形式 ー 価値方程式